01
「だー、終わらない」
そう悲鳴をあげて、有栖はテーブルの上に突っ伏した。
書きかけの書類を枕に、このままうとうと誘われるままに眠ってしまおうかとした彼女へ、名無しが声をかける。
「終天はともかく零號はイレギュラーな出来事なので、本日中に報告書をあげていただきたいのですが」
その一幕は、空き部屋のひとつをあてがえた執務室で起こっていた。足の低いテーブルが一脚あるだけの、有栖が事務仕事をこなすための部屋。
「というか、先に書かれていた手記はなんだったのですか」
「えー? 零號と終天を掃除した時の出来事をまとめた記録よ」
「そうならば、そちらを送ってくださるかたちでも構いませんので」
「だめよ。これは大切なものだから」
「同じ内容なのでは?」
「そうなんだけど、まあ日記みたいなものだから報告書とは別よ」
なんてことなさげに言い、上体を起こした。
「見つけた。壊した。それだけなのになんでこんなこまごまと書かないといけないのかしら」
「壊した状況のほうにイレギュラーがないか判断できるのは、本土の研究員だけですからね」
「それはそうでしょうけど。今さらな気もするのよね」
ペン先でぐりぐり用紙をなじる。
そのまま書き進めてはくれないものか、と名無しは思っていた。
「はー、山のようにあった残骸も一通り壊して、あとは破棄されてくる廃棄技術を壊すだけの悠々自適な生活だったのに……」
有栖の言い分は正しい。
夢の島へ渡る際に彼女の挙げた報告書に目を通したが、一時期は悪鬼羅刹がごとき速度で清掃活動にいそしんでいた。
それも自堕落な生活がしたいという目標があったためか、いや――。
名無しはそういえば、と気になっていたことを質問してみた。
「え、私の刀が欠けてもいない理由? そうね、めちゃくちゃな運用はしているんだけど……やっぱり手足がいいからじゃない?」
名無しはペンを握る少女の指先を改めて眺めてみた。
そこに人工物らしい無機物感はない。継ぎ目がないことで逆に生まれるのっぺりとした違和感もない。
「実際に筋肉や骨、神経と結びついているって話だしね。血も通っているから傷つけば出血もするわよ。けど、さわってみれば違うってわかるわ」
さわる? と差し出されたが、名無しはそれを断った。
「休憩は十分でしょう。さあ、書いてください」
そう促せば、少女はいやいやながらに筆を進めた。
始めれば終わるのが早い。
――きっとそう、寄り道が嫌いなのだろう。
一気呵成と、終天の報告書までも終わらせた有栖。
受け取った報告書を定期便で送る準備を整えた名無しは、ぐったりとした少女をねぎらうように、入れたての緑茶と新品の鞘を差し出した。
「あら、早かったじゃない?」
「早急に、と念押ししといたので」
足元に忍ばせていた刀を鞘に納める。何度か鯉口を切って抜刀の感触を確かめていた。
「前と寸分変わらない気がするんだけど」
「不便でしょうか?」
「そんなわけないじゃない。ただ、すごいわね、うん」
感心したようにうなずき、茶飲みを鼻梁に近づけた。
すんすん、と鼻先を動かす姿は、はてさて犬に似ていた。
ずるずる音を立ててすすり、ほっと一息つく。
「よく私が濃いめのお茶が好きってわかったわね」
「以前渡したマカロンをたいそう美味しそうに頬張っていたので、はっきりとした味が好きなのかと思いまして」
「辛いのと渋いのは嫌いよ」
「承知しました」
名無しが夢の島に来てから、調理場に立つのは彼の仕事のひとつになった。
有栖が料理を苦手としているわけではない。ただ彼女は、どうにも素材の味を楽しみすぎていた。
なにせ定期便で来る食材を、見栄えよく並べているだけで、加工らしい加工は加熱処理のみだったのだ。
差し出口とわかっていたが、一度勝手に朝食をこしらえたら大層喜ばれ、料理係に任命された。
「本日の仕事はここまでですね。お昼までまだ時間がありますので、それまでは余暇を過ごしていただければと」
「その報告書でなにか進展すればいいんだけどね」
「そうですね」
本当に寄り道が嫌いな人だ、と名無しは思った。
定期便の来る時間だからと名無しは屋敷を出た。
それを見送った有栖は、伸びをして一息ついた。
今日も今日とてロリータ服。
「零號でよごれちゃった子も早急にって伝えればよかったかしら」
手に持った鞘を指先で撫でる。
「まあ、おんなじの持ってるでしょって怒られちゃうか」
そんなことをつぶやきながら、さて何をしようかと勘案する。
「…屋敷この掃除でもしますかね」
有栖は定期的に屋敷内の掃除を行っている。
彼女が幼少のころに住んでいた生家に比べれば手狭なものの、人一人が住むにはあまりに広い。
少し目を離せば、知らず知らずとほこりやカビがはびこってくる。
ただでさえ外観は廃墟同然だ。三年前、来た当初からそうだったので、もはや手を加えられるものではないと思うが。
「結局ここは、だれの別荘だったのかしらね」
どこぞの私有地を買い取った際の名残と有栖は勝手に判断していた。
使用していない部屋の多くは、どこか人の痕跡が濃く染みついている場所ばかりだ。
本質的には元の持ち主がだれであっても、興味はなかった。
