124「帰還されたぞ」
豪縋が家に戻ると、へたりこんだ姫眞に出会い大変驚いた。慌てて近寄り何があったか訊ねると、姫眞は「……髪を……」とだけ言う。要領を得ない説明に首を捻ると、落ち着きを取り戻したらしい彼女が深く息を吐きだしてから、「大旦那が髪を切りました」と伝えた。
「髪を? 父さんが?」
「はい。突然髪切ってくれいうて……髪、榧はんのために伸ばしはってるん、俺知っとるさかい……殺されるいうたんですけど、責任は全部俺が持つからって」
「……それで、切ったのか」
「俺が渋っていたら鋏を強奪して自分で切っちゃった……」
「そうか……」
世話役がごちゃごちゃうるさかったので、豪禅はずっと髪を短く保っていた。だが当人は伸ばしたいと思っていたようで、生きる時間が変わるとすぐ髪の毛を伸ばし始めた。女装も同じ時期くらいに始めた。豪縋は変化を気にしなかったが、榧が一番喜んでいた。美しく生まれ変わった伴侶を健気だと感じたらしい。愛おしさが増したといって、常に侍らせるようになった。
あの黒髪にはいろいろな思惑、想いが詰まっている。それを豪禅自身がばっさりと切り落とした。
豪縋は彼に並々ならぬ覚悟があったのだろうと悟った。
「大旦那、迷惑かけて申し訳ないって言ってたよ。突然泣き出しちゃって俺超ビビった。ね、メゾロンテー」
ふだんはあまり姿を見せたがらない相棒を両腕で抱き締めながら姫眞は言う。「驚いたですー」なんてツギハギの猫のぬいぐるみは押しつぶされながら、甘い声で鳴いた。
反省を促したくて影経に頭を下げたのは豪縋だが、何もそこまで求めていない。謹慎処分の進言だって、怒りに任せた滅茶苦茶な内容は含まれていなかったはずだ。
「……母さんが死ぬほどキレるぞ……」
「榧なら大人しかったぞ」
「ああ、そうなのか。じゃあよか――父さん!?」
彼らは知らないが親子そろって――噂をすればなんとやら、今しがた話題に上げた人物が後ろにいて豪縋は腰が抜けるかと思った。そこはぐっとこらえて、自分より少し背の低い父親を見る。
姫眞が言った通り、背中の中ほどまで流れていた黒髪は顎のあたりで断ち切られている。豪縋と似たり寄ったりな髪型だった。
「父さん……」
「すまなかった、豪縋。お前に嫌な役回りを押し付けてしまったな」
「い、いや……俺は良いんだが……」
「先ほど零雨たちにも謝ってきた。やさしい人たちだ、許してくれたよ。榧が謝罪に来るか少し怪しいので、代わりにその分」
「……父さん」
まさかここまで効果覿面とは思わなかった。
頼った影経がうまく立ち回ってくれたのだろうか、ならば後ほど感謝を伝えておかないと――と豪縋が思っているところで、りりんと鈴の音が鳴り響く。来客の合図だ。
豪縋と姫眞の住まいは神社を模している。鳥居があって、その部分に誰かが通り過ぎると鈴が鳴る仕組みだった。
まさか榧か、と構えて待っていると現れたのは想像だにしない人物だった。
「……ごきげんよう」
姫綺である。しかし姿かたちは別人だ。
銀髪に瑠璃色の目、皆に「私は魔女でございます」と正体を明かした時の姿だった。
豪禅が目を見張ったが、すぐに状況を理解して足早に彼女へ近づくと深く頭を下げた。
「えっ!?」
突然の行動に姫綺が仰天する。
「世話になった。お前は……姫綺、でいいのか?」
「え、えっと。……姫綺ではございます。この姿では銀華麗氏綺光、というのが本名になりますが」
「ああ、そうなのか。美しい名だな」
「はあ、どうも……。ありがとうございます……?」
突然のことで目を白黒させる綺光が少し不憫になった豪縋は「すまない、綺光」と助け船を出す。綺光は「いいえ、問題ございません」と首を振った。
「頭を下げられるようなことは、なにも。寧ろいろいろとご迷惑をおかけしたのは私のほうで」
「いや、お前はなにも間違っていない」
豪禅が断言した。
はっとしたように綺光が豪禅の目を見る。
赤い光は綺光の迷いを吹き飛ばすように、強い意志を纏っていた。
「ああしなければ獄は戻ってこなかったんだろう? だったら何も間違いではない、お前は正しいことをしたんだ」
「豪禅さん……」
「存在が許される限り、誰もが誰かに迷惑をかける。大事なのはその後のことだ。迷惑をかけた分周囲に感謝をできるか、己を省みることができるか……お前はいずれもしたんだろう、そういう目をしている」
豪禅が壊れ物に触れるかのように、綺光の頬に触れた。
「覚悟をした者は総じて美しい。俺の目にお前は一等美しく見える」
「ま、まあ……」
讃辞が思いもよらなかったのか、綺光の頬に赤が差した。と、その背後から覗かせた顔を見て豪縋が表情を崩した。言葉にするなら、「うげえ」である。
現れたのは紅蓮だった。彼はおもちゃを見つけた子どものように目を輝かせていた。その矛先は豪縋に向いている。
「なんだ、豪縋。その顔は」
「……なんでもない」
姫眞はふたりの仲が悪いわけではないことを知っている。というより、豪縋は紅蓮にいろいろと複雑な心境を抱えているのを承知しているため、寧ろ双方の関係性を楽しんで眺めている。
好きとか嫌いとか愛とか友情とかそういう一言で言い表せない感情。豪縋も紅蓮も互いにわかっているから、微妙な距離感が生じていた。
「俺のほかにもお前を口説くやつがいるとは、恐れ入った。『魔女』殿はあらゆる生物を魅了するのか?」
「まあ、蓮兄さんったら。本当に意地悪」
頬を小さく膨らまして抗議する姿に、紅蓮が破顔した。
妹が愛おしくて仕方がない、という顔だった。
「はは、済まない。可愛い妹が他の男に口説かれているとなったら嫉妬心が隠せなくてな」
「俺は別に口説いているわけじゃないんだが……」
紅蓮の冗談を真に受けた豪禅が少し戸惑ったように言うので、息子たる豪縋が「あれはあいつの悪癖だ、冗談だから聞き流してくれ」と耳打ちした。豪禅はきょとんとしたが「そうか、ムードメーカーなんだな」とこれもまた真面目な顔をして返した。
「ムードメーカー……? クラッシャーの間違いだろ」
豪縋の指摘に、紅蓮が大仰に驚いて見せた。綺光の両肩に手を置きながら、口を尖らせる。
「おいおい、豪縋。俺はこれでも空気の読める男だぞ? 機転を利かせて和ませるなど容易い」
「は? お前が場を和ませたことなどあったか、いつだって引っ掻き回していたろうが」
「そう噛みつくなよ、照れ隠しか?」
「……凍らせるぞ貴様……」
周囲の気温が低下した。嫌な予感を察知した姫眞が「あ、あの!」と声を上げ、空気を変える。
「大将はなしてこないなところに? その子の、……綺光の、お披露目?」
「……」
ぎこちなくはあったが、姫眞は確かに綺光と呼んだ。その言葉に綺光の目がほんのわずかに見開く。
紅蓮は「ああ、そうだったそうだった」とわざとらしく肩を掴んでいた手を外し、ひらひらと振った。
「緊急招集があってな、呼びに来たんだ。――<紅姫>が帰還されたぞ」
その物言いは母の帰りを伝える息子ではなく、『楼主』の『錠前』として役目を果たすものであった。




