72:六月六日その①
入院から九日。
俺は漸く退院の許可を得て、当然のごとく右腕は宙づりのままで病院を出ることになった。
「お会計はおばあさまから頂いていますので、結構ですよ」
「……さいで」
「くれぐれも、ちゃんと治るまで右腕を酷使したりしない様にしてくださいね。体全体を動かすのも、ちゃんとバランスを考えてですね……」
退院の日になって、かの看護師の姉ちゃんが俺に説教モードで話しかけてくる。
それまでは汚らわしいものでも見るかの様な目で俺を見ていたくせに。
そのくせ二日に一度シャワーを、とか言って男性の看護師呼べよ、って言っても私が当番なので、と頑として譲らず、俺は物凄く恥ずかしい思いをした。
「あーもうわかったんで、帰っていいですか? これで漸く羞恥プレイから解放されると思うともう、帰りたくて帰りたくて」
「な! 医療行為の一環です!! おかしなこと言わないでください!!」
「怒鳴らないでくださいよ、腕に響くんで。まだ他に注意点とかあるんですか?」
「お風呂は入浴を避けてください。シャワーも、ギプスを濡らさない様に……」
まだ続くのか。
せっかく帰って一人でのんびりできる、なんて考えてたのに台無しだ。
「それに、今からだって気を付けてもらわないと……」
「わーかったっつーの。何? あんた俺のこと好きなの?」
「はぁ!? 真面目に注意してるのに、全く!! 迎えとか来ないんですか!?」
何キレてんだよ、ただの冗談なのに。
まぁナースって割とそそられる、なんて考えたことがないわけでもないけど……そんなことを考えていたなんてことがあいつらに知れたら……。
「来るわけないでしょ。あいつらだって学校あるし、常識で考えたらわからないんですかね」
「おばあさまは……」
「来るっつったらさすがに俺も会いたくねぇからタクシーでも呼んでますよ。他に聞きたいことは?」
「……そうですか。ではどうぞ、お気をつけて!!」
手でしっしっとやられて……ってこれ、仮にも患者にする対応じゃねぇだろ……。
何なんだ今日は。
女難の相でも出てんのか?
とにかく小うるさいのから解放されて、俺は足取りも軽く自宅への道を歩いた。
多少日差しが強く、少し動けば汗ばんできそうな気候だが帰ったらシャワーでも浴びれば良い。
やっとこさ地元に戻ったところで、俺は二つ気になることがあることに気付いた。
まず一つはババァに電話しなければならないが……いつしたらいいんだ?
そしてもう一つ。
「……誰かつけてきてんな」
退院早々、俺なんぞに何の用事があるんだか知らないが……池野さんとか先輩でもなければ俺を尾行しようなんてのは、百年早いってところをいっちょ思い知らせてやりますか。
丁度駅の近くにあるコンビニの脇にある路地に差し掛かったところで、俺は荷物を抱えて猛然とダッシュする。
背後にあった気配が一瞬呆気にとられたのか動きを止めていたが、当然のごとく追いかけてきた。
「運動不足って言ったって、たかが十日弱で弱ってたまるかっつの」
ぼそりと呟き、池野さんから逃げた時の様に、俺は路地をいくつか曲がって複雑に逃げる。
池野さんだったら普通に話しかけてきてるだろうし、先輩も然り。
まぁ普通に考えて先輩は学校に行ってるし、尾行者の候補からは外れるだろう。
「…………」
となると、他に俺をつけてきそうな人間に心当たりはない。
万一戦闘になったとしても、片手が使えない程度で一般人に遅れをとるとも考えにくい。
そう考えて俺は、尾行者を背後から追い詰めてやることにした。
「はい捕まえたっと。……って、え?」
「…………」
俺を執拗に追いかけていたのは、何とあの看護師の高嶋さくらだった。
私服姿ではあるが、見間違えようがないしあまりにも想定外すぎて、正直頭が追い付かない。
「な、何であんたが……」
「は、離してください。大声出しますよ」
「そりゃこっちのセリフなんだが……何、あんたストーカーの趣味でもあったわけ?」
「違いますから。バカじゃないんですか? ただ、午後は半休だったので、今日退院の患者の様子を……」
バカだの何だの……一体何なんだこいつ。
