#9 作ったは作ったんですけど、マイナ保険証としてはまだ使ったことなくて……
休憩が終わる。湯のみの温もりがまだ指に残っている。
休憩前に学んだ“高額療養費制度”と“限度額認定証”。
どちらも患者さんを守るための仕組みだけれど、申請や手続きの壁があって、現場ではなかなか使いこなされていない。
その“壁”を越える新しい仕組みについて、愛美の声が再び静かな医事課に響く。
愛美がプリントをまとめながら、ふと沙耶の方を見て言った。
「ところで、沙耶ちゃんはマイナンバーカード、使ってる?」
沙耶は、ちょっと気まずそうに笑った。
「……えっと、作ったは作ったんですけど、マイナ保険証としてはまだ使ったことなくて……」
「そうよね、そういう人まだ多いんだけど――でも、今はマイナンバーカードが限度額認定証の代わりになるって知ってた?」
「えっ、えっ? え、そうなんですか?」
愛美はにっこりしながら、プリントの一番下を指さした。
「ここにちっちゃく書いてあるんだけどね。“最近は、マイナンバーカードから限度額の資格を確認できる”って。これはつまり、わざわざ役所に行って“限度額認定証”を紙でもらわなくても、マイナンバーカードを使って保険証として登録しておけば、それだけで限度額制度が自動的に使えるってこと」
沙耶が思わず声を上げる。
「えっ、じゃあ……入院とか手術とかのときに、事前に役所行かなくていいんですか?」
「そう! それが、今の制度のすごいところ。マイナ保険証として使えるようにしておくだけで、病院のほうが“この人は限度額適用できます”って情報をオンラインで確認できるの」
沙耶が感心したように言った。
「なんか……地味にすごいですね、それ」
「でしょ? しかも、患者さんが“限度額認定証忘れました!”って焦ることもなくなるし、私たち医療側もスムーズに処理できるようになるから、お互いに助かる仕組みなの」
紬が、ちょっと真面目な顔で質問した。
「でも、患者さんが“マイナンバーカード使えます”って言ってくれなかったら、わかんないこともありますよね?」
愛美さんはうなずいた。
「うん、だから受付では“マイナンバーカードお持ちですか?”って、こっちから確認するのが大事。それに、カードが使えるようになってるかどうかも、その場で機械に通さないと分からないからね。“カードを持ってるだけ”じゃダメで、“健康保険証としての登録”をしてる必要があるの」
沙耶が、ちょっと不安そうに呟く。
「……私、たぶんそれやってないかもしれないです」
「大丈夫。マイナポータルとか、コンビニの端末とか、スマホからも登録できるから、今からでも全然間に合うよ」
「そうなんですね」
「じゃあ実際に、マイナンバーカードで確認できる情報について、練習として沙耶ちゃんの情報を使ってみようか」
「えっ、私ですか……?」
沙耶は少し緊張した表情を浮かべ、手をぎゅっと握った。
「大丈夫、あくまで練習だからね」
「はい」
「マスクを外して、顔認証をするんだよ」
沙耶は少し赤くなりながらも、小さく深呼吸をしてマスクのゴムを外した。ふわりと前髪が揺れる。
その瞬間、紬の目が釘付けになった。
紬から見た沙耶は、手入れの行き届いたサラサラの黒髪ボブに美しい天使の輪が浮かぶ、どこかクールで知的な女の子というイメージだ。
けれど、マスクがすっと下に滑り落ちて露わになったその素顔は、あまりにも愛らしく無防備だった。
(……あら? マスク外すと、けっこうイメージ変わるタイプ……?)
紬は内心で思った。
マスクの下からあらわれたのは、ぷっくりと丸みを帯びた輪郭、柔らかそうなプニプニのほっぺた。そして、少し緊張して首をすくめると、ややたぷんとした二重あご。
(かわっ……なにこれ、めちゃくちゃ可愛い……!)
