131「猫なもので」
「またいつでもいらして」
「……また」
ふたりに見送られ、膠は『一時堂』を後にした。それから『緋紅楼』の外れにある、小高い丘の小さな家を見つめた。
「……彼らのところにも行ってあげないとね」
『緋紅楼』での通信手段は手紙だった。だが『外』とは一線を画すこの世界において言葉は『言霊』となり、読む側に大きな害を及ぼす可能性がある。それを封じるのに、交わされるすべての手紙には、様々な表情をした、猫の顔の消印が捺されている。その消印を捺す作業を行っているのが『赤猫郵便局』だった。
木製の看板には手書きで名前が書かれており、ついでと言わんばかりに猫の足音が縦横無尽につけられていた。作成途中で踏み入った『配達員』がいたのだろう。
膠が近寄ると看板付近で丸まっていた数匹の『配達員』たちが起き上がって、物珍しそうに膠を抱きかかえる紅錯の足元に集った。
『あれえ、だれ?』
『なに言ってんだ、<紅姫>さまだよ!』
『べにひめさまー』
『主様の御用かしら』
『にゃあにゃあ』と次々に口を開くものだから、膠も紅錯も困惑した。止めにかかろうとするもそれすら鳴き声に消されてしまって、用向きを伝えられない。
進まない会話を続けていると、不意にがら、と戸が開いた。
「……ん」
ピアスの銀色が無数に輝く赤い耳がひょっこりと顔を出す。
耳と同じ色の頭髪に、星を宿した夕焼け空の瞳。全身に白を纏いながらも、首につけた大ぶりの鈴が光る組み紐は鮮やかな青色だった。袖に隠された手で戸を押し開き、半身を露わにした彼は絹夜。
『慈母』のために奔走したひとりである。
「やあ、絹夜。ごめんね、ちょっと顔を出そうかと思ったら」
「……ん。……ああ。……お前たち。……だめ、だ」
絹夜が小股に走り寄ると、猫たちはぱらぱらと元の位置に戻った。あくびをして寝ようとするものもいれば、看板の傍に飽きたのかどこかへ行ってしまうものもいた。自由気ままである。
紅錯に抱き上げられている膠にとって見下ろす位置にある絹夜の頭は、太陽光できらきらと光った。彼の肌に浮かぶ金魚の鱗に似た色彩だ。美しいそれに思わず膠が目を細める。
「ありがとう。……零雨は戻っている?」
「……ん」
こくん、と絹夜は頷き、ふたりを中へ招き入れた。
◇
零雨の仕事場は二階だ。頭を割られ、新たな『器』を与えられ癒着して間もない――というのに、零雨はもう仕事をしている。働き者というよりもやや仕事中毒気味で心配だった。
絹夜が襖越しに声をかけると、数秒遅れて「どうぞ」と返事があった。
螺鈿の頭部がぐるりと向きを変える。薄氷色の目が、膠の夜空とかち合った。
「……ああ、膠さん。……え? 膠さん?」
零雨は眼前の状況を把握するのに、少しばかり時間がかかった。絹夜を見たり、文机に置かれた大量の手紙を見遣ったり、床に積まれた手紙を意味もなくめくったり、そんなことを繰り返して徐々に理解する。
<紅姫>が目の前にいる、と。
零雨は頭を掻いた。腕を組み、それから、
「……どういうことです?」
あまりに神妙な面持ちで問うものだから、膠は我慢できずに破顔した。自分も零雨たち『錠前』同様外に出るのだと伝えると零雨は「……なるほど」と腕を組んで事情を呑み込んだ。
「膠さんが決めたことに俺が様々言うことはありません。それに」
「ん?」
「俺は俺の役目をやり遂げた、と思っています。これ以上の謝罪の言葉は不要です」
膠は目を見張った。
確かに彼に対し謝罪の気持ちがないと言えば、嘘になる。だが、膠がここを訪れたのは謝るためではない。
「いや、違うよ。俺は君に礼を言いに来たのさ」
今度は零雨が瞠目する番だった。そして、緩やかに表情を笑みに変える。
「ありがとう。君のおかげで獄も銀龍も帰ってきた。……俺もね」
僅かな沈黙を置いて、零雨は「……本懐を遂げられたのであれば」と満足そうに言った。
「計画は姫綺……いや、綺光から?」
探るように膠が問うと、零雨は深く頷いた。隣では絹夜が赤い猫の姿になって丸まっている。彼も十二分に理解している内容であろうから改めて聞く必要もないのだろう。膠も特に気にしなかった。
「ええ。『慈母』の疲弊は世界の均衡を崩す、完全に壊れる前に再構築するべきだ――と。最初はなんのことだかさっぱりでしたが……。聞いていくうち、危機に瀕しているということはわかりました」
「それで……協力しよう、と」
「絹夜も『言霊』が良い方向に使われるのであれば、と意欲的でしたから。俺も、安寧を求めていたので……」
零雨は視線を落とした。彼の生前について、膠は詳らかには知らない。だが、ここにあるということはつまりそれだけ生きてきた道筋に未練がある証左である。未練こそ膠たちを縛り付ける鎖であり枷だ、なければとっくのとうに転生して違う人生を歩んでいるだろう。
でも、それができない。想像ができないのだ、全く違う人生を歩む自分の姿が。彼らと出会っていない自分の――その影も形も、微かにでさえ思い描けない。
