122「変わってしまうものも」
榧の反撃は、立ち上がる前に繰り出した嶺羽の手刀により阻まれた。白目を剥いて倒れる榧を嶺羽が受け止め、そのまま横抱きにする。豪禅は縋るように嶺羽を見たが、「ごめんね」と謝罪するだけで、榧のことは離そうとしなかった。
影経はイヴとハロウィンに、外で昏倒している部下ふたりを連れて帰るよう言いつけ、帰らせた。
暫く俯いていた豪禅が、顔を上げた。暗い顔だったが、影経は同情する気はさらさらない。
身から出た錆、自業自得。いずれにせよ、すべては榧の暴走のせいである。それを制さなかった豪禅にも責任があるのだから、その悲哀に心を寄せる義理はなかった。
数分の沈黙があって、豪禅は口を開いた。
「――処分は甘んじて受け入れる」
「ふん。そうであってほしいもんだな」
憎まれ口を叩きながら影経は内心安堵していた。
(矜持を失ってもらっちゃ困るからな)
影経は「ついてこい」と声をかけ、傘を広げた。広げたままの傘を目の前で横に薙ぐと、風景が一変する。鉄扉の並んだ灰色の世界がそこに広がっていた。
『管理局』である。
「榧は地下牢、お前は豪縋んとこだ」
「……隔離処分か」
「そうだ。それがお前らにゃ一番覿面だからな」
じゃあな、と言って影経と嶺羽が去っていき、彼らの姿が見えなくなるのと同じくらいに豪禅の肩は叩かれた。振り返るとそこにいたのは金色の耳だった。
「大旦那、お久しぶりです」
姫眞である。狐の耳と尻尾を生やした彼女は豪禅の手をごく自然に握り、「さ、早う行きましょ」と引いた。豪禅はもう見えなくなった榧の姿の残像を追うように、一度だけ後ろを見る。
そこにはただ無機質な壁があるだけで、それ以外には何もなかった。
◇
結菊家は立場が弱かった。というのも、彼らの生業が男娼及び娼婦――要は色を売ることだったからである。いつから、というのは豪禅の記憶にも両親からも伝えられていない。だが漠然と生まれ落ち教育を施されているさなかで、豪禅はなんとなく自分たちがそういうものであると理解していた。
だから、拒否もしなければ拒絶もしなかった。当然のことだと受け入れていた。それが受け入れがたくなったのは、榧と出会い、そして息子が産まれてからだった。
各家の当主の褥の練習台になるのが結菊家の常であったが、豪禅は自分の代で終わらせると宣言した。息子には引き継がない、決してさせない。
当然のように反発されたが、豪禅は怯まなかった。榧の加勢や理解ある周囲の協力も相まって、豪縋は誰にもその身を汚されぬまま、愛するひとと結ばれた。
喜ばしいことだった。そして、同時に、満ち足りているはずの生活に奇妙な欠落を感じていた。これはなんだ、と自問自答を繰り返し豪禅は気づいた。
――疼いている
長年そういう風に慣れさせられた体があの時の熱を求めていた。
榧のことは愛している。愛しているからこそ、打ち明けられぬ想いもある。燻り続けていた熱を見つけたのは雷龍だった。不能だった豪禅を機能するようにした唯一の男だった。榧がいても度々豪禅は目を盗んで雷龍に会った。雷龍は何も言わず、豪禅の身を抱いた。その関係は、今もなお続いている。
――しかしその事実は榧には打ち明けていない。後ろめたいわけではなかった、榧が怒ってくれるのは嬉しいし、感動する。だが、雷龍を傷つけられるのは豪禅の本意ではない。
だから言わなかった。誰にも知られていないと思っていた。
〝蒼の君〟だった自分と彼だけの秘密だと――……。
「お前の息子は俺とお前ェさんの関係を知っている」
姫眞に連れてこられたのは確かに豪縋の住まいであったが、通された縁側に座っていたのは彼ではなかった。ひどい隈をこさえながらも、それすら端正な顔立ちの飾りのひとつにしている隻眼の男――雷龍である。
姫眞に説明を求めたが、彼女は既にそこにはおらず、代わりに雷龍が「座りな」と促した。促されて腰を下ろし、放たれた第一声に豪禅はこぼれんばかりに目を見開いた。
「え、なぜ、いつ? どこで、漏れて……え?」
「落ち着けや豪禅。榧には言ってねえってよ」
「……そ、うか」
豪禅は視線をうろつかせたまま、俯いた。
豪縋はどう思ったのだろうか。自分勝手で淫らな父親だと、失望しただろうか。
あれこれ嫌な想像をする豪禅をわかったように、「特になんも感じてねえだと」と雷龍が助け舟を出した。
「え……?」