隠されていたあまりのギャップの破壊力に、紬の胸がドクンと大きく跳ね上がった。普段のピシッとした印象とのギャップがあまりにも魅力的で、まるで隠された宝物を見てしまったかのような甘い高揚感が、紬の頭をクラクラとさせる。
もちろん、わざわざ指摘したりはしない。
愛美は画面を軽く指で示しながら、二人に語りかけた。
「さて、ここからが本題ね。マイナンバーカードを保険証として使うと、具体的に医療現場でどんな情報が確認できるか、分かる?」
紬と沙耶が顔を見合わせる。紬が恐る恐る口を開いた。
「えっと……保険証の種類とか、自己負担の割合……でしょうか?」
「正解! まず一番基本になるのが健康保険の資格情報ね。加入している保険組合や負担割合、そしてさっき話した限度額適用の区分がリアルタイムで確認できるの」
愛美はマウスを動かし、画面の項目をひとつずつ追っていく。
「そして、本人の同意があれば確認できる大切な情報が、あと2つあるの」
「あと2つ……?」
「ひとつは『過去に処方されたお薬の情報(薬剤情報)』。もうひとつは『特定健診(健康診断)の結果データ』よ」
沙耶が目を丸くした。
「えっ、お薬とか健診の結果まで見えちゃうんですか!?」
「そうなの。例えば、患者さんが『普段飲んでる薬の名前、忘れちゃったな……』ってときでも、過去3年分のお薬の履歴が画面で確認できるから、飲み合わせの悪い薬を重複して処方するリスクを防げるの。健診結果も、生活習慣病の指導や診療の大きな助けになるのよ」
「へぇ……! カードの中に、そんなにたくさんのデータが入ってるんですね」
紬が感心すると、愛美は補足するように手を振った。
「あ、誤解されがちなんだけど、実はカードのICチップの中に病歴や健診結果が入ってるわけじゃないのよ」
「えっ、違うんですか?」
「カードに入っているのは、あくまで“本人であることを証明する電子証明書”だけ。カードを読み取ることで、専用の安全なネットワーク(オンライン資格確認システム)を経由して、必要な情報にアクセスする仕組みなの。だから万が一カードを落としても、そこにプライベートな医療データが直接入ってるわけじゃないから安心してね」
「なるほど……セキュリティもちゃんと考えられてるんですね」
モニターに、沙耶ちゃんの過去の薬剤情報、健診情報や限度額認定情報の履歴を表示させるための画面が表示される。
紬が驚くと、沙耶ちゃんは慌てて手を挙げた。
「だ、だめですっ! それ以上見ないでください!」
もちろん、紬は画面を閉じる。愛美さんは穏やかに笑いながら説明する。
「個人情報の取得や確認には、必ず本人の同意が必要だよ。たとえ練習でも、無断で覗くことはできないからね。これは医療事務として絶対に守らなければならないルールね」
沙耶はほっと息をつき、少し恥ずかしそうにマスクを直す。
紬は、彼女の緊張した小さな仕草を見て、普段の完璧な姿とは違う一面をそっと感じた。
(沙耶ちゃんも、こういうところでは普通の女の子なんだ……)
落ち着いた沙耶が、愛美に質問をする。
「ところで、お薬とか健診の結果だけじゃなくて、限度額の情報も確認するのに同意が必要なんですか?」
「そうなの。ここ、すごく重要なポイントだから覚えておいてね」
愛美は真剣な表情になってうなずいた。
「なんで限度額情報の取得にも本人の同意が必要かというとね……限度額の区分って、そのままその人の所得や収入のランクと直結しているからなの」
紬と沙耶がハッとしたように顔を合わせた。愛美は続ける。
「さっきのプリントでも見たでしょ? 区分ア〜オとか、低所得Ⅱとか。限度額の情報を見るということは、患者さんがどのくらいの収入を得ているかという、最高レベルの個人情報を確認することと同じなの。だから、たとえ医療機関であっても、本人の同意なしに勝手に覗くことは絶対にできない仕組みになっているのよ」
「なるほど……! 単なる手続きのデータじゃなくて、収入っていう繊細なプライバシーに関わるからなんですね」
紬が深く納得したように呟いた。
「ふたりとも、よくできました。一応、保険証に関する説明はこれで終わりだね」
「保険証の確認って、間違い探しみたいな地味な作業ではあるけど、すごく大事な仕事だからね」
愛美の声に、紬は小さく頷いた。沙耶はまだノートに何かを書き加えている。
