#8 私が払う保険料も……誰かの診察に繋がってるんだ
休憩時間の声がかかると、愛美はふたりを見て軽く手を叩いた。
「じゃあ、食堂行こっか。ふたりは……初めてだよね?」
「はい」
「今日が初です!」
そう答えた紬と沙耶は、並んで歩きながら、内心ちょっとだけそわそわしていた。
職員食堂の扉を開けた瞬間、ふたりはほぼ同時に目を見開く。
「……思ったより、広いですね」
「え、普通に学食みたい……」
白衣姿や制服姿の職員が並ぶ中、どこに並べばいいのか、一瞬わからなくなる。
「えっと……これって、先にメニュー決めるんだよね……?」
「多分……写真のところからじゃないですか?」
愛美がくすっと笑いながら、後ろからフォローした。
カウンターの上には、今日のメニューがずらりと並んでいる。
「うわぁ……迷いますね……」
立ち止まったのは、沙耶だった。メニューをじっと見つめたまま、動かない。
愛美が苦笑しながら声をかける。
「迷ってるの?」
「……はい。どれも良さそうで……」
「私はもう、照り焼き一択なんだけど」
「え、即決……?」
「お腹すいてると、考えるのめんどくさくなるタイプ!」
そう言って、紬は迷いなくA定食のトレーを取った。
ごはんは普通盛り、追加で唐揚げもいけそうな勢いだ。
「紬ちゃん、結構しっかり食べるよね」
「はい! 健康だけが取り柄なので!」
胸を張って答える紬に、愛美がくすっと笑う。
「私は今日はこれかな」
愛美は、ヘルシープレートを手に取った。
蒸し鶏と野菜がバランスよく盛られている。
「愛美さんのも、美味しそうですよね」
沙耶が言うと、愛美は少し照れたように笑った。
「んー……量がちょうどいいのと、午後眠くならないから」
「なるほど……」
沙耶は再びメニューに視線を戻す。
魚、鶏、サラダ、カレー……。指先がトレーの上を行ったり来たりしている。
実は、沙耶には切実な悩みがあった。
ぽっちゃり体型の彼女は、やや大きめのサイズで制服を申請するのが恥ずかしくて、無理して少し小さめのサイズを着用していた。学生時代の経験から、制服なら身体のラインを拾わないと想定していたが、いざ実際に着てみると明確にパツパツだったのだ。
腕を上げたり屈んだりするたびに、布地が悲鳴を上げないかヒヤヒヤしている。
(初日から制服を弾けさせたら立ち直れない……! でも、本当はお腹ぺこぺこだからガッツリ食べたい……! うぅ、でも食べすぎたらさらにパツパツに……)
脳内で繰り広げられる激しい葛藤。
そんな沙耶の様子を見て、紬が遠慮がちに声をかけた。
「……あの、沙耶ちゃん。決める基準って、何かあるの?」
「えっ……基準……」
沙耶は少し考えてから、なんとか誤魔化すように答えた。
「……できれば、重すぎなくて。でも、ちゃんとお腹にたまって……でも、食べすぎた感じにはならなくて……」
本当は大盛りカツカレーでも頼みたい勢いだが、変に納得されたりするは恥ずかしい。かと言ってあまりに量が少ないと、夕方ごろにお腹が鳴りそうで怖い。
そのどちらも避けたくて、沙耶はなかなか決められずにいた。
「む、難しい……!」
紬が思わず吹き出す。
愛美は、沙耶の視線と制服のウエストあたりを交互に見て察したように、くすっと笑いながら助け舟を出した。
「じゃあ今日は、白身魚フライ定食にしてみたら? 揚げ物だけど、鶏より軽いし、量もほどほどだよ」
「……それ、いいかもしれません!」
ようやく決断して、沙耶はB定食を取った。
ごはんは少なめでお願いする。
三人でテーブルにつくと、自然と会話も緩んでいく。
「……食堂って、病院っぽくないですね」
紬が照り焼きを一口かじりながら言う。
「もっと味気ないかと思ってました」
「意外とちゃんとしてるでしょ」
愛美がスープを飲みながら答える。
「こういうのも職員の福利厚生だからね」
沙耶は、白身魚を少しずつ口に運びながら、ふと思い出したように口を開いた。
「……そういえば」ふたりの視線が向く。
「初任給って……何に使うか、もう決めてます?」
少しだけ、声が小さい。
「え?」「沙耶ちゃんから、その話題来るの意外」紬が目を瞬かせる。
