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桜雲館の紅姫【完結】  作者: 可燃性
終のこと『桜雲館の紅姫』
133/134

133「頼ってください」

 姫綺(ひめあや)は最後にもう一度だけ(こう)にホットミルクを淹れて、その場を辞した。

 なんともいえない空気のまま、膠は風呂に入り――これは争いの元になるため、ひとりだった――、床に就こうと寝台に向かった。そして寝台の周囲で手持無沙汰そうにしている彼らを見て、ふと己を省みた。

 ――膠が彼らの体液を要するのは、ひとえに<紅姫>に快楽のすべてを仮託したからである。

 要するに<紅姫>自身が性的に奔放だったのだ。

<紅姫>となった膠自身は好悪の感情を持っていないが、得手不得手で言えば後者だった。手先は壊滅的に不器用で、褥で相手を煽るような気の利くような台詞も言えない。でも紅凱(こうがい)紅錯(こうさく)も熱心に――と表現するのはおかしいのかもしれないけれど、だいぶ熱心に膠を昂らせてくれた。

 ありがたい、と思う。同時に何のお返しもできない、と落胆もする。

 膠に戻った今、めっきりとその回数は減っている。三人もそういう膠の様子を察しているのだろう、添い寝すら、一旦膠に訊ねてくるくらいである。いつもは膠が何も言わずと、両隣が争奪戦になるというのに。

 ――実際問題、膠の体は『魂』でのみ満たされ、そして『器』を維持するためには交わりは必須である。膠は既に多量の『魂』を食らっているから『器』は交換できない。

 畢竟、どこかのタイミングで身を明け渡す覚悟が必要なのだ。

 己が生きるためには。


「……」


 逃げ続けても意味はない。いつか向き合う現実だ。

 別に襲われるわけじゃない。ただ愛されるだけ。

 愛される量がひとよりも少し、多いだけ。

 膠は深呼吸した。そして、おもむろに内側に着ていたワンピースを脱いだ。布きれのような下着も取り払い、赤い着物だけを羽織って寝台に近づく。仰向けに倒れ込んだ。

 仮初の心臓が鼓動を打つ錯覚がして、顔から火が出そうだった。


 驚いたのは三人だ。突然脱いだかと思えば、早足で寝台にダイブしたのだから。

 唖然となりつつも、枕に顔を埋めて微動だにしない膠を窺う。膠は枕を抱き締めるようにして顔を隠していた。


「……膠さん?」

「……」

「……膠?」

「……」

「……膠君?」

「……なんだよ」


 もごもごと膠が返した。


「なんだよ、って言われても。正直こっちの台詞ですよ。服着ないとさすがに寒いと思いますよ」

「そうだぞ、膠。体に不調が出るからせめて服は」

「膠君」

「……ッ」


 膠が枕から顔を覗かせる。それを見た三人は息を呑んだ。

 頬には紅が差し、銀が瞬く夜の色は露に濡れている。

 三人は視線を彷徨わせ、互いに強く頷き合う。目が合えば大概喧嘩をしている凛龍(りんりゅう)と紅凱でさえも、この状況をどちらに捉えるべきかわかりかねている。

 ――期待してよいのかどうなの、か


「……膠さん」


 凛龍が膠の肩に触れる。小さく、膠の体が震えた。

 怯えているのか、恐れているのか。反応だけで悟れるほど、凛龍はまだこの膠を知らなかった。


「あの……えっと。……もしかして、……さそ、ってま……す?」


 我ながら臆病な聞き方だと自嘲したが、天敵たる紅凱からのお小言はなかった。彼も測りかねているのだろう。膠からの返事は遅かった。

 間違えたか、とどう言い訳するかを凛龍が考えているところで――


「…………そうだけど」


 か細く、小さな声が、凛龍の問いを肯定した。

 一気に三人の目の色が変わった。


「……膠さん、あの」

「……膠」

「膠君……♡」


 恐る恐ると言った風でありながら、確実に興奮を孕んだ三者三葉の呼びかけに膠は観念したとばかりに上体を起こした。ふう、と息を吐く音が暗がりに溶けていく。

 振り返った彼女は、眦を下げた。


「……言っておくけど、俺は全く器用じゃない。あと、動くのも下手。誘うような、……その、色っぽい台詞も言えないよ。……それでもいいのなら、どうぞ?」


 小首を傾げて問うてくる膠に、三人とも胸中で深い溜息をついた。


 ――その物言い、その仕草だけで充分の効果を発揮していることを、彼女だけが知らないのだ。


 ◇


「……俺の体、繋がっている……?」

「大丈夫っす、完全ですよ」

「四肢は無事だな」

「はぁ~、膠君の髪の毛ぇ~♡」


 膠は動けなかった。体を起こすも億劫だった。よくもあれで何戦もできたものだと、<紅姫>に拍手喝采である。


(あの子なら、慣れれば大したことないよとか言いそうだな……)


