命の羅針盤
月のない夜であった。
おばあさんはたったひとりで白鳥のボートを足で漕ぎ、蚤ヶ島へと向った。
凪の夜だった。
多摩の浦は闇に包まれていた。風が止み波も止まった海である。そのなかをおばあさんはボートを漕ぎに漕ぎまくった。白鳥のボートが出す飛沫の音、あとに立つ波の音だけが闇夜に響いていた。蚤ヶ島まで五キロ、まだ島は遠い。
疲れを感じることもなく、真っ直ぐ蚤ヶ島に向って進んだ。実に静かな夜だった。
「あっ」
とおばあさんが声をあげた。
突然の爆音と光に気づいたのは、浜を出て小一時間がすぎた頃だった。闇夜にいく筋かの光が走り、轟音が響いた。しかしそれはすぐに治った。
「雷だろうか」とおばあさんはつぶやき、また白鳥のボートを漕いだ。
しかし月のない闇夜である。真っ直ぐ進めば蚤ヶ島に着けるはずであるが、潮に流されているかも知れない。稲光まで出てきた。雷になり海が荒れるかも知れない。おばあさんは不安を感じたが、蚤ヶ島への前進はやめなかった。
枝子に関する確かな情報が何ひとつ掴めないなかで、おばあさんの気持ちは、娘の身の危険すら感じるまでに、深く大きな波になっていた。おばあさんは魔法にかけられたように、心の荒波のなかを漕いだ。
「私はあの子の母親だ」
しかしやはり闇夜の海である。自分の位置が分からない。進むべき方向も定かには分からない。八幡様に貰った「命の羅針盤」は光を反射しなければ役に立たないようだが、月明かりひとつないのだ。おばあさんは羅針盤を闇に向けてみたが、まったく方向を示さなかった。このままでは潮に流されて死んでしまうかも知れない。
そのときである。闇夜に彗星がひとつ流れた。
おばあさんは咄嗟に羅針盤をその光に向けた。蚤ヶ島とボートの位置が「命の羅針盤」にはっきりと映り、進むべき方向を示した。
「助かった! 」
浜風に漂うようにゆっくりと村の方に流れてゆく彗星の光を羅針盤に反射して蚤ヶ島を照らした。
その瞬間であった。蚤ヶ島から轟音とともに光が一線、おばあさんの白鳥のボートに向け放たれた。光は白鳥に当った。
白鳥の首は取れ、羽根も胴体もばらばらになった。おばあさんは海に投げ出された。「命の羅針盤」を片手で抱え、必死に白鳥の壊れた体にしがみつく。しかし海水は何事もないようにおばあさんの体を冷やし、次第に力を奪っていった。
「もう駄目か・・・」
白鳥から手を放し、爆破でできた大波に静かに飲まれてゆく。
「命の羅針盤」には枝子の姿が映っていた。薄れてゆく意識の中で、少なくともおばあさんには確かにそう見えた。おばあさんはこの瞬間まで枝子を欠片も疑ってはいない。疑うことが出来なかった。悪い奴らに騙されていると思い込んでいる。蚤ヶ島は酷いところだが、島での慈善事業なんかどうでもいい。枝子に身の危険が迫っている。命さえ救えればいい。
しかし、沈んでゆく。
「ごめんよ。今日までなにもしてやれなかったね・・・」
おばあさんが沈んでゆく。羅針盤には幼い頃の枝子が映っていた。笑顔であった。
「あの子だ」
命だった。それがなければこの世にはなにもなかった。
おばあさんは、枝子を映す「命の羅針盤」を大切に抱えたまま静かに海の闇のなかに消えていった。
(つづく)




