116「ただいま」
地獄のような日々だったと、他人事のように思う。
それもそのはずで、苦しいことはすべて<紅姫>に放って自分がただ外から見ていただけだったから。
結局、自分に戻ってくるのだ。それらはもともと自分の中にあったものを分けたに過ぎないから。
還ってくることが突然怖くなって、己を殺すことを考えた。
いなくなれば、なかったことになる。いなくなれば、強かった事実は残る。
でもいつか暴かれる。中途半端に欺いた報いを自分は受けなければならない。
殻に閉じこもって守ってもらう日々が当然であると思っていない。
逃げ続けるのは不可能だと、操縦桿を持っていて感じていた。
歩いてきた道を否定はできない。
してしまったことをなかったことにはできない。
無から有は生まれない。
<紅姫>が存在するのは俺がいるから。
俺がいなければ<紅姫>は存在しない。
つまるところ、俺は<紅姫>自身であると認めざるを得ない。
だのにどうして自分はこんなにも抗っているのだろう。
――膠
呼んでいる。
逃げるな、と。苦しむふりはやめろ、と。
<紅姫>、本当はわかっていたよ。
いつかこんな日がやってくるって。
俺はまだ俺自身を諦めてはいなかったから。
またみんなと会いたいと心のどこかで思っていたから。
夢を見るのも。
水の中で溺れ苦しむのも。
自らを欺くのも。
薪にくべた悪意も。
幸せなお伽話を空想するのも。
宝石のような思い出たちも。
水槽の底の祈りも。
結局誰にも届かなかった思いも。
全部、俺が選んで壊して捨てた。
それから青く冴えた世界が広がって、俺の偽りを明かした。
その娯楽を貪って、笑ったのは<紅姫>じゃない。
俺だろう。
俺がしたかったのはなんだった?
俺が、したかったのは。
◇
<――契りは集約した>
膠の口は勝手に動いていた。
傍らで眠る<紅姫>の体が宙に浮いた。
<汝が妄執を以て、その望みを果たそう>
<紅姫>の体が砕けた。砕けて蝶になって、膠の体を取り巻く。
花の中でのことだったから、誰の目にも留まっていない。
赤い蝶が膠の中に吸い込まれて、膠は静かに天を仰いだ。深く息を吸い、吐き出す。
目を開いたその中に、夜空の藍色が広がっていた。
「……膠ッ!!」
呼び声に反応して、膠は目を瞑った。
花の勢いが急激に衰え、そしてとうとう空気に溶けるようにして消え去った。
甘い香りが微かに残っていた。
「膠!! ……膠?」
「べ、……<紅姫>の体は!? どこに行ったのです!?」
紅凱も紅錯も何が起こったか理解できず混乱している。狂輔もただ茫然と事の成り行きを見ているしかなかった。
少女はひとりだけになっていた。
「な、なにが起こって……?」
膠が緩慢な動きで瞼を持ち上げる。
白い髪がどこからか吹いた風にやわらかく持ち上がった。彼女の纏う衣が赤く染まり、首や胸元に文様が浮かぶ。それはまるで<紅姫>が膠の体に取り込まれたような――
「……馴染んだ、かな」
膠は呟き、寝台に立ち上がった。そのまま軽く床を蹴って、彼女は小さく跳躍する。着地すると衣の裾が羽のような動きでついてきた。
「立てる。……安定している、……問題ない……」
「膠君、一体どうしたというのです……?」
「聞こえる。話せる。……『魂』の感知にも問題はない……」
膠はひとりでぶつぶつと何かを言いながら、己の体を観察していた。紅錯たちの声は聞こえていないようだった。そんな時間がしばし続き、そして終わる頃には誰もがもしや、とその名前を口にしていた。
「……<紅姫>? いや、君は……」
「ああ……狂輔か」
物言いに聞き覚えがあった。
少年のような少女のような、不思議な声音。
