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桜雲館の紅姫【完結】  作者: 可燃性
拾漆のこと『その声を届けたい』
113/134

113「ごめんね」

 体がだるい。鉛のように重くて起き上がるのも億劫だった。けれど覚醒してしまった。もう一度眠ることもできそうになかった。だから目を覚ました。

 膠は首だけを動かす。そこに自分がいた。事切れたように眠っている。

 カーテンが閉められているから、朝か昼か夜か定かではなかった。どの時間だったとしても問題はないから、気にすることはなかったけれど。


「……」


 会ってはならないふたりが、出会ってしまった。

 もっと絶望的な気持ちになると思った。けれど膠の胸のうちを満たすのは悲しみだった。


「……君を、(こう)にしてあげることができなかったね<紅姫>」


<紅姫>は自分を救ってくれた恩人だった。壊れてしまいそうな心を守ってくれる門番であり、唯一自分のすべてを理解してくれる相棒だった。自分をずっと守ってくれた恩に報いたかった。けれど、すんでのところでその機会を逸してしまった。一度逃せば二度と手に入らない機会だった。


「……ごめんね」


 涙が伝うのを感じる。目の端から、枕に向かって落ちていく。冷たかった。その冷たさこそ、自分が未だ存在するという紛れもない証である。

 消えなければならなかった。消えることすらままならず、不完全にここにいる。膠にはそれが悲しくて切なくて堪らなかった。


「……ごめんね、<紅姫>……」


 手を伸ばして眠る彼女の頬に触れる。涙と同じで冷たかった。何度も何度も頬を撫でるたび、呼応するように瞳から涙がこぼれた。

 その時、襖の開く音が聞こえたので膠は慌てて目を閉じた。眠ったふりが通じるとは思わなかったが、顔を合わせるのが気まずかったのだ。


「……寝たふり下手っすね」


 凛龍(りんりゅう)の声だった。一番複雑な心境なのは凛龍だろう。恋焦がれた相手に長い間嘘をつかれていたも同然なのだから。嘘を本当にしたかったのだが、それも中途半端な結果に終わってしまい――このざまである。声が聞こえても膠は目を開けなかった。怖かったのだ。


「枕が湿ってて冷たいでしょ。取り換えるんで起きてください」


 凛龍の声に感情はないが、どこか刺々しかった。怒っているのかもしれない。凛龍が膠の横顔を覗き込む。気配で分かった。何をされるのか身を固くして待っていると耳のふちにやわらかな感触が当たる。そしてそのまま――