 関節の節々、腰のあたり、あと顎。それらが酷使されたがゆえにだるさが残っている。痛みはなかった。


「マジで大丈夫ですか? 水、もうちょっと飲みます?」

「大丈夫……」

「痛みはないか?」

「それも平気。手を貸してくれる? だるくって」

「ああ」


 紅錯の手を借りて、膠はその場に座った。未だに自分の髪の毛に頬擦りする紅凱に一瞥し、膠は嘆息した。


「お前さあ……。なんで、そんなに俺の髪の毛好きなの?」

「え? 何をおっしゃいます、私は膠君を構成するすべて愛しております。髪の毛はもちろん、その目にお口、お鼻、白くまろい頬に筋の浮いた首……ああ、あと――」

「いいッ、いい!! やめろ、それ以上しゃべるな」


 嬉々とした語る紅凱を膠は必死に制した。彼は不満げに唇を尖らせ、「えぇ……まだ全部言ってませんよお……?」と文句を言ったが、「そんなもの、言わなくていい」と膠はすげなく返した。


「でも膠君、本当にお体大丈夫ですか? 痛みはなくても違和感とか……」

「違和感は別に……。痛みは、感じないんだ。知っているだろ、俺の痛覚ほぼ死んでいるの」

「ああ……そういえばそんなことを」

「え? 痛覚死んでるって……?」


 紅凱は合点がいったようだったが、凛龍の頭上には疑問符が浮かんでいた。「そっか、話してなかったね」と膠は口を開く。


「俺たちは『呪式(じゅしき)』の反動で体に痛みが走るんだよ。それも激痛……死にそうなくらいの痛みだっていうのに、死ねないのが最大の皮肉なのだけれど……。そんなの生まれながらに背負い続けていると勝手に慣れてきてしまうんだよね。死空(しくう)一族での扱いも酷かったし、自分の身を守るためっていう意味でも痛みに対してかなり鈍感になるんだ。〝命を諦めろ〟〝死こそ救い〟なんて考えているのに」

「……」


 凛龍はなんといっていいかわからない、という表情をした。膠は「『呪式』の詳細は死空によって隠蔽され続けていたからね」と彼に対し気を遣うように笑った。

 遠い過去――もう戻りたくはないかつての自分の話。


「『呪式』は使わないと肉体の呪いが溜まってしまうから定期的に使わないと……、誰とも知らない他人を呪わなくちゃいけないんだ。『狗神(いぬがみ)』として生まれてしまった(さが)だから、もうこればっかりは諦めなくてはいけないことなのだけれどね……」


 膠は膝を抱えた。

 よくこうして檻の中で痛みに耐えていたなあ、と思い出した。


「痛いのには平気になった。でも、どうしても……犯されることを心が理解しなかった。このままだと俺が壊れると思った。そうしたら声が聞こえて、<紅姫>がいたんだ」


 正気ではない男たちに組み敷かれ、自分の体を好き勝手にされる恐怖。

 恐れなど持ち合わせていないと思っていたのに、心は大いに怯え、嘆き、そしてヒビが入った。

 そのヒビに手を添えるように、<紅姫>は現れた。


 ――大丈夫?