その瞳には夜空、その美しさは無垢で妖艶でこの世のものとは思えぬもので。
少女と女の相半ばに立つような存在。
「やあ、ずいぶんと待たせてしまったみたいだね。……俺は<紅姫>緋乃神膠だよ」
その名は繋がることはなかった。けれどさも当然のように彼女は名乗った。
ひとつになったのだ、とそこにいた皆が突然理解した。
◇
膠はふうと息を吐くと、寝台に腰かけた。心なしかつらそうなのを見て紅凱が慌てて駆け寄る。その背をさすろうと手を伸ばしたが、「いいよ」と膠に制された。
「いえ、ですが膠君……」
「いい、だいじょうぶ。プラマイゼロになってちょっとつらいだけさ。……ふう、きっつい。自己肯定感がありすぎて俺にはつらい……」
「自己肯定感?」
紅錯が訊き返すと、膠は首肯した。
「そう。<紅姫>は自己肯定感が高いのだけれど俺は低いの。だから一緒になると彼女が肯定し続けていた自分が結構しんどくってね……まあ望みだから仕方がないのだけれど……」
「……それは一体どういう」
「俺はね、俺自身が嫌いだったんだ」
あまりに軽々しく膠は言った。
「だから<紅姫>に手助けしてもらったのさ。自分を愛せる自分と自分を愛せない自分を切り分けた……俺の望みは、俺が俺自身を愛せることだったんだよ」
「え……?」
「理解できないって顔だね、紅凱」
「……申し訳ありません。そのようにお考えになっているとは思わず……」
「魔女から何か聞いたのではないの?」
「……魔女からは、あなたが死にたがっているかもしれない、と」
「そう……有体に言えばその通り。俺は俺が嫌いだった、嫌いだったから死のうとした。……周囲にいくら花が咲いていても、それらが目に入らないくらいにね」
「……膠君」
「自分を愛せない俺が他人を愛するってのがなかなか難しくて。どうすればいいのかわからなくて、苦しかったんだ。……それでもみんなやさしいから受け入れてくれるけれど、それがますます辛かった。だから代わってもらった。……でもいつの間にか代わってもらうのが全部になっていた」
「……だから、消えようと?」
紅錯が口を挟む。膠は涙をこらえるような顔で首肯した。
「だったら今までの自分なんかいらないだろって思って。暴かれる前に殺してしまおうって……。そういうわけで<紅姫>に魂を食ってもらって俺が消えようって算段だったわけ。……うまくいかなかったけれどね。……俺の正体を看破する存在がいるとはなあ、詰めが甘かったよ。ゲームは得意だったのに」
「――いらないわけがないでしょうッ!!」
紅凱が叫び、そして膠を抱き締めた。ほとんど泣いているような声だった。
「……紅凱」
「あなたが……あなたが消えてしまうことが、どれほど恐ろしいことか……ッ! 魔女から仔細を聞いた時、内臓が潰れそうでしたよ……」
「……ごめんね」
膠は紅凱の頭を撫でた。
「……俺もあなたを失うのは嫌だ」
紅錯が振り絞るように吐露した。
表情がほとんど変化しない男は、苦悶の表情を浮かべていた。
膠は紅凱に抱き締められたまま、「そうだね」と言う。
「夢を見ていたのは俺も同じなんだ。幸せって得難いものだよ。ひとの生とは終わるまで続くものだから、大団円でちょうど最期の幕は降りないからね……紅凱? 紅凱、大丈夫だよ。もうどこにも行かないから……ね? 放してくれない?」
「……」
「紅凱、ちょっと。……ちょっと苦しいって、物理的に」
そこで、ようやっと紅凱が膠を解放した。まだ足りないと目で訴えている紅凱に「また後でね」と約束を取り付け、膠は狂輔を見る。
狂輔は憤りを想像しない形で霧散させられて消化不良を起こし、納得できないようだった。
「睨むなよ狂輔。俺だって予想外だったんだ」
「なんで突然戻ってきたの」