その横顔を見ながら、紬はふと手元のマイナンバーカードを見つめた。
つや消しの表面に、少し昔の自分が映っている。
「……そういえば、紬ちゃんのカードも読んでみようか。せっかくだし、練習してみよう」
「えっ、わ、わたしも……ですか?」
「もちろん。全員分やっておくと安心だしね」
促されてカードをリーダーに差し込む。小さな電子音が鳴り、画面に“顔認証を行います”の文字。
紬はマスクを外して前髪を直す。だが、端末が一瞬うなったあと、赤い×印が表示された。
「……あれ、認識されない……?」
愛美が画面を覗き込む。
「うーん、たぶん髪型が違いすぎるんじゃないかな」
「あっ……」
カードの写真は、肩より短いくせ毛まじりの髪が爆発気味。
田舎の高校で、まだ“自分をどう見せるのか”も定まっていなかった頃だった。
今は必死で勉強したメイクを施し、定期的に縮毛矯正をかけてゆるめのセミロングにまとめている。高校時代の自分とは、別人のように垢抜けた状態だった。
(この写真、ほんとに嫌いなんだよな……大学デビューする前の、ダサくて湿気でぐちゃぐちゃだった頃のやつだし……)
沙耶が画面を見ながら、申し訳なさそうに言った。
「けっこう印象、変わりますね」
「うん……自分でも別人みたいで……」
紬は思わずうつむいた。沙耶の綺麗な黒髪サラサラボブが視界に入り、昔の野暮ったい写真と引き比べられているような気がして、少しだけ縮こまってしまう。
愛美は穏やかに笑い、端末の操作に切り替えた。
「大丈夫。こういうときのために、ちゃんと手順があるの。顔認証が通らない場合は、スタッフが“施設暗証番号”を入力して、目視確認で処理できるようになってるの」
「えっ、それって……カードを読み取れなくても使えるってことですか?」
「正確には、カードのICチップの情報は読み取って、本人確認の部分だけを目視で補うの。私たち医療機関の職員が、“本人の顔とカードの写真を照合して確認しました”って責任をもって登録する方法ね。そのために、施設専用の暗証番号を入力するの」
愛美は端末に手を伸ばし、テンキーに数列を打ち込む。
ピッという音とともに、画面に「職員による本人確認を実施しました」と表示された。
「はい、これで完了。本人確認は目視で行ったってことで、システム上も記録が残るから安心してね」
「へぇ……そんな運用があるんですね」
「うん。現場ではけっこう多いよ。顔認証が通らなくて、暗証番号も忘れちゃうこと。だからかな? 実は、厚労省からも“顔認証が通らないときの確認方法”っていうリーフレットが出てるの」
愛美はプリントの束の中から、緑色の表紙の資料を取り出した。
『顔認証付きカードリーダーによる本人確認ができないときは?』
——タイトルにはそう書かれている。
「このとおり、カードを機械に通して施設暗証番号を入力すれば、私たちが顔を見て本人確認をすることができるの。正式な運用だから安心してね」
紬は少しだけ笑って、「よかった……」と小声でつぶやいた。
愛美は、その横顔に気づいて優しく言った。
「証明写真って、誰でもちょっと嫌になるよね。でも、こうやって制度を正しく使えば、ちゃんと“その人の身を守るカード”になるから」
紬はゆっくりと頷いた。
(コンプレックスも、制度の一部みたいにちゃんと扱ってもらえるんだ……)
そんな不思議な安心感が、胸の奥に少し残った。
愛美はふたりを見回しながら、まとめるように言った。
「というわけで、マイナンバーカードを健康保険証として登録しておけば――限度額認定証の手続きも、自動的にオンラインで反映される。でも、顔認証がうまくいかないときは、こうやって“目視確認”で処理できる。大事なのは、ちゃんと“本人とカードの一致を確認した”という記録を残すこと。これが医療事務の責任であり、信頼につながるの」
沙耶が静かにペンを置き、言った。
「……なんか、“デジタル”って冷たい感じがしてたけど、こうして人の目と手が入ることで、ちゃんと温かさがあるんですね」
愛美は微笑んだ。
「そう。システムの向こうにも、人の手がある。それを忘れないことが、いちばん大事なのよ」
紬はカードをそっと胸ポケットに戻した。
さっきまでの小さな不安は、湯のみの温もりみたいに、ゆっくりと指先から消えていった。