沙耶は箸を止めて、視線を落とした。「……私、まだ全然決められなくて。家族に何か贈ったほうがいいのかな、とか。でも、実家暮らしなので……改まると、ちょっと照れくさくて……」
言いながら、自分でも何を言っているのか分からなくなってくる。
「かと言って、自分のために使っちゃっていいのかな、とも思って……」
「欲しいものがないわけじゃないんですけど……」
そこまで言って、沙耶は小さく苦笑した。
「結局、何も決められなくて」
「それ、さっきのメニュー選びと同じじゃない?」紬がくすっと笑う。
「う……」
最後は、小さな苦笑になった。
「それ、分かる」
意外にも、先に頷いたのは愛美だった。
沙耶が顔を上げる。
「私も実家暮らしだからさ」
愛美はスープを一口飲んでから続ける。
「“ありがとう”って形にするの、近いと逆に難しいんだよね」
「……はい」
「一緒に暮らしてると、“今さら?”って気もするし」
「でも、何もしないのも違う気がして」
愛美は少し照れたように笑った。
「私も初任給のとき、結構悩んだよ」
「愛美さんも……」
「うん。結局そのときは、家で使うちょっといいタオルにした」
「タオル……」
「消耗品なら気負わないし、“みんなで使える”って理由つけもできるから」
沙耶は、少しだけ安心したように息をつく。
「……そういう考え方も、ありますよね」
「タオル、それすごく良いですね! 家族みんなで使えるなら照れくさくないし、納得です」
沙耶はぽんと手を叩いて、ぱっと表情を明るくさせた。
「あ、それなら彼氏とかにあげるのはどう?」
紬が身を乗り出して、ニヤッと悪戯っぽく微笑む。
「プレゼントなら、家族じゃなくて彼氏にあげるのもありじゃない?」
「えっ……かれ……!?」
沙耶は予想外の角度からの言葉に、手にしていたお箸を落としそうになりながら思い切り動揺した。
頬が一瞬で真っ赤になる。
「な、ななな何言ってるんですか紬さん! 私、生まれてこの方、彼氏なんて一度もできたことないです……!」
「えっ、そうなの!?」
「そんな、食い気味に驚かなくてもいいじゃないですか……!」
真っ赤になって慌てる沙耶の姿に、愛美も思わず吹き出した。
「うぅ……いじめないでください……」
沙耶はパツパツの制服の袖で顔を隠すように縮こまった。
「ごめんごめん! じゃあ、話戻すね」
紬はくすくす笑いながら手を合わせた。
「ちなみに私は、もう使い道決めてます!」
「早いね! 紬ちゃんは一人暮らしだし、自分の生活費でカツカツじゃない?」
愛美が驚いたように聞くと、紬は少し誇らしげに胸を張った。
「一人暮らしだからこそです! 実家の両親に、ちょっと良い“お肉のカタログギフト”を贈ろうと思ってて」
「お肉のカタログギフト?」
沙耶が首を傾げる。
「うん。就活のときも、一人暮らしの初期費用も、両親にすごく助けてもらったから……“初任給が出たから、たまにはふたりで美味しいお肉でも食べてね”って送ろうかなって。形に残るものだと実家暮らしじゃないから好みも分からないけど、美味しいものなら気兼ねなく受け取ってもらえるかなって!」
「素敵……!」
沙耶が目を輝かせる。
「すごく気遣いが利いてて良いね。ご両親絶対喜ぶよ」
愛美も感心したように頷いた。
「へへ、ありがとうございます! あとは……自分のためにも、一人暮らしの家用に『ずっと欲しかったちょっと良いヘアドライヤー』買おうかなって企んでます!」
「自分へのご褒美も忘れないスタイル、最高だね」
愛美の言葉に、三人で和やかに笑い合った。
「でも、すごく紬さんらしい」
沙耶もメモをとっている。
愛美も紬の言葉に、ふっと表情を緩めた。
「うん。初任給の使い道として、すごくいいと思う」
少しだけ間が空いてから、愛美が続ける。
「でもね、初任給って全部を“自分で決められるお金”だと思いがちだけど、実際はそうじゃない部分もある」
沙耶が首を傾げる。
「……そうじゃない、部分?」
「税金とか、保険料。最初から使い道が決まってるお金も、ちゃんとあるんだよ」
「このあたりの話って、ちゃんと聞いた?」
