110「願わくは」
城のように聳え立つ巨大な竈の上に、鉄の大鍋がはまっている。竈の中で赤々と炎が燃え上がっていた。
ここは『管理局』〝第二層・竈〟――死んだ者の『魂』が最初にたどり着く場所。ここで煮詰められると『魂』に蓄積された記憶のすべてが消えてなくなる場所である。
部屋は石壁で覆われており、鉄扉が等間隔に配置されていた。竈のちょうど正面には鈴のぶら下がった引き戸があった。もうもうと鍋から立ち込める湯気は、鍋の真上にある排煙口に吸い込まれていた。部屋はじっとりと湿っていた。
大鍋の両脇には、似た格好の男女二人組がいた。彼らは鍋の中で煮えたぎる妙な色合いをした液体を念入りに、へらでかき混ぜていた。
かき混ぜるふたりのうち、ひとりは男である。銀色の、癖のついた髪をそのまま背中に流している。上半身は纏う筋肉を惜しげもなく曝け出しており、下半身はオリーブ色のだぼっとした作業服に武骨なブーツをあわせている。
もうひとりは女だった。顔は傷だらけで左耳が欠けていた。目にかかった前髪は横一線に切り揃えられており、うなじあたりで長い後ろ髪を一つにくくっている。彼女は上半身をサラシ一枚で覆い、下半身は男と同じ、作業服にブーツという井出達だった。
不意に出入口の鈴が鳴った。来訪者の合図である。気づいたふたりが作業を中断し、鍋にかかった長い梯子を下った。ふたりが地面に到着するのと同じタイミングで引き戸が開き、予想していた人物が現れた。
黒い帽子に、黒い外套、そして真っ黒な傘を手にした『死神』――正式には〝回収課〟――影経である。
男の方が影経の背後にいる人物に気づく。彼は息を呑んだ。
「影経殿これは……?」
明らかに動揺した声を出す銀髪の男に、『死神』影経はぶっきらぼうに答えた。
「……見りゃわかんだろ、霧龍。……新しい『薪』だ」
「いえ、それはわかりますが……瑠々緋殿と……?」
「……」
影経は閉口する。次に口を開いたのは、霧龍の傍らに立つ女だった。
「<紅姫>殿のご決断ですか」
女の問いに影経は首を左右に振った。
「……いや。……違う」
「ではどなたの?」
「……花龍、あまり詰め寄るな。影経殿が困っておろう」
語気が強くなりつつある妻を霧龍が制した。
花龍ははっとなって「……失礼」と乗り出した身を引いた。
影経の背後で、男女二人組は楽しそうだった。これからどうなるのかわかっていないのかもしれない。
青い目をした青年は、美しい着物を纏った黒髪の女に無邪気に話しかけている。青年が笑うたび、女は嬉しそうに破顔した。仲睦まじい恋人同士にも親子のようにも思えた。
「……決めたのは<紅>のやつでも、誰でもない。……こいつら自身だ」
「え?」
花龍が驚く。説明しにくいのか、影経は視線を地面に落として黙っていた。
霧龍はそんな彼の様子を見て、何も聞かないことにした。
ただならぬ事情がある、そう思った。
「……相わかりました。これ以上何も聞きませぬ」
霧龍の言葉に影経が顔を上げた。どこか安堵したような様子だった。
花龍に目配せすると、彼女は戸惑いつつもしっかりと頷いた。『薪』となるふたりに近づくと女の方が気付いて、霧龍をみとめて薄く笑った。
「あら、あなたは朱然薊の」
「ああ、そうだ」
「うふふ――あなたと白椿はうまくやりましたね、きちんと跡取りを産んだ……」
霧龍の眉間に皺が寄る。不快感を露に彼は言った。
「やめよ、かような物言いは好かぬ」
「そうですか」
女は肩をすくめて、笑っていた。
この先待っているのは苦痛に耐え続ける時間だというのに、ふたりとも恐怖も怯えも見えなかった。
ひどく穏やかだから、霧龍は内心気味が悪かった。本当に理解をしていないのだろうか。
そんな霧龍の心中を察してか、なおも楽しげに女は言う。
「私が怯えていないのが不思議ですか」
霧龍は努めて無表情に、
「……犯した罪の分、汝らは苦しむことになる。それに、一度『薪』になった者は二度と生まれ変われぬ。汝の生はここで終わりぞ、わかっておろうな」
と釘を刺した。間違っても満ち満ちた顔で向かう場所ではないのだぞ、と。
霧龍の言葉を聞いても、女の目には恐怖がひとかけらも宿らなかった。
「ええ、構いませんわ。あの方に会えて……そして、傷をつけられるのなら」
嘲笑と憎悪の混ざった顔だった。霧龍が思わず顔を顰める。
「邪推が過ぎますよ、朱然薊。私は何もしません……もう全部済んだわ」
袖で口元を隠してくすくすと笑う女の様子に、霧龍はぞっとした。
底知れぬ悪意を感じた。濃厚で絡みつくような――。
「……霧龍殿?」
花龍に呼びかけられて、霧龍は我に返った。
飲み込まれそうになっていた。これではいけないと頬を両手で勢いよく叩く。
ばちん! という大きな音にその場にいた全員が驚愕した。
影経が心配そうに声をかける。
「……どうかしたか」
「……なんでもございませぬ」
言って、霧龍は青い目の青年を見遣った。
罪人のようには見えなかった。けれど、ここにいるということは彼の『魂』はぬぐい切れぬ『穢れ』を抱いているという意味である。自分のなすべきはひとつだけ。
霧龍は青年の体を担ぎ上げた。彼は抵抗しなかった。
「あれ?」
およそ体の変化に気づいたのだろう。でも彼は暴れなかった。
花龍が女を横抱きにしていた。彼女が履いた足袋の先から茶色く干からびている。
赤々と燃える炎に近づく頃には、青年も女も体の半分が『薪』になっていた。
青年が、「ねえ」と声をかけた。霧龍は「……なんだ」と感情を押し殺して応じた。
「俺、今とても幸せなんだ」
「……!!」
霧龍は一瞬、炎の中に投げるのを躊躇った。
幸せ? 今この瞬間が? わけのわからない気持ち悪さに青年を見ると、彼は無邪気な子どものような笑みを浮かべていた。
「女神さまと一緒に死ねるんだもの」
青年の顔が茶色く変色していく。あっという間に『薪』になっていく彼を投げた。
最後に彼が浮かべた笑みを振り払うように。
花龍もまた同様に女を放り込んだようだが、彼女もまた顔色が悪かった。
ぱちぱち、と音を立てる薪の中に、女の哄笑が響いている気がした。
◇
碧衣と瑠々緋の顛末はわかっていた。わかっていたから、止めなかった。
獄は静かに目を瞑る。そして眼前に広がる曼荼羅に祈った。
彼女が祈ると、周囲に透明な花が咲いた。はなびらも茎も何もかもすべて透き通っていた。
どこから風が流れてくる。頬を撫で、髪を揺らし、花びらが音もなく宙を舞う。
宙に舞ったそれは空気に溶けて、煌めきとなって霧散した。
「……願わくは、彼女の悪意が燃やし尽くされんことを」
彼女の目からひとつぶ、悲しみがこぼれた。