「!?」


 勢いよく膠は起き上がった。重かったのが嘘みたいだった。

 耳を食まれたのである。唇で挟むようなやさしいそれだったが、膠も予想外だった。


「あ、起きた」


 当人は平然とした顔をしている。金色の目に、怒りの色はない。ただ澄んでいる。凛龍は起き上がった膠に何を言うでもなく涙で濡れた枕を取り上げ、新しい枕を差し込んだ。

 しばし、沈黙。先に口を開いたのは凛龍だった。


「……俺さ」

「……うん」

「べつに、あんたに怒ってないよ」

「……」

「自分に怒ってる。……あと。……姫綺(ひめあや)さんに、ちょっとだけ」


 凛龍が肩をすくめた。その仕草はあどけない少年のように思えた。


「『御子』だなんだって言われてて忘れたけど、俺まだ当主継いでねえんだよ」

「……」

「だから、教育も不完全で。父さんが帰ってきて痛感した。……俺、まだまだだって」


 そう言ってはにかむ凛龍の顔は、出会った頃の彼によく似ていた。見ていられなくて膠を目を逸らした。

 期待と不安に満ちた黄金色が、膠にぎこちなく挨拶した。


 ――白椿(しろつばき)家、第七十六代目……当主、です

 ――白椿凛龍、です……


 可愛らしいと思った。幼い彼が自分を見上げた時、彼はひどく狼狽えた。

 黄金の中に、激情が灯った瞬間だった。

 膠は顔にこそ出さなかったが、わかった。


 ――ああ、この子は


 芽生えたのは同情だった。

 可哀想に、という感情。それは自分を想う相手に対して失礼で不誠実であることを理解していた。理解していたからこそ、膠は<紅姫>にすべてを明け渡そうとしたのだ。


「……膠さん」


 凛龍の呼びかけに、膠は俯いたままだった。

 呼ばれるべきではなかった。応じるべきではない。膠の中にある、凝り固まったなにかが彼女に凛龍の目を見ることを拒絶する。

 我ながら頑固だと思うのが、長らく彼を欺いていた――結果論だったけれど――訳だから、負い目はある。あまりに身勝手な感情に自嘲がこぼれそうだった。

 呼んでも顔を上げない膠に、凛龍は身を屈めて覗き込んできた。どこまでも追ってくる満月のように思えた。膠の本性を、内なる魔物を暴く光が苦しかった。


「俺はいい子を卒業したっていいましたよね? だから、あんたが嫌がっても離すつもりはないですよ」

「……っ!」


 無意識に奥歯を噛み締める。強い意志を感じた。


「あんたが俺たちに負い目を感じるってんなら、感じたまんまでいい。俺は俺の勝手であんたを好きなままでいる。……嫌われんのは正直怖ぇけど、でも離れんのはもっとやだ」

「……」

「俺に何か返そうとしなくていいよ、返してほしいなんて思わない。だってこれは俺のわがままだから。白椿家の当主としてじゃなくて――俺個人として」

「……俺は」

「うん」

「……君のことを、……」

「なに?」

「……かわいそう……だって、思ったんだよ……」


 視界が滲んだ。泣く権利など自分にはないのに、込みあがってくる感情が涙に変わった。


「うん」

「うれしい、じゃなくて……可哀想だって……! そんな……そんなやつのこと……」

「それ、俺がガキの頃の話だろ」

「えっ」


 ため息混じりに吐き出された返答に、膠は戸惑った。

 戸惑うついでに顔を上げた。金色に釘付けになった。


「ガキの頃の話なんか知らねえよ。つうか普通ありえねえし。あんたの感情は正しいだろ、炎桜(えんおう)家のもんとしてはさ」

「……」

「今も俺のこと。……可哀想だって言うの?」

「……それは……」

「ま、別に? 可哀想って思われててもいいけど。好きにさせるし」


 月明かりが突如として陽光に変わった。

 歯を見せて笑う凛龍の面影が彼の父親と重なる。銀龍(ぎんりゅう)もまた、快活とした笑みを浮かべる男だった。眩しかった。


「……君は、……どうして……」

「やっぱ父さんってすげえよ、さすが『慈父』って感じ」


 凛龍が上体を仰け反って天を仰いだ。


「もう俺は家に縛られて生きなくていいって……だから、もっと傲慢になれって」

「……」

「無理してさ、大人ぶるのやめる。紅凱に負けたくなくって、かっこつけてたけど全部やめるわ。もともと俺のキャラじゃねえし」


 凛龍はすっきりとした顔色でぐぐっと背伸びをした。

 見た目相応の、爽やかな表情だった。


「あんたも、無理しなくていいよ」

「……え」

「俺はあんたにいろんなことを説明してほしいんじゃない。ただ、戻ってきてほしい――もし、今のあんたのままもう一回出会えるなら、俺は会いたい。あんたに会いたいよ、膠さん」

「……」

(わかったと言えればいいのに)


 膠にはその一言が重かった。言葉を交わすたび、胸が軋んだ。

 喜怒哀楽のどれにも属さない、ぐちゃぐちゃな感情が蟠って心臓のあたりを圧迫している。

 苦しい、切ない、痛い。愛されるのは、怖かった。


「……」

「っと、長居しすぎました。とりあえず休めよ、疲れたっしょ」


 凛龍は枕を持って立ち上がった。部屋を出る直前彼は立ち止まって、


「……紅壽(こうじゅ)さんはわかってたって言ってましたよ」

「……!!」


 それだけ告げて部屋を出て行った。

 膠は両手で顔を覆った。そして、声を殺して泣いた。


 ◇


「目をきちんと冷やさないと、腫れてしまうぞ」


 その声に飛び起き、起きたことに自分が泣き疲れて寝てしまったことを自覚した。もう暮れ始めている空を背景に、男がひとり欄干に座っていた。

 裸身にふたつ重ねた羽織、色褪せたジーンズに高下駄。黒い髪に真っ赤な角を額から生やした鬼だった。両腕は二の腕の部分から真っ黒な羽毛が生えて、尾羽のように背中側に広がっている。その顔立ちは父親とそっくりである。紅蓮(こうれん)だった。


「……っ!」


 膠は息を呑み、体を硬くさせた。どう顔を合わせていいかわからなかった。どう呼びかけていいものか悩んでいると、紅蓮が「そう緊張することもないだろう、母さん」となんともない風に言った。