紬と沙耶は、ほぼ同時に首を横に振る。
「……正直、よく分かってないです」
「私も……お給料から引かれる、くらいの認識で……」
愛美は苦笑しながら頷いた。
「うん、最初はみんなそう。じゃあ簡単に説明するね」
テーブルの上に置いたトレーの端を、指で軽く叩きながら続ける。
「税金とか社会保険料ってね、基本的には“前年の収入”を参考に決まるの」
「前の年……?」
「そう。だから、ふたりみたいに学生のときにバイトしてなかったり、収入が少なかった人は、最初の一年はかなり軽め」
紬はほっとしたように息を吐いた。
「……それ、安心します」
「私もです……」
「……あ」
「どうしたの?」と愛美が尋ねる。
「そういえば……」
紬は、思い出すように言った。
「バイトしてたとき、“これ以上働くと、何万円の壁超えちゃうから気をつけてね”って言われたこと、あります」
「……ああ」愛美がすぐに頷く。
「シフト増やそうとしたときとか」
「そうです」
紬は少し照れたように笑う。
「正直、そのときはよく分かってなくて……」
「ただ、“超えると損するから”って言われて、じゃあ、控えたほうがいいのかな、くらいで……」
沙耶が首を傾げる。
「何万円の……壁?」
「いわゆる“扶養の壁”だね」
愛美が説明する。
「一定の金額を超えると、税金がかかったり、保険の扱いが変わったりするやつ」
「……あ」
「それも、結局は“収入を基準に決まる仕組み”なんだよ」
紬は、ゆっくりと頷いた。
「……あれは、そういうことだったんですね」
「うん。でもね」
愛美は、そこで少しだけ声のトーンを変えた。
「社会人2年目からは、ちょっと現実が来る」
ふたりの表情が、同時に固まる。
「前年に“正社員として一年分働いた収入”を基準に、住民税とか社会保険料が決まるから、“お給料は同じなのに手取りが減った?”ってなる人がすごく多い」
「明細見て、“え?”ってなる人、ほんと多いよ」
そこで、紬が少し考え込むように視線を上げた。
沙耶が小さく目を丸くする。
「高い……どれくらいですか……?」
「人にもよるけど、“え、こんなに引かれるの?”って一度は思うと思う」
愛美は苦笑した。
「私も最初、明細見て固まったから」
「……怖いですね」
「怖い。でもね」
そこで、愛美は少し柔らかく笑った。
「その分、病気したときも、産休も、何かあったときの支えになる。だから“取られてる”って思いすぎなくていい」
「守られてる、ってことですか」
「そう。社会人になった証みたいなものかな」
紬は、さっきまでの軽い雑談とは違う重みを感じながら、静かに頷いた。
「……知らないままより、ちゃんと知ってたほうがいいですね」
「うん。初任給で浮かれてるときに、一度は聞いておいたほうがいい話」
愛美はそう言って、空になったカップを手に取った。
「――現実だけど、大事な現実だから」
愛美の話を聞きながら、紬はふと、胸の奥がすとんと静かになるのを感じていた。
税金。
保険料。
前年の収入。
引かれるお金。
今まで、正直あまり考えたことがなかった。
「なんとなく払ってるもの」「勝手に引かれてるもの」――それくらいの認識だった。
でも。頭の中で、点と点がゆっくりと線になる。
病院にかかったとき、窓口で払う金額が3割で済むこと。
高額になったら、限度額があること。
全部が、全部。
誰かが、どこかで“前もって”支えている仕組みの上に成り立っている。
「医療費とか……保険って……」
紬は、ぽつりと口にした。
「“困った人を助ける魔法”みたいなものだと思ってました。でも……違うんですね」
「うん?」
「ちゃんと、“みんなで少しずつ支えてる仕組み”なんだって……今、やっと分かった気がします」
愛美は何も言わず、ただ小さく頷いた。
紬は自分の手元を見つめる。
今はまだ、ほとんど病院にかかったことのない体。
薬とも縁がない生活。
それでも。
(私が払う保険料も……誰かの診察に繋がってるんだ)
「これからは……“支える側”にもなるんですね」
紬は、少し照れたように笑った。
医事課の仕事や健康保険の仕組みが、自分の足元に近づいた気がした。




