第三話:いるはずのない人
流石に泥棒の類いじゃないだろうな。俺が寝ているとはいえ、堂々と明かりを付けて行動はしないだろうし……。
そんな事を考えつつ、足音を立てないようこっそりとドアまで近づき、音を立てないようドアを少し開けた瞬間。ふわっと香ったのはどこか香ばしい香り。
……これ、魚を焼いている?
ドアの隙間から恐る恐る顔を出すと……キッチンに向かい、何かをシャリシャリと磨るような音を立てている、誰かの後ろ姿が見えた。
……合間にあるカウンター代わりに使ってるテーブルのせいで、上半身しか見えない。
でも、それだけで俺は誰だかすぐわかった。
最近見慣れた金髪。
さっき一緒に出かけた時と同じ服装に、エプロンをしたその姿は──。
「近間さん!?」
驚き声に何かを磨る音が止まると、彼女が上半身を捻りこっちに神妙な面持ちを見せた。
「あ、遠見君。体調は? 頭痛いとか、くらくらするとかしてない?」
矢継ぎ早の質問。
また少し汗は掻いている。
頭が痛いとか重いとかはない。
身体はまだ少し重いけど、意識も意外にしっかりしてる気がするし、寝込んだ時よりは随分楽かな……って、そうじゃない。
「あ、うん。それは大丈夫。それより──」
「良かったー。とはいってもぶり返すかもだし、まだ油断はダメだけどねー」
眼鏡の下の彼女が、安堵した顔に変わる。
それを見てこっちもほっとはするものの、俺の疑問が晴れた訳じゃない。
いや、だって。
俺は昼間にお開きにしようって伝えたし、夕方彼女の姿なんてなかった。
それなのに、何で彼女はここにいるんだ?
卸していたであろう大根をまな板に置き、軽く手を洗った彼女がタオルで手を拭くと、くるりとこっちに振り返り歩いて来た。
「冷えピッタンは取れちゃったかー。遠見君。ちょっと前屈みになれる?」
「え? あ、うん」
頭がまだ混乱している中、出された指示に自然に返事をして、少し前屈みになってしまう。
と、瞬間、少しだけ冷たく感じる何かが額にぴとっと触れた。
……目の前にある眼鏡。
じっとこっちを見上げる真剣な顔。
彼女の額は俺の額に触れて……ってこれ、また額を付けてる!?
「うーん。まだちょっと熱あるかなー。もうちょっと安静にしとかないとだねー」
熱を確認し納得したのか。彼女の顔が自然と離れるけど、代わりに俺の心臓がバクバク言い出し、顔が少し火照ってくる。
「いーい? 濡れてるパジャマはまた着替えちゃって。なかったら私服でもいいから、あったかい格好してね。ベッドのシーツの替えとかある?」
「あ、えっと、寝室の押入れに──」
「おけおけ。じゃ、ご飯できたら遠見君食べてる間にぱぱっと替えておくね。一旦それまでベッドに戻って温かく──」
「ちょちょちょ、ちょっと待った!」
混乱に混乱が重なってパニックになりそうになった俺は、思わず近間さんを制した。
「何? どうかした?」
「どうかしたじゃなくって! 今は夜だよね?」
「うん。八時過ぎ」
「だよね? そんな時間に、何で近間さんが家にいるわけ?」
「勿論。遠見君を看病する為」
「いやいやいやいや。今日はもうお開きでいいって話したじゃない。で、近間さんも受け入れて帰ったよね?」
「うん。一旦はねー」
平然と話していた近間さんの顔に真剣さが帯びると、じっと俺の目を見つめてきた。
「でも、家に帰ってから急に不安になっちゃったんだよねー。遠見君に何かあったらどうしようって」
「どうしようって……。たかだか風邪じゃない」
「風邪だって悪化したら肺炎とかになったりするんだよ? それに一人暮らしだからこそ、意識失ったりして救急車を呼んだりできないかもしれないじゃん」
「お、大袈裟だよ」
「大袈裟じゃないっしょ!」
彼女はピシャリとそう言い放つと、少しムッとする。
「いーい? うちのお父さんだって病気で亡くなってんの。勿論、それは風邪から悪化したってわけじゃないよ? でも、今回の事ってあたしも関係してるわけ。昼間も言ったけど、それでなくても遠見君は特別な友達なの。そんな相手に何かあったら、あたし絶対やだし」
「え? 特別な、友達?」
さらっと口にされた近間さんのお父さんの話より、俺はそっちの言葉に戸惑い、そう復唱してしまった。
彼女はそれに対し、迷いなく頷く。
「そう。もうあたしにとって、遠見君はただの友達じゃないから。だからお母さんに事情を話して看病する許可ももらってきたし、明日の別の友達との予定はキャンセルしてきたから。流石にそっちは、弟が風邪引いたことにしたけどねー」
真剣だった表情が、最後の一言でにこっとした笑みに変わる。
正直、特別な友達って言ってもらえたのは、ちょっと嬉しかった。まだ友達になって間もない間柄なのに、そこまで想ってくれてるってことに。
でもそういう意味じゃ、近間さんは俺にとっても初めての友達なわけで。
大事だからこそ、心配だってする。
「でも、風邪がうつったら……」
「それはそれ! あたしが帽子を飛ばされたからこうなったわけだしー。その時は一蓮托生っしょ」
「そ、そう言ったって、俺男じゃない。お母さん絶対心配するでしょ?」
「勿論最初は心配したよ? でもあたし、できる限りの事話して、納得してもらったから」
……え?
「話してきたって、何を?」
「そりゃ、バイトばれしたのに、あたしの事心配して話さないでくれてる事とか。今日あたしの帽子を取ってくれたせいでこうなった事とか。遠見君が誠実でしっかりした優しい男子だからって話もしたら、ちゃんと納得してくれたよ」
……いやいや。それでも一人暮らしの男子の家だろ? 流石にそれは、近間さんのお母さんが寛大すぎないか!?
そう思うものの、彼女が嘘を吐いてここに来たとは思えないんだよな。
実際そういうのって、俺が電話で話させてもらえば確認できちゃうわけだし。
「……ねえ。遠見君ってさ。あたしに看病されるの、嫌だったりする?」
俺が冴えない顔のままだったのが気になったのか。
不安げな顔で、上目遣いに俺を見る近間さん。
……うーん。看病されるのは迷惑掛けている気にはなるけど、それ自体がそこまで嫌ってわけじゃない。
ただ、困った顔をしたのには、勿論それだけの理由があった。
「えっと、その……看病自体は、嫌じゃないんだけど……」
「ほんと? ほんとにほんと?」
「う、うん。それ自体は」
そこを敢えて強調した俺は、安心したのか、急にキラキラしだした彼女の瞳を見るのが恥ずかしくなり、視線を逸らす。
「ただ、その……」
「その?」
「えっと、近間さんの距離感に、ちょっと困ってる」
「え?」
少し驚いた顔をする近間さんをちらっと見た俺は、心を決めて話し始めようとした──んだけど。
そんな会話を遮る、何か焦げくさい臭いが……。
「あっ! やっばっ!」
口に手を当てより驚いた彼女は、慌ててキッチンに舞い戻って行ったんだ。