「まあいいわ。だって今は、これからも私の家だもの」
自分のものは大切にする。当然のことだ。
用具室へ行こうと足先を変え、がちゃりと扉の開く音がした。
東の沖から往復してくるには早すぎる。何より、まだ定期便は来ていないはずだ。
「どうしたの、忘れ物?」
と、問いかけた有栖の向こうにいたのは、見知らぬ女性だった。
色づき始めた紅葉を思わせる明るい茶髪。まなじりは緩やかで柔和な印象があった。すらっとした輪郭のなかで、腰からふとももにかけてが柔らかなふくらみを持っていた。
「どちらさま?」
そう言って、柄に手をかける有栖。
「ノックもなしに、非礼な人ね」
「さあ? わたしは家に帰ってきただけ……けれどそう、この場所がわたしの家でないのなら、きっとこのわたしは……」
焦点が定まっていないのがどうにも目についた。茶色の虹彩が混濁している。
女性は、何も持ち合わせていない手のひらを握りしめた。
「言葉祈月。そう名乗るほかないわ」
吐き出された銃弾のように祈月が駆ける。
零號のような人並外れた速度ではない。
軋む鴬鳴きが、歓喜するような音色だったことにささやかないら立ちを覚える。
腰構えにした鞘から抜刀する。動かしたのは、手首と肘のみ。
真逆に折れる関節から繰り出される剣戟は感覚よりも早く、祈月の首を切りつける。
「っ」
首の皮一枚のところで回避した祈月が冷や汗を流す。
有栖が上体を開いて、逆手の柄をかち上げた。
顎を割る追撃を祈月が手のひらで受け止める。
ずじりと一瞬かかった荷重。だがすぐにそれは失われた。
有栖が鞘から手を離したのだ。
彼女の背を通って刀の切っ先が祈月の腹部に狙いを定める。有栖のひざが本来回らないはずの横方向にひねられていた。
肩甲骨が存在しないような肩の開き方に祈月は虚を突かれる。
肉を切らせる覚悟か。祈月は防御の動作も見せずに拳を放った。
それがなぜか嫌なものに有栖は感じられ――いや、手足が叫んでいた。
古傷が雨でうずくような感覚。
「ふっ」
とっさに落下中の鞘を蹴り上げた。
拳が届く手前で上腕をはじいた。
拳が小さな体躯の上を通り抜けていく。
懐に入り込んだ格好の機会。
だが有栖は、致命の一撃を中断して距離をとった。
言葉祈月の懐が、棺桶のなかのように感じられた。
「あとちょっとだったのに」
しびれるのか。右腕をさすりながら祈月はつぶやいた。
「本当にやっかい。天肢……それ単独ではただ運動能力を向上させる手足なのに、おまえは本来の手足の機能ではない運用も可能とする」
「それは」
「ええ、そうじゃない。おまえにとって手足はそういうものなのよね、霧切有栖」
「私の手足についても……あなた研究所の関係者?」
「研究所。そう、元々は。おまえと一緒で役割を与えられて、この場所に保管された」
「役割。なんの?」
「人類の保護……いや違う。それはあれの機能……けれど、あれは人類を守らない。だから――」
ぼやっと胡乱な視線が一点に像を結ぶ。
「おまえの手足を砕く。それは人類の天敵だから」
有栖の手足を見つめ、祈月はそう宣言した。
「この家はおまえのもの。わたしを奥に通さなかったから、それは認める。けど、その手足はおまえのものじゃない」
「いいえこれは私のよ」
有栖はそう断言した。
この状況を正しく認識できているわけではない。
祈月が何者なのか。なぜ、彼女を恐れているのか。
何もわからないなかで、それだけははっきりと言えた。
「私のものは、だれにも壊させない」
「そのためにほかを奪うのね。零號も終天も、彼らは奪われた機能を取り戻すためだけに生きてきたのに」
「彼らのことも知っているのね」
「ええ。本土で社会的にあぶれた、廃棄寸前だった彼らへ最後の夢を送ったのは、私ですから」
「あなたが……!」
彼らをこの島へ送り、廃棄技術を再起させたのか――その二の次は継げなかった。
祈月が開け放たれたままの扉から出ていったから。
追おうと思えば追えた。
彼女の身体能力は、一般的な成人女性のそれしかない。
零號のような人並外れた機能も、終天のように人から外れた機能も持ち合わせてはいない。
「言葉祈月」
偽名であるのは明白だ。
ならばそれを名乗るに至った経緯。その名前に込めた意味は何であろうか。
「私はあの人の、何を恐れたんでしょうね」
自身の手足に目を配る。
彼女は天肢を、人類の天敵と呼んだ。
それが恐れる存在がいるのならば、どう形容するべきか。
「彼女は私にとっての天敵なのかしらね」
どうであれ、有栖が祈月に対してどのような立場をとるかは決まっていた。
「壊すわよ、言葉祈月。だってあなたは、そうなのでしょう?」
役割を得て、この屋敷で保管されていたと彼女は語った。
けれど有栖が来た時にはもう、この屋敷はもぬけの殻であった。
掃除屋の役割を得た時に先達がいる旨も聞かされなかった。
ならばそう、彼女は、
「廃棄されたのなら、終わらせる」
床に転がった鞘を拾い上げる。
今回は働くことのできなかった刀をなだめるように納める。
開かれたままの扉を見つめた。
「……」
再びまみえる日はそう遠くないことを予感しながら、有栖は扉を閉めた。