詰問する風だった。紅凱が察知して前に出ようとするのを膠が止める。
「俺の本当の望みを思い出したから、成就させるためにひとつになった」
「だからなんで突然」
「さあ。俺にもわからない……でもわかるのは、たぶん『慈母』が帰ってきたからだと思うよ」
「獄が? 何の関係があるの?」
「湖に石を投げれば波紋が広がるだろ? 余波ってやつさ」
「……魔女は、そのことも考えていた?」
「うーん……違う、と思うよ。彼女の目的ではない、これはやさしさだ」
「は?」
膠の言っていることが理解できず、狂輔はついつい口調が荒くなる。
それでなくてもいろいろと誤魔化されていたのだ、いい加減はっきり言ってほしい。
そういう狂輔の気持ちを汲んでか、膠は「怒るなよ」となだめた。
「もっとも、魔女と精霊の関係なら、俺よりも君の方が詳しいと思うのだけれど」
「……魔女は精霊の調停者。小生たちが創った。……『慈母』は精霊の安寧をもたらす存在、彼女の祈りが精霊に力をもたらす。……でも、『強欲の魔女』が精霊の世界を脅かし均衡が大きく崩れた。……魔女の目的はあくまで『慈母』を目覚めさせることだった……」
「その通り。だから、一緒に俺のことも目覚めさせたかったんだろうね。あの子は義理の娘だもの、俺を想ってのことだ……あとでちゃんとお礼を言わないとな」
「……随分引っ掻き回されたけれどね」
「だから……そう、怒るなって。怒るなら榧に怒りなよ、あいつまたキレて制御不能なんだろ?」
「……行方不明だよ」
拗ねたように言う狂輔に「あー『家』の檻から外れるともっとややこしいことになっているなあ……」と膠は額を手で覆った。
「そっちは後でいいや。まずは『慈母』に会いに行くよ。『御殿』はまだ片付いていないの?」
「……訊いてくるよ」
「そう、ありがとう。俺はその間服を見繕っておく」
「服? それでいいんじゃないの?」
「生憎と俺と<紅姫>の服の趣味は違うんだ。俺に露出癖はないからね」
「えっ」
反応したのは紅凱だった。あからさまに残念がっている。
「えっ、じゃねえよ。外を出歩くんだからちゃんと着るに決まっているだろ。この格好見ろよ、ほぼ何も着てないでしょ」
「……いえ、お似合いですからそのままでも。私が運んでいきますし」
「いやだ。俺は着替える、そしてひとりで歩く」
「……膠君……」
「甘えた声出しても着替えるからな!」
「……うぅ……」
項垂れる紅凱を放って膠は箪笥に近づいた。中を漁ってあれもこれもと取り出して膠は肩を落とした。
「……紅錯、もしかして<紅姫>ってふだんこういうのしか着てなかった?」
「……ああ」
膠は頭を抱えた。
その反応はよく見知った彼女のものだった。
「狂輔」
「なあに?」
「仕立ててくれる?」
「自分でお願いに行けば? 歩けるんだし」
「場所がわかんないんだよ、『管理局』って無駄に広いし<紅姫>も記憶も曖昧だし」
「悪かったね、無駄に広くて」
「別に君を責めているつもりはないけれど」
「ああ、もう……。わかったよ、紗々羅にはこっちから言っておくよ」
「ありがとう。ああ、あとさ」
「なに?」
「凛龍を呼んでくれる?」
「……わかった」
一通り話し終えると、狂輔はひとつ大きなため息をついてさっさと部屋を出て行った。
部屋には膠と紅錯と紅凱が残された。
「……膠」
「膠君」
ふたりが膠を見た。それから全く同じ動きで跪いた。
「……おかえりなさい、<紅姫御前>」
膠は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑って、
「ただいま。……紅凱、紅錯」
と返した。
紅凱も紅錯も嬉しそうに微笑んだ。