 ――俺が、代わりになってあげる


<紅姫>にすべてを託すようになって、膠の心はだいぶ楽になった。

 楽になると同時に、彼女のほうが生きるに相応しいのではないかと考えるようになった。

 人生が巡るたび、その考えは膠の心に深い根を張った。誰かに好意を寄せられるたび、膠は怯えた。

 応えられない、失望させてしまうのでは、嫌われたらどうしよう。

 今にして思えば天が落ちるような心配であったけれど、その時の膠には本当に空がそのまま落ちて来てしまいそうな不安があったのだ。


「まあ、怖いっていうのは気持ち、わかりますよ」


 凛龍が膠の髪を指で梳いた。

 指通りの良い真っ白な髪はもともとその色をしていない。心的負担(ストレス)の重なりで、膠の髪の毛は藍色から白に変貌しているのだ。

 凛龍の言葉に膠が「そうなの?」と小首を傾げて訊ねた。彼は息をするように「かわい」と口にしてから、「俺も怖かったんで」と続けた。


「……どうして?」

「だって、アンタが俺のことなんも思ってなかったら、俺自分がどうなってたかわかんねーし」

「……」

「アンタを見た時さ、本当に。父さんの言っていた〝()()()、……てくるんだよ〟ていうのが、わかったんだ。マジで雷落ちた」

「……そう」


 あっけらかんと語る凛龍に対し、膠がじわじわと頬が熱を帯びるのを感じていた。


「アンタって目ぇきれーだよな。くりくりっとしてて、なんか小動物みてえ。猫っぽいんだけど……あーでもリスって感じもする」

「……」

「庇護欲駆られるっつうんだっけ……こう、守ってやりたいって気持ちにさせるよな。でもやだって言って邪険にすんの、すげえかわいい」

「……凛龍?」

「なに?」

「……君ってそういうとこ、お父さんによく似ているよね……」

「そういうとこ?」

「……恥ずかしげもなくそういうこと言わないでっ! ……慣れてないんだって」


 膠は耐えられなくなって抱えた膝に顔を埋めた。

 面と向かって堂々と褒められる経験は以前の人生でだって何度もしたけれど、恥ずかしかった。

 膠の反応に凛龍は満足そうに笑った。


「わかってて言ってる」

「……ッッ!!」


 意地の悪い笑みを浮かべる凛龍に、膠は怒る気力はなかった。普段なら口を挟んでいるであろう紅凱も今回は不問に付すつもりなのか、呆れた顔のまま無言だった。


「そういや、思い出したんですけど」

「うん?」

瑠々緋(るるひ)に会ったとき膠さん……つうか、<紅姫>の顔がそっくりだって思ったんすよね。今は全然違うように見えるけど……あれってなんだったんだろ」


 凛龍が顎をさすりながら回想する。あれは確か、姫綺に会って瑠々緋が動き出したからとその現場に急行したときのことである。

 笑う姿が似ているから息を呑む凛龍に対し、瑠々緋は嘲笑するように教えた。

 ――あれは私の真似をしているのです。愚かでしょう? 望んだ姿が私にそっくりだなんて

 ――自分を呪い続けた結果です

 そのまま膠に伝えると「身近にいい女の見本がいなかったからね」と彼女は答えた。「いい女の見本?」


「そう。女性らしい女性って、瑠々緋……死空くらいしかいないもの。俺たちはみんなガリガリだし」

「……」


 言葉を失う凛龍に膠は「仕方がないんだよ」と疲れたように笑った。


「俺は俺が嫌いだった。違うモノになろうとしてお手本にする存在が瑠々緋しかなかったんだ。だから姿かたちが似てしまったんじゃないかな。今はもう俺と……あの頃の緋乃神(ひのかみ)膠とひとつになったから、その影響も少ないんだと思うよ。<紅姫>はもともと、自分が嫌いな俺にとって都合のいい現実逃避みたいなものだったから」

「……そう、なんすね……」

「自分を辱めた相手の物真似なんて呆れてしまうけれど、そうすることで俺は俺自身と<紅姫>を意図的に乖離させることに成功していたんだ。今思うとストックホルム症候群みたいなものかもね」


 ストックホルム症候群――被害者が犯人との間に心理的なつながりを築くことをいう。

 長時間飼い馴らされ続け、無意識のうちに瑠々緋に憧憬や好意に似た感情を抱いていたのかもしれない。今になってはもう、真実どうかはわからない。遠い過去は宝石であろうと、無機物であることには変わりないからだ。

 膠の哀しげな笑みを見て凛龍はたまらず、彼女を横から抱き締めた。


「……まだ、自信はないんだ」

「<紅姫>としての、か?」


 紅錯の問いに膠は首肯した。凛龍がそっと彼女を離す。

 託していたすべてを自分はうまく行えるだろうか。いざ眼前に『錠前』が揃ったとき、馬鹿馬鹿しいほどに心臓が早鐘を打った――気がしたのだ。喉もからからに乾いたし、神経が強く引っ張られるような緊張も感じた。


「膠君」

「……うん?」

「膠君はすぐ私たちのことを忘れてしまいますね」

「……あ」


 紅凱が膠の手を取った。髪の毛は堪能し終えたらしい、今度は小さな手を大きな両手で挟み込んで胸元へ導く。


「なんのための、<三結界>なのです。……それに、私たちはあなたの夫なのだから」

「……あ」

「頼ってください、存分に。甘えてください、盛大に。すべて、受けて止めます」


 決意の宿った赤色と金色の目は、この上なく美しく、真摯に膠を見つめていた。

 やさしさが手のぬくもりを介して、伝わってくるようで、膠はわずかに頬を緩ませた。


「……うん……。ごめん、……ありがと」

「いいえ。いいんです、卑屈も自己嫌悪も私たちは受け入れますから」


 膠は三人の顔を見渡した。

 それから、目を瞑る。


 ()()()()()()()

 けれど、膠も、膠以外の彼らも()()()()()()()

 あたたかさはずっとそこにある。

 膠を取り巻く誰もが、ぬくもりだけは失わなかった。


 誰かを想う心がある。

 その心に手を添えて、守ろうとする誰かがいる。


 ならば、自分のすべきことはなにか。

<紅姫>たる己の使命を全うすること。

 自信がなかろうが、不安があろうが、関係ない。

 それを望んだのは間違いなく膠自身で、それを成したのもまた膠本人である。

 だからこそ――、

ストックホルム症候群についての記述はWikipediaを参照しています。

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