「どう変わろうと貴女が俺を産んだ事実に変わりはない。ああ、紅壽もいるんだ。さすがに屋敷をどろどろに溶かすわけにはいかないから、こういう形だが」


 虚空に突然あちこちに薄い煙が生まれて、ひとところに集って無数の腕のない手が現れた。空中に浮かぶ手のひとつが紅蓮の懐からなにかを取り出す。手のひらに乗る大きさの壺だった。壺の中に広がる闇が天に向かって突き出し変形する。それは触手になった。


『――母さん』


 くぐもっているけれど、きちんとそれとわかる声だった。膠は口を噤む。何を言うべきかまとまっていなかった。構わず紅蓮が続ける。


「緊張するな、とは言ったが……まあ、貴女(あなた)が今置かれている状況を鑑みれば仕方がないことだな」

「……」


 紅蓮は父親たちに似て聡明である。一を聞いて、十を知ることのできる男だ。だから膠の状態を既に聞いて、理解しているのだろう。

 彼の声音はやさしい。やさしいけれど、紅蓮は普段からああいう口調であるから、真意が読みづらかった。欺かれた事実に対し、内心不信感を募らせているのではないか――膠はそう思うと何も言えなかった。墓穴を掘りそうだったからだ。


「母さん」

「……」


 その名で呼ばれるべきではなかった。自分はその役目すら降りようとした。

 下を向いたまま次の言葉を待った。何を言われるのだろう――。


「物心ついた時からずっと貴女に愛されていると感じていたよ」

「……!」


 記憶が白くフラッシュバックした。産まれたばかりの小さなふたり。いつだってふたりにいるように強制されて、期待を勝手に押し付けられても、ふたりは逃げなかった。逃げないで真っ直ぐ向き合い続けた。

 ふたりは両親にやさしい子たちだった。何か見つければ「かあさん」「とうさん」と自分たちを呼んで見せたり、花を摘むと贈ってくれたりした。

 やさしい息子たちは、父親がふたりいることを明らかにされてもすぐに受け入れた。


「貴女は俺たちを慈しんでくれたろう? 俺たちの関係を知っても貴女は何も言わず、ただ俺たちに任せてくれた。……それはとても尊くて、なかなかできないことだ。貴女は役目を立派に果たした。果たしたんだよ、母さん」


 膠は奥歯を噛んだ。また感情が涙に変わりそうになっていた。


『……あなたがしたことを、誰も責められない』


 紅壽の声だった。

 風のない湖面のような静かな声音。或いはやわらかく降り積もる雪。

 彼の声に負の感情は何もない。ひたすらにやさしかった。


『……あなたが逃げたくてそうしたら俺はあなたの行動を尊重する。……あなたが変わるのを望んでいるなら俺は受け入れる。……俺にとってあなたは最高の母親だよ』

「……ッ」


 息が詰まった。

 騙していたのに、どうしてこんなにもやさしくしてくれるのだろう。

 欺いていたのに、どうしてこんなにあたたかく触れてくるのだろう。

 心をそっと包み込むあたたかな愛情が膠の心を強く揺さぶった。


「誰も貴女を責めないよ、母さん。だから母さんももう許してあげてほしい――自分自身のことを」


 膠は終始黙っていた。何かを言うべきと思うのに、考えれば考えるほど言葉が喉でつっかえた。


「愛された分を無理に返そうとしなくていいんだ。貴女はもうそこにいるだけで皆を幸福にするから」

「そ……んな、わけ……」


 やっと返せたのはそれだけだった。自分で自分が嫌になる。

 そんなひねくれた回答も紅蓮は「まあ信じられんか」と軽く笑って受け取った。


「凛龍に言われなかったのか、母さん」

「……」

「あいつもいい顔になった。まだ白椿家があったなら、あいつはいい当主になっただろうな」

「……」

「あいつはあいつ自身の手で己を縛る鎖を断ち切った」


 晴れやかな表情になった凛龍の顔が思い浮かんだ。

 彼はもう背伸びをするのをやめると言っていた。


「だから……貴女も自分を縛る枷から自由になってくれ、今すぐじゃなくてもいい。俺たちはいつまでも待っているから」

『……うん。いつか、ここにも会いに来てくれ。……母さん』

「……あ」


 そういえば<紅姫>になってから紅壽のもとに行っていなかった。紅壽はそのことを引き合いに出して何か言うことはなかったけれど。


「では俺たちはこれで」

「……」


 紅蓮が姿勢を後方に倒し、数枚の黒い羽を残して赤色から藍色に染まる空に消えた。滑空する彼の姿を見つめながら、膠はもう一度涙に頬を濡らした。

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