「俺たちは壊れている。『鬼神』だの『龍神』だの言われているが……。俺たちは総じて愛情ってェもんがわかっていねえ。贄を捧げて生き延びてきた俺たちゃ、強欲なんだ。際限なく、な。だから欲しいと思うと我慢ができねエ、あちこちに手ェ出す。だから分家から嫁を取ってたんだ、その待遇に不満を抱かれねェようにな」
「……」
「でも俺の親父がそれを変えた。変えちまった。……だから、歪むんだ」
外から伴侶を取ると、な。
雷龍は諦めたように言って、うなじを掻いた。
「隠し続けるこたァ、できねえってことだ。――腹ぁ括れ、豪禅」
雷龍は言い終えると立ち上がり、「じゃあな」と言って去っていく。ちょうど姫眞がお盆に麦茶を乗せてやってくるところだった。すれ違いざまに雷龍はグラスの麦茶を一気飲みして二言三言交わして角の向こう側に消えていった。豪禅は何事も返せぬまま背中を見送った。
姫眞が「粋な御仁やなあ」としみじみ言いながら、豪禅に近づいた。お盆には空っぽになったグラスがひとつ、並々注がれたグラスがひとつ、と羊羹が乗っていた。丁寧に平たい竹のようじも添えられている。
「雷の旦那はお忙しいんやな……あ、大旦那、甘いもん食べまひょ。疲れたときは糖分摂取が一番おす」
「……姫眞」
「はいな」
「君は……」
「はいな」
息子が姫眞の目を宝石に例えていた。――まるで翠玉と紫水晶のようだ、と。
(確かに……美しい瞳だ)
何の濁りもなく、透明で澄んでいる。
「俺は無関係やさかい、思うことなんてなーんもありまへんえ大旦那」
「っ!」
「ささ、羊羹食べとくれやす。これむっちゃ美味しいんですよ~」
「……」
差し出された羊羹を小さく切り出し、口に放る。しつこすぎない甘さが滑らかな触感と共に舌の上を転がった。ほう、と豪禅は溜息をついた。
「変わらないものもあるし、変わってしまうものもある。俺はそういう風に世界ができているって思っている」
真っ直ぐ前を向いたまま姫眞が言った。豪禅はその口調を久しぶりに聞くものだから、なんだか別人にように思えた。
「だから大旦那が変わらない……変われないところがあってもそれはふつうだと思うよ。いきなり全部は変わられへん、だって俺たちがこうしてここにいるのは変わることを拒んだ結果だし」
「……」
「姫綺のこと、受け入れるのに時間かかるかなって思ったけど。そうでもなかったし」
「……あ」
一瞬だけ見た、姫綺のようでいて、姫綺ではなかった誰か。
正体を知る場面に豪禅は立ち会えなかったが、なんとなく同一人物なのだろうと考えていた。姫綺は姫眞の異母姉妹である。その事実は長い間秘匿されていたが、明るみになった後ふたりは会えなかった時間を埋めるようにずっと一緒だった。
豪縋がとても喜んでいたから、豪禅も知っている。傍目から見ても、彼女たちは幸福そうだった。
離れ離れが繋がって、そうしたら妹はどうやら何かをまだ隠していて。
今の彼女の心境を、豪禅が推し量るのは難しかった。
でも、自分もまた姫綺と似たような状態かもしれない、と思い直した。
秘密を抱え、愛する伴侶にさえ隠し果せていたはずの事実を息子は知っていた。そして、彼は「何も感じない」と言った。あくまで雷龍からの伝言であるから、後で豪縋本人にも聞いて見ないとわからないものの――そこにネガティブな感情がないのはなんとなく察せた。
できた息子であると思う。自分のような父親の背を見て、どうしてああも育つのか豪禅自身も不思議だった。
「……不思議に思うときがある」
「へ? なにがおす?」
「……どうして、俺のような人間を見て豪縋があんな立派になったのか」
「えっ」
「俺は不出来な父親だったろう……今もそうだ。妻を止めることもできず、周囲に迷惑を振りまき、挙句謹慎処分。……だというのにあいつは、……」
「あ、え? ウソ」
「……ッ」
「ちょ、ちょおっ! 大旦那、へ、マジで?」
「っ、ああ、……すまん……ッ」
「な、泣かんとって~!」
焦りながらも姫眞が袖で流れ出る涙を拭いてくれた。化粧がつくからと手首を取って制したが、姫眞は拭う手を休めなかった。やさしさが染み入る。そして、己の不甲斐なさに涙はとめどなかった。
こういう時、榧はきっと泣かせた姫眞を怒るのだろう。前の自分ならその姿を惚れ惚れと眺めていたかもしれない。だが、変わるべき時が来た。
これではいけない。このままでは、駄目だと。
これまでのツケを払わなければならない。
変わらなければ、ならない。
豪禅はそう決意すると、目元を乱暴に擦って立ち上がった。
そして姫眞を見て言う。
「頼みがある」
「へ?」
豪禅からのお願いに姫眞はほとんど悲鳴の、絶叫を上げた。




