105「君たちは一体何をしようと」
花の敷き詰められたガラスの棺の中に眠るのは、螺鈿の髪をした男だった。
眼を瞑り、開く様子はない。その傍らで赤毛の青年が項垂れていた。真っ白な装束に身を包んだ青年の頭には猫の耳がついていて、臀部には尻尾が生えていた。それは彼の心情を表すかのように重力に従って下がっていた。
青年の背後の扉が横にスライドした。入ってきたのはアッシュグレイの髪をした青年と桜色の髪をした少女の二人組だった。
「……きぬ」
親しみを込めた名で呼びかけると、赤毛の青年絹夜は、つと顔を上げた。同時に耳が少しだけ立ち上がる。
「……龍善」
呼びかけた青年に絹夜もまた、名を呼んで返事をした。
微かな突起のような角に、着流しの和装。そして顔には目が余分に三つついている。一見して異形とわかる彼のもとよりあった二揃いの目を、絹夜は見つめた。
どの目も等しく絹夜の身を案じていた。
「だいじょぶか? ……最近ロクに食ってねえだろ」
絹夜は健啖家だ。一日に三食以上食らうのが常だった。けれど今は一食か或いは何も食べないか、どちらかだった。彼はずっと棺に寄り添っている。部屋に帰って寝ることもしていなかった。
「……ん。……食べる、気。……しない」
力なく答える絹夜に、龍善は眉尻をさげた。それから隣にいる少女に小さく目配せをした。
彼女は桜色の髪をしていた。髪の毛は緩く波打ち、頭部には二対の鹿の角と見まがう、枝が生えていた。枝にはこぶりな桜の花が所々咲いている。桜の花の色と香で染まった衣装を軽やかに身に纏っていた。少女は龍善の目配せに頷くと、懐から小さなリボン包みを取り出した。
「絹夜さん、これを。<桜の香>を練りこんだクッキーです」
「……」
「少しだけ元気になります。……おにいちゃんもきっと絹夜さんが元気なほうが、喜ぶから……」
差し出された包みを絹夜は袖で覆われた手で受け取った。中を開き、入っている楕円形のクッキーをつまむ。控えめに噛み砕くとやさしい甘さが舌の上に転がった。思わず絹夜は「ほう」と溜め息についた。
「……ん。……うまい。……ありが、とう。……壱多」
最愛のひとの、妹である壱多に絹夜は薄く笑いかけた。すると壱多も安心したように笑い返した。
ガラスの棺の中で眠っているのは、絹夜の恋人で、壱多の兄である零雨だった。
混戦の中、榧に頭を割られて行動不能に陥った。新たな『器』はすぐに用意されたが、破損が思いのほか著しく、加えて頭部だったために『器』への定着に時間がかかっている状態だった。
『器』はひとでなくなったモノたちが現を歩くための道具である。
血肉は通っていないが、卵の殻と同じなので破損が酷ければ中身にも差し障る可能性がある。中身――即ち『依り代』、本体の方へ。
ここにあるという確かな感触――実存に影響の出る範囲ではなかったそうだが、危険だったことには変わりがないと『生命の花園』の管理人が言っていた。
「『器』に『依り代』……最初は理解するのに時間かかったよなあ。外の器と本体、っていうさ」
暗い雰囲気をなんとかしようと、龍善が首のあたりを掻きながら話し出した。
それに壱多が「そうですね」と笑った。
「ふふふ、ほんとうに。壱たちがまさか鬼と桜の妖精さんになるだなんて思いませんでした」
零雨も絹夜も、龍善も壱多も生前はただの人間だった。特殊な生い立ちであったけれど、確かに人であった。生前に残した執着が、ここまで四人を連れてきた。
もっと一緒にいたかった――その想いが今の形を維持している。想いが続く限り、四人は死ぬことすらできない。
「……きぬ、だから。……大丈夫だよ」
死なないからさ、俺たち。
そう続けられた言葉に絹夜は目を瞬いた。慰めようとしてくれているのだとわかった。彼は暮れなずむ空を写し取った瞳に、喜色を滲ませる。