だからこそ<紅姫>は『緋紅楼』を創り、同じように未練を抱える彼らの居場所を作った。
「……『言霊』、か。聞いたよ」
「この子はそれでずっと友人らしい友人ができなくて。気にせず友人でいてくれたのが龍善君だったんです」
零雨が丸まった絹夜の背中を撫でながら言った。
彼のたどたどしい物言いをあるものは苛立ちを覚え、あるものは奇異の目で見た。
他人と違うことを個性としてひけらかしている――なんて謂れのない噂を立てられて、絹夜は友人ができなかった。でも龍善は違った。否、龍善は同じだった。
彼もまた、背負った過去が他人を遠ざける要因になっていた。
「龍善については……まあ、ほんのりと知っているよ。キレると……その。手がつけられないそうだね」
「ええ。俺は一度として見たことはありませんが……片鱗くらいは。家庭環境が良くなかったんでしょう、俺たちはみんなそうです」
――彼らはみんな、『家族』というものに毒されているんだよ
四人を迎え入れた時、狂輔が冗談のように言った。しかし過去の断片を覗けば、その表現は納得できた。
家族という牢獄。血縁という鎖。
零雨も壱多も龍善も絹夜も皆、ある意味被害者であり、同時に加害者だった。
罪と罰。どちらも背負った彼らの人生は、この時間だけで語り尽くせるものではないだろう。
「……でも、君たちは『家族』になったんだね」
膠が言うと、零雨は静かに笑って絹夜を見遣った。彼はすっかり寝入っていて、腹がやわらかく上下していた。
「……毒は薬にもなりますから。……でも結局、毒されたまま死ぬことにはなりましたが。絹夜は俺の腹の中に、俺は首を吊られ、壱多と龍善は心中した……」
「……」
「不幸であったとは思いません。でも……。幸福とも思っていないから、ここにいるんです」
「それは俺も同じだよ。……みんな、同じさ」
膠は自身の胸に手を当てて、俯いた。
犠牲なしで得られるものは少なく、そして犠牲あっても得られるものが多いとは限らない。
膠は痛感していた。己のことでも、そのほかのことでも。
<紅姫>を通して様々な事象を傍観していた。
生きているうちに溜め込む欲望は果てしなく、そしてそれらを叶えるには人間の人生はあまりにも短すぎる。
だから縋る。だから望む。
手を伸ばせる場所に願いを叶える最短の道筋があるのなら、求める。
罪でもないし、罰ですらない。でも、叶えた結末がなにかしらの罪業を生むこともある。
堂々巡りの螺旋。
もと来たところに戻るかもしれない、命を懸けた博打。
何も変わらないかもしれない、運命盤の回転。
膠はそれらをすべて、外から自由に操作できる特異な立ち位置にある。
火の粉を絶対に浴びない対岸で、選んだ結果が燃え上がるのを見つめている。
いつだって<紅姫>は笑っていた。これから膠は笑えるだろうか。
「……膠さん?」
「!」
無意識のうちに思案に耽っていたようだ、零雨が不思議そうにこちらを見つめていた。
膠は「なんでもないよ」と首を振った。
「今更過去の話をさせてしまった、ごめんね。お礼を言うだけのつもりだったのに」
膠が自嘲気味に言うと、零雨は「お気になさらず」と笑った。
「普段あまりお話できませんから。それに……時折思い出さないと、忘れてしまいそうになるので」
自分が、何であったかを。
零雨の言葉に、膠は何も返さなかった。
「んなぁー」
猫の鳴き声にはっとする。後ろを振り向けば、襖を開けた猫を先頭に様々な猫たちが『にゃあにゃあ』鳴き喚ていた。
「なんだ、君たち」
猫たちは遠慮など知らないように、続々と部屋に入ってくる。
あっという間に零雨の部屋は猫だらけになった。鳴き声に、さすがの絹夜も起きたらしい。寝起きが悪いようで、ものすごい形相であたりを見ている。
『ご主人、ヒマになったよーう。お仕事は~?』
『ずっと寝ているの飽きたー』
『主様ぁー』
「……一体いつからそんな真面目になったのかな? まあいい、そうだね。そろそろ溜まってきたからお願いしようかな」
零雨は体の向きを変えて、判子の押された封筒の束に手をかけた。
「仕分けするから、ほら。鞄を持っておいで」
指示に従って猫たちがまた『にゃあにゃあ』言いながら退散した。あっという間の出来事である。あれだけ騒々しかった部屋が、また静かになった。
「すみません、猫なもので」
「……いや。ちょっと癒されたよ」
口元に微笑みを浮かべながら膠が肩をすくめた。紅錯は最初の時から表情も態勢も変わってなかった。相変わらず反応の薄い男だ、だが全く何も感じていないわけではあるまい。膠は猫がいなくなった今もじっと襖の隙間を気にする彼を見ながらそう思った。
「仕事の邪魔になるから、俺はもう戻るね。ありがとう、いろいろ。これからもよろしく頼むよ」
「いえ、こちらこそ。またお好きな時にいらしてください、大体俺はここで仕事をしているので」
「……に゛」
俺もだ、と言うように絹夜が下手くそに鳴いた。
ありがとうね、と再度礼を言い絹夜の顎下を掻く。絹夜はぐるる、と鳴き声とは打って変わって上手に喉を鳴らした。
 




