零✿ 事 実は小説より鬼なり《じじつはしょうせつよりきなり》
怪物の舌のような雲に覆われ、月光は届かない。
東の村の外れ、樹林にほど近い川の中で、目を合わせがたい異形が宵闇にその身をうねらせた。
巨大なアンコウのような体、皮膚に浮き上がった幾多の人面、頭部からは提灯のように触手が生え、先には溶けかけた人の頭部が吊り下がっている。
化け物は砲声をあげた。
発狂しそうな不協和音を撒き散らし、強酸を纏って水面を飛んだ。
着地。巻き上がった飛沫が樹木に触れた瞬間、ジュッという嫌な音と共に巨木が飴細工のように溶け落ちる。
川の水の殆どが死の毒液と化していた。
皆、殺す。
これまでに歯向かってきた磨師供と同じようにしてやる。
獲物を逃がした新たな磨師への怒りが溢れた。
逃げた奴も、今から食う奴も、等しく肉液にして啜ってやらねばならぬ。
蹂躙のみが己の生だ。それほどに育った自覚がある。
だからこそ――樹林から現れた「朱い髪と朱い長着の男」を見たとき。
本能が鳴らした「絶望」の警報を、化け物は無視してしまった。
暗闇から、地を這うような低い獣の遠吠えが響く。
男が牙を剥き、笑った。
あ、え。
次の瞬間、世界から音が消えた。
気がつけば、化け物の体の右半分は消し飛んでいた。
断面が焼ける音すらない。不条理な破壊。
朱い髪を揺らした男は、断面から溢れる強酸を下駄で踏みにじりながら、面倒そうに鼻を鳴らした。
鬼。
朱い鬼が、暗がりの奥へと消えていく。
◇
一つの闇が、人知れずひっそりと消えた頃。
五行都市〈木ノ宮〉の一角、白壁に挟まれた闇の中で、着物の童女が一人、まるいモノを蹴って遊んでいた。
けりころ とばす けりとばす
土に付くのは赤だけで 月に届けとおみ足で
可憐な歌声。
童女は、転がっていた「それ」を愛おしそうに両手で拾い上げた。
それは、凹んで形が変わった成人男性の頭部。さきほどまで幸せそうに酒を飲み歩いていた反物屋の主人だった。
【あんなぁ、奥さんお腹に子供おるんやろ? ……助かるなぁ。安心してな、すぐに一緒にしたるから】
童女は裂けた口端で嗤い、頭を掲げて躍る。
深淵から這い出るように、白い皮膚に乳房を並べた巨塊が現れ、優しく童女を包み込んだ。
翌朝。
腕利きの磨師たちが守るはずの都市で、反物屋の夫婦が失踪したと、静かな噂になった。