「……ありがとう」
真っ直ぐな感謝の気持ちに、ふたりとも頬を緩めた。
絹夜はガラスの棺を振り返った。零雨はいまだ眠っている。『器』と『依り代』は表裏一体なので、わずかな隙間もあってはならない。鬼や精霊の身では、現は歩けないのだ。
現は信じられていないモノは容易く消えてしまう場所だから。
「……零雨」
絹夜はガラスに触れた。硬質で温度のないその感触は彼の体に似ていた。
〝玻璃の零雨〟――『緋紅楼』で呼ばれている彼の通称だった。
「……だいじょうぶだよ」
龍善が寄り添って言うのに、絹夜は無言を返した。
きっと零雨が一番、自分に言いたいのだろうと思いながら。
その時だった。
背後の扉が再び開いた。誰かと龍善たちが振り返るとそこにいたのは渋い顔をした狂輔だった。
相変わらず目に痛い色の着物を羽織っている『管理局』局長たる彼女は龍善と壱多を押しのけて絹夜の前に出た。何事かを問いたい風であることが明瞭だった。
「やあ、赤猫君。小生が何を問いたいかわかるね?」
詰問する口調だったので、思わず龍善が前に出た。しかし絹夜が目配せして、更に首を横に振ったので開きかけた口を噤んだ。
「……俺は。……話す、のが。……得意。……では」
「知っているよ。……いや? 今さっき知った、……というのかな」
狂輔の表情は険しい。
絹夜は黙って、彼女の糸目の合間から見える金と赤の光を凝視していた。
「……」
「精霊を思うままに扱える力、禁忌の術<言霊>。それを使える奴がいるだなんて思わなかった」
「……」
「君、『資格持ち』なんだな?」
「……」
絹夜はこくりと頷いた。
何のことやらわからぬ龍善と壱多は、お互いに顔を見合わせて首を傾げていた。
◇
精霊とは現象の最小単位のことである。
精霊を認識できる者は多い。俗にいう『霊感』だとか『視える人』だとか言われるものだけれど、彼らの大半は精霊と言葉を交わすことはできない。精霊の言葉を聞いて、かつ話すには生まれながらに資格が必要だった。そうして精霊と交流のはかれる『魔女』以外の存在を、総じて『資格持ち』という。
狂輔が天から堕ちた時には、精霊はもうほとんど信じられておらず、精々おとぎ話の住人くらいの認識になっていた。だからいないと思っていた。
実際には存在していた。稀有な体質と能力と共に。
その事実は隠されていた。ほかでもない、『魔女』によって。
「……自覚したのは子どものとき。……弟が世間に注目され始めた頃です」
絹夜が話し出した。
あの後狂輔と共に部屋を出た絹夜は、局長室にいた。狂輔は彼に<言霊>は通じないと伝えると、「……わかった」と言って、普段の単語を区切るような物言いではなく一文はっきりと話すようになった。
「君の実家は確か、水墨画の名家だったね」
狂輔は思い出していた。
零雨と絹夜――人を食らうことでしか生きることができなかった男とその男に愛され、そして愛した青年についての資料を。
絹夜は首肯した。口数の多いたちではないらしい。
「……長男だったので期待はされていました。毎日厳しい練習ばかりだったけど楽しかった。……みんなが俺を褒めてくれるからうれしかった。――でもそれは本心ではありませんでした」
長い睫毛が夕暮れ色の目に重なった。前髪でたださえ見づらい表情が、暗い影に覆われる。
「……みんな、俺が無自覚に使っていた<言霊>にあてられていただけでした」
幼い絹夜は作品が完成するたびにそれを見せて「褒めて」とねだっていた。
その言葉が、すべて<言霊>になっていた。大人たちを無自覚に操っていたのである。
だから「褒めて」と言わなくなると途端、両親も周囲の人間たちも一度たりとも褒めなくなった。
