107「戻ってまいりました」
天には神様がいるんだよ。
その神様たちは愚かな人間を支配しようと考えた。
でもね、それはだめだってとめた神様がいたの。
とてもきれいな神様で、みんなから『慈母』って呼ばれて尊敬されていたんだって。
◇
「お久しゅうございまする、狂輔殿」
彼女を見て、狂輔は間抜けた顔をするしかなかった。
目覚めないと思っていた存在が目を覚ましたのである。当然だった。
対する彼女はやわらかく微笑んで狂輔の部屋を見まわした。
「相変わらず我にはわからぬものばかり……ですが、お蔭さまでかように元気な姿で相まみえることができました」
科学の進歩、とは素晴らしいものですね。
なおも狂輔は言葉が紡げない。白昼夢でも見ているのではないかと、眼前にいても思っている。
夫婦を封じ込めたガラスの棺が開いたという知らせを聞いて、狂輔は椅子から転げ落ちた。
瑠々緋の『器』の定着に時間を要するため、一度落ち着こうと局長室に帰ってすぐのことだった。
向かう足が竦んでしまい、どうしようか足踏みしているところに本人がやってきたのである。
白を基調とした服のところどころに高貴な色である紫色をあわせた、見るだけで神々しく思える姿は記憶と何ら変わらない。
緩やかに背中を流れる藍色の長髪に、同じ色の、慈愛に満ち溢れた瞳。かつて世の調律を担う役目であった存在。
「狂輔殿? いかがされましたか? ああ、銀龍ですか。あれは少し野暮用で……御殿を片さねばと勇んでおりました。ふふふ、あれが片付け好きとは思いませんでしたよ」
「……」
「凛龍はどちらに? 膠殿に無体を働いておらぬかとても心配でなりませぬ」
「……」
「狂輔殿?」
『慈母』に顔を覗き込まれて狂輔はようやっとこれが現実に起こっていることだと気づいた。
「あ……ああ……うん、獄?」
「はい、獄でございます」
「……獄、なの? マジで? 本当に? 小生、夢見てない?」
「ええ、無論にございます。正真正銘、篝火獄――戻ってまいりました」
その笑みを食らった瞬間、狂輔の目から一粒の雫があふれた。
「――という感動の再会をしてきたよ」
獄のすぐ後ろから現れた狂輔が未だ赤い鼻をすすり上げながら言った。
一粒の雫があふれたというのはおよそ嘘だろう。見るからに大泣きした顔をしているから。
しかしそんなところに突っ込むことはせず凛龍は「……そうっすか」とだけ答えた。
『慈母』こと獄は長い裾で口元を覆いながら時折ころころと笑った。いつ見ても美しい母に凛龍は時々畏れ多く感じることがある。息子でありながらも背筋を正せねば向き合えないような気持ちだった。
獄は寝台で眠る膠――否、<紅姫>に目を向けた。
「休まれている……わけではないな?」
全てがわかっている顔だった。真剣な眼差しにも慈しみの心が宿っている。
彼女はそういうひとだった。
「……なんて、説明していいか……わかんねえ、んだけど」
「構わぬ。およそ予想はついておるが……教えてくれるか?」
「……ん」
凛龍は探り探り姫綺が伝え聞いた話を、できるだけ聞いたそのまま話した。
獄は黙ったままで、狂輔は苦虫を嚙み潰したような表情をしていた。
「……で、その、まあ膠さんがふたりいて、<紅姫>の代わりに消えようとしているってことと、姫綺さんが綺光さん、っていう『魔女』ってことと……そんくらい」
「……そうか」
狂輔が「……まだ、生き残っていたんだ」と言ったのが聞こえた。
獄は眠る<紅姫>の頬を撫でた。起きる気配も、身じろぎする様子もなかった。死んだように眠り続けている。
「……母さんは、知っていたのか?」
凛龍が訊ねると、獄は悲しそうに首を横に振った。
「我がまだ『亜人妖種』であった頃は『慈母』として目覚めておらぬゆえ、わからなんだ。しかし、二度目の世界でなんとなくその片鱗のようなものを感じていた。……魔女と出会うたのもそれが最初ぞ。あの子には随分世話になった」
「……そう、なんだ」
「我が疲弊していて、世界の調律が難しいことを看破し、再構成の提案をしたのは彼女だ。今のままでは精霊たちの均衡も保てぬ、危険だ――と」
「……」
凛龍たちは人生を三巡している。
一度目、二度目、そしてこれが三度目の正直だった。
俗にいう『転生』というのだろうけれど、別の誰かに生まれ変わっているわけではないから、凛龍の感覚としてはパラレルワールドに転移している感覚の方が強い。
「……姫綺、さんが」
「その時膠殿の擁立も同時に提案された。そのためには紅凱殿の存在が必須であると彼女は言い、しかしながら紅凱殿が抑え込んでいる瑠々緋の存在を懸念しておった」
「……あの、母さん」
凛龍は瑠々緋が復活したことをどう言おうか考えていた。
瑠々緋は蘇った。彼女と碧衣の存在により調律が危うくなるほど、ひとの命が失われた。
神としての力を失っているとしても、碧衣と共にいれば彼女はきっと何かしらの悪影響を及ぼすだろう。今更になって自分のしたことは正しかったのか、わからなくなっていた。
そんな息子の葛藤をわかってか、獄は「知っておるよ」と笑った。
獄の笑みは、万能薬のようだった。微笑みひとつで様々な傷を癒してしまうような感覚がある。
「気配で悟っておる。瑠々緋はひととして生まれ直したのだな」
「……うん」
凛龍は「……あいつは碧衣ってやつと一緒になって……たくさんの人間を殺した」と振り絞るように言った。獄は何も言わなかった。狂輔が「小生が説明するよ」と口を挟んだが、獄は首を左右に振ってそれを断った。
「すべては瑠々緋から直接。思うことがあればいかな凶行も厭わぬ……あの子は一途で頑固な子だから」
「……獄」
獄が瑠々緋を詰問する気がないのは明らかだった。でもその目に滲んでいるのはやさしさだけではなかった。
神は生きている人間に干渉してはならない。
その禁忌を犯しているのだから。
「瑠々緋はどちらに? 会いとうございます」
射貫くような強い視線に狂輔の背も伸びた。
「……案内する」
狂輔が歩き出すのに獄が続いた。あ、と小さく声を漏らして立ち止まると振り返った。
「後々銀龍も来るだろう。男同士、積もる話もあるだろうからゆっくり」
凛龍は「……わかった」と答えて笑った。
なんだかやっと、笑えた気がした。
 