けが人に喧嘩でも売りにきたのか。
「様子、そう。様子ね。もう見たし、いいよな? じゃ、ごめんなすって」
「ちょっと!! あなたがこんな入り組んだところに来たから、私迷って帰れないんです!! ちゃんとわかるところまで案内してください!」
「……はぁ? 勝手について来といて何言ってんだよあんた。夜勤明けで頭腐ってんの?」
「失礼な!! とにかくちゃんと案内してくれないなら、強姦される、って叫びます」
「…………」
どんな物好きだったら、こんな満身創痍の体で女襲うんだよ。
返り討ちに遭うとか考えてもおかしくねぇぞ、一般人だったら。
いずれにしてもこのまま言い争っていても埒が明かないので、仕方なく俺は表通りに向けて歩き出す。
渋々と言った様子で高嶋もついてくるが、俺は今回何一つ悪くないはずだ。
「何で逃げたんですか」
「何でつけてきたんだよ、じゃあ」
「つ、つけてきたとか言わないでください! ただ私は様子をですね……」
「ああ、わかったから騒ぐな。それより、俺の前に出るんじゃねぇぞ」
「え……?」
もう少しで表通り、というところで見覚えのある様なない様な、ゲスな顔立ちの男が二人、俺の前に立ちはだかる。
どっかで見た様な顔してんだけど……何処だっけ。
「お前、優木要だよな。いつぞやは蹴り飛ばしてくれたの、覚えてるか?」
二人のうち、一人が俺に話しかけてくる。
まぁ立ちふさがるくらいだから、俺に用事があるのは明白なんだが蹴り飛ばした男なんて、数えきれないくらいいるだけに何処でいつ、というのがわからなければ思い出し様がない。
「悪いな、ゴミのことなんかいちいち覚えてねぇわ。いつ何処で蹴り飛ばされたんだ? あとそんなことを堂々と言ってくるってのはあれか、また蹴ってくださいっていう意思表示か?」
そこまで言って、富岡と再会した時のことが頭をかすめる。
ああ、あの時の……俺、忠告したと思うんだよな。
「ああ、そうだそうだ。あの時のな。それより俺の忠告は耳に入らなかったか、てめぇら。この辺歩くなよ、ってな。見かけたら殺すってよ」
ニヤリと笑いながら二人を見ると、気圧されしたのか一歩後ずさる。
見たところ切り札を用意したわけでもない様だ。
ということはだ。
「大方俺の姿を見て、今なら勝てそうとか安直なことでも考えたんだろうが……お前らごときに右腕なんぞ必要あるか。今度こそ、地獄に送ってやるよ」
「だ、ダメですよ優木くん!! その体で喧嘩なんて……」
「下がってろっつってんだろ」
そう言って左手を伸ばすと、左腕に柔らかい感触が。
おっと、この感触は……。
「こ、このスケベ!!」
「バッカ、不可抗力だっつの!!」
そう、一般的に言うラッキースケベ。
そこそこ形の良さそうで、まぁまぁ大きめの高嶋の胸が、俺の腕に当たった。
「おいおい、何こんなとこで乳繰り合ってんだよ!! よそ見してる場合か!?」
「ざけんな!! 何で俺がこの年増ストーカーと!!」
「年増ぁ!? それ私に言いました!? ねぇ!!」
「ば、バカ放せ!! ていうか離れろ!!」
俺と高嶋をまとめて片付けようとしたのか、二人ともが同時に仕掛けてきた攻撃を、高嶋を突き飛ばすことで何とかかわして高嶋を見ると、尻もちをついて俺を睨んでいる。
こんな時にスケベだの何だの、意味不明なこと言ってっから……。
「女に気を回してるなんて、余裕だなおい」
「ああ? だから俺の女じゃねぇっつの。さっきのだって事故でだな……っぶね!!」
説明してる最中に蹴り入れてくるなんて、躾のなってねぇゴミだな……。
「いたっ!?」
「……おいおい」
俺が避けた蹴りが、高嶋をかすめたらしく高嶋は腕を押さえて呻いている。
別に俺の連れでも女でもねぇけど、何となく腹が立つ感覚を覚えた。
「てめぇら……やっちゃならねぇことをしてくれたなぁ」
「はぁ? お前ついさっき自分の女じゃねぇって……」
「知るかバカ野郎!! ぶっ殺す!!」
高嶋が止めるのも聞かず、俺は怒りのままに左手と両足を駆使して、目の前のゴミを殲滅することにする。
平日の午前中ということもあって人通りのほぼない裏路地に、二人の男の悲鳴が響き渡った。