「でもそれが、自覚したきっかけではないんだろう?」
「……」
絹夜は頷いた。
<言霊>――その頃の絹夜は、単語を知らなかったのでそうは呼んでいなかったけれど、自分の言葉が他人に強く影響すると実感したのは弟絃和の存在だった。
彼は生まれつき病弱だったが天才肌で、練習などしなくても素晴らしい作品を生み出した。両親の期待も愛情もあっという間に絃和が奪っていった。幌呂木家からも水墨画の世界からも絹夜の存在は消えてなくなったのである。あまりに唐突な変化に絹夜の心は怒りも悲しみも全部置いていかれた。驚愕のうちに世界は塗り替わっていた。
絹夜に関心を寄せてくれるのは飼い猫と金魚くらいだった。ある日、絹夜が絃和の部屋の通りがかると、彼はか細い声で「兄さん」と呼んだ。無視しようとしたけれど「兄さん」と何度も呼ぶから、とうとう折れて声に導かれて絃和を見た。彼は薄く微笑んで言った。
「兄さんはいいなあ。僕じゃ、アケにも金魚に触れられないんだから。僕にはもう、絵を描くしかないんだ」
アケは飼い猫のことだった。動物の毛にアレルギーがあった絃和は触れるおろか同じ部屋に入れることすらできなかった。悪気のない言葉だった。けれど絹夜にとっては忘れていた怒りを思い出させる決定的な発言だった。一気に頭に血が昇った。
――ふざけるな、黙れ、誰のせいで。
いろんな感情がごちゃまぜになった叫びが口をついて飛び出した。ずっと言ってはならないと、思っていたことを。
「ふざけるな!! あんたさえいなければ……あんたさえいなければ俺は……俺は……!!」
叫んだあと、逃げるようにその場を後にした。絃和の顔を見ることはできなかった。
「……そんなわけがないのに。……あの時の俺はだいぶ腐っていたし、友人もあまりいなくて、おかしかったんだと思います。……ぐちゃぐちゃになった感情が<言霊>になってしまった」
その言葉を放った次の日、絃和は忽然と姿を消した。けれど、世界は何も変わらなかった。敷いてある布団や飾られた作品を皆不思議に思いながら片付けていた。そうやって普通に訪れた朝に絹夜は戦慄した。
誰ひとりとして、絃和のことを忘れていたのである。
「……どういうことかわからず、怖くなって……。そのとき、『キミのせいだよ』と教えてくれたのが、……コハクです」
絹夜はズボンの裾をめくった。星と魚が象られた刺青が一周、彼の足首に描かれていた。
「……君の……『善き友人』か」
「……」
精霊たちに向かって、直接『精霊』と呼ぶのは無礼に当たる。なので『善き隣人』だとか『善き友人』だとかいう。刺青が一瞬だけ発光し、そしてすぐ静かになった。
――キミの言葉がキミの家族を消してしまった。もう、戻すことはできないヨ
コハクは絹夜が心の寄る辺にしていた猫と金魚を合体させた神秘的で奇妙な姿で顕現した。
彼の言葉を聞いて、絹夜は己の中に秘められていた力と成した罪を知った。
「……その時にはじめて、<言霊>の存在を知りました」
瞳の中の、暮れる空が怯えていた。
それから絹夜は言葉が正しく機能しないよう、一呼吸置きながらしゃべるようになった。
感情を表に出さないように努力もした。暗いやつだ、とろとろしゃべるな、と怒られても直さなかった。
「……俺のことは、それだけです。……姫綺と……綺光と出会ったのは死んだあと、『代行者』になった時です」
「……そう」
狂輔は頬杖をついた。
それから、
「……君たちは一体何をしようとしているんだい?」
と聞いた。
絹夜は意を決したようにまっすぐ前を向いた。
「……『慈母』と『慈父』の帰還。そして」
「……そして?」
「――膠さん自身の帰還です」
あのひとは、まだ迷っているようだから。
絹夜は誰かの言葉をなぞるようにそう言った。
 




