60:五月二十六日その①
「えっと、いきなり何なんですかね、これは」
「ん? 荒縄」
富岡との別の意味でのドキドキハラハラデートを終えた翌日。
そういえば具体的なことを決めてなかった、という人はもう一人いたということを当日に思い知らされるという失態を犯した男がここにいる。
もちろん俺のことだ。
そしてその人が俺の部屋に来るなり手渡されたもの、それは荒縄だった。
「何に使うか、聞いておいてもいいでしょうか……」
「え、そんなの決まってるよね? どっちがいい?」
「どっちって……」
二択なのか。
受け身を取る場合。
俺は瞬く間に縛られて地獄を見ることになるかもしれない。
いや、この場合はもはやかもしれない、なんて生ぬるいものではなくほぼ確実にそうなることは間違いないだろう。
そして俺が縛る方を選ぶ場合。
……いや、縛り方とか知らねぇよ。
厳密には、池野さんの目を見ればすぐに理解はできるのだろうが……。
「あの、どっちもなしって言うのは……」
「もちろん、無し。お姉さん、楽しみだったんだぁ」
何なんだ、この人。
この人がやりたかったのって、これなの?
しかし、少し考えて俺は、一つの答えに辿り着く。
「じゃ、じゃあ縛る方で。でも縛り方とかわからないんで、記憶を見せてほしいんですが」
「へぇ、優木くんそっちに興味あったのかぁ。いいよいいよぉ。じゃんじゃん見ちゃって!」
すげぇノリノリだなこの人。
まぁ本人がそう言うのであれば、俺としても遠慮は必要ないだろうと判断して、池野さんの目を覗き込む。
「で、富岡ちゃんはどうだった?」
池野さんから記憶を受け取ると共に繰り出される尋問。
つい昨日のことを振り返ってしまって、俺は動きを止める。
「凄いエッチな子だと思ってたけど、当たってた?」
「……答えないとダメですかね、それ。一応プライバシーに関わる部分なんで、話しちゃうのはどうかと思いますけど」
「ん~、そうだねぇ。まぁ私は別に話されてもいいけど。何なら複数いてもいいかなとか思ってるくらいだし」
富岡とはまた違った意味でレベル高ぇなこの人。
さすがに全員がこのレベルになっちゃったら俺は死ぬんじゃなかろうか。
「その辺は追々、かな? 今はお姉さんに集中してね?」
「…………」
妖艶に輝く池野さんの瞳は、この人がとんでもないエロ女であることを物語っている。
割と下ネタ好きな人ほど、実戦になると大したことないなんてのはよくある話だが、この人は両方を極めた、いわばエロ仙人みたいなものか。
それなりの戦い方をしないと、あっという間に俺がゲームオーバー、なんてことも考えられる。
って何を俺は真面目にくだらないことを考えているんだ。
「お、いいね。優木くんってやっぱり器用だよね」
「そうですか?」
「そうだよ。やり方がわかったからって、そうそうすぐに実践できる人なんていないって」
今まで褒められた中で、ダントツに嬉しくない部分を褒められている気がする。
何しろ緊縛術なのだから。
使い道がかなり限定される上に、実生活で何の役に立つのかと言われるとぱっと思いつかない。
新聞とか取らないし、雑誌も買わない俺としてはこんなもん、こういう時かせいぜい何かの犯人に遭遇して取り押さえて……って荒縄持ち歩いてる男子高校生ってどうなの?
「おお、すごいすごい。お姉さんもう身動きとれないよ!」
「そりゃよかった。んじゃ、俺昼飯買ってくるんで。何がいいですか? 適当でいいですよね、それじゃごゆっくり」
「えっ?」
呆気にとられた様子の池野さんを置いて、俺は財布と携帯、そして鍵を持って外に出る。
最初からこうしとけばよかったぜ。
何て言うの、こういうの。
放置プレイだっけ?
リアルでお目にかかる機会があるとは思ってなかったが、これもいい経験だということにしとこう。
「さて、と」
二人分の食料、と思って物色していると、俺は一つ気になることがあった、ということに気付く。
池野さんがただただ大人しく縛られて、俺の帰りを待つなんてことがあり得るのだろうか。
あの人のことだから、割と簡単に縄抜けとかして……。
「ご明察。さすがの洞察力だよ、優木くん」
「…………」
不意に背後からかかった声に、俺は背筋を寒くする。
やっぱ詰めが甘かった、ってわけね。
「お、お早いご到着ですね」
「お姉さんにかかればあの程度の縄くらいはね。とは言ってもまさか放置プレイになるなんて考えてなかったから、一瞬びっくりしちゃったけど」
あれ、これあれか。
顔はニコニコしてるけど、ちょっとおこじゃね?
「優木くんがなりふり構わない姿勢でくるなら、お姉さんもそれなりの姿勢で応えないと、だよね?」
「い、今から謝ったら許してもらえたり、とかは……」
「ん~……却下」
うわぁ、物凄くいい笑顔。
「お姉さんこっちの方がいいなぁ」
「あ、はい」
俺の選んだものより、もっと好みのお弁当があったらしく池野さんはそれを手に取る。
この際何食ってもいいから、お手柔らかに、って訳にはいかないんだろうか。
いや、割とマジで。
「後で何されるか、って顔してるね。怯えちゃって、可愛い」
「…………」
怯える元になってる人がそれ言うんですか……。
一応法律上じゃ、池野さんが俺に何かしたらその時点で犯罪なんだけど……まぁ、この人のことだからそんなのいとも簡単に回避してみせるんだろうな。
「優木くんがどうしても、って言うんだったらお姉さんも今日はソフトなのにとどめてもいいよ? どうする?」
「え、本当ですか?」
「もちろんタダってわけにはいかないけど。あ、お金がほしいわけじゃないからね?」
「…………」
金で解決できるんだったら、是非そうさせてもらおうと思ってたのに一瞬で封殺されてしまった。
恐ろしい人だ。
「さ、じゃあ帰ろうか。それともお姉さんの家、見てみたい?」
「え、池野さんの?」
「うん、興味あるならご招待しちゃう」
池野さんの家……興味ないこともない。
ぶっちゃけ一人暮らしとは聞いていたけど、それ以上のことはほとんど情報としてはないも同然なのだ。
記憶を見た時も、ごく普通の女性の生活、と言ったところだったが……。
「監禁されたり、なんてことはないですよね?」
「ん~? 優木くんはお姉さんを、そういう風に見てたの? ちょっとショックだなぁ……」
「あ、いえ、そうじゃないですけど……」
何しろ富岡みたいなぶっ飛んだ例がある。
出来る警戒はいくらしておいてもいい……それは昨日、俺が冷や汗をかきながら学んだことだ。
「優木くん、お姉さんに監禁されたいの?」
「一言もそんなこと言ってませんよ。そもそも、こうして連れ立って歩くのだってグレーでしょうが、本来なら」
「案外つまんないこと気にするんだね、優木くんって」
そんな法律が私をどうにか出来るとでも思ってるのか、そう池野さんの目は言っている。
たとえ警察を呼んだところで、無力化できる何かがあるということか。
もちろんそんなことしたら池野さんだけでなく他の連中からも非難囂々と言ったことになりかねないから、俺もそんな風に事を荒立てるつもりはないが……。
「じゃ、ひとまず行こっか。ちゃんと夜には帰してあげるから、安心してね」
「…………」
こんなにも安心できない安心してね、という言葉がこの世に存在しようとは。
俺の手を引き、先を行く池野さんはいつも通り楽しげな表情で鼻歌など歌いながら、しかしその手を絶対に離さないぞ、という意志がその手から感じられた。




