#7 これって、“食べ放題で元をとるのは無理”みたいな話ですか?
紬は、さっきからずっと、同じ負担割合の保険証なのに毎回違うことが書かれていることに困惑していた。
「……あの、こっちは“低所得Ⅱ”? そっちは“所得区分エ”? 何がわからないのかも、わからないです……」
思わず口からこぼれた言葉に、愛美が小さく微笑んだ。
「うん、それで正しいのよ。“何がわからないのかが、わからない”っていうのは、最初のうちは当たり前だから」
そう言うと、愛美は引き出しから、A4サイズの紙を2枚取り出した。
「実はね、こうなると思って、もう用意してたの。はい、これ。『限度額制度まとめプリント』。毎年、新人がここで必ずつまずくから、私が個人的に作ってるの」
差し出された紙には、色分けされた表や簡単な図、例付きの解説が載っていた。
病院の研修資料というより、誰かの“やさしい家庭教師”みたいな雰囲気。沙耶が手に取って、思わず感嘆の声を漏らす。
「すごい……わかりやすいです、これ」
「ありがとう。完璧に覚えなくてもね、見たことがあるってだけで全然違うの。患者さんに何か聞かれたとき、“あ、あの紙に載ってたやつだ”って思い出せるだけで十分よ」
★ 限度額制度まとめ ★
・年齢や所得に応じて、月ごと・医療機関ごとの自己負担額の上限が決まる制度
→上限に達したら、それ以上の金額は支払わなくて済む!
・その際に必要になるのが、“限度額認定証”という書類
→書類に“区分エ”などの所得区分が書いてあるので、間違えないように登録!
・最近は、マイナンバーカードから限度額の資格を確認できる
→役所で手続きをしなくても、限度額を適用することができる!
1 70歳未満の場合
所得区分 毎月の給料の目安 自己負担限度額 多数該当(※1)
・区分ア 81万円以上 252,600円 +α 140,100円
・区分イ 51.5万〜81万未満 167,400円 +α 93,000円
・区分ウ 27万〜51.5万未満 80,100円 +α 44,400円
・区分エ 27万円未満 57,600円 44,400円
・区分オ 住民税の非課税者等 35,400円 24,600円
2 70歳以上の場合
所得区分 自己負担割合 自己負担限度額(外来) 多数該当(※1)
現役並みⅢ 3割 制限なし 140,100円
現役並みⅡ 3割 制限なし 93,000円
現役並みⅠ 3割 制限なし 44,400円
一般 2割 18,000円(※2) 44,400円
低所得Ⅱ 1割 8,000円 なし
低所得Ⅰ 1割 8,000円 なし
※1 “多数該当”とは、過去12か月以内に3回以上、限度額に達する医療費が発生した場合に、4回目以降は、自己負担限度額がさらに引き下げられる制度。
※2 年上限144,000円
紬と沙耶が、同時に「うーん……」と首をかしげた。
愛美はそれを見て、小さく頷きながら続けた
「たとえばね、この“低所得Ⅱ”とか“エ”っていうのは、“限度額認定”のための所得区分なの。医療費って、高額になるとすごく大変でしょ? それをある程度セーブする仕組みがあって、一定以上は払わなくていいようになってるの」
愛美は、説明しながら書類を指でトントンと示してくれた。
「私たちは70歳未満で、ここの給料的には、“区分ウ”っていうところに該当するの。そうすると、毎月の医療費の上限は80,100円くらいになるんだよ。でも、毎月80,100円を負担するのも大変だよね? だから、過去12か月以内に3回以上、限度額に達する医療費が発生した場合に、4回目以降は自己負担限度額が44,400円になるの。それが多数該当」
「……へぇ……」
相槌をうつのが精一杯だったけど、たしかに、さっきよりは少しだけ意味が見えてきた気がした。またまだわからないことだらけだけど、こうしてやってみると、全部“誰かの治療に関わる情報”なんだなってことが、少しだけ実感できてくる。
紬が恐る恐る手を挙げた。
「……あの、医療費って、8万円もすることあるんですか? これって、“食べ放題で元をとるのは無理”みたいな話ですか?」
愛美は、思わず吹き出しそうになりながらも、真面目な顔に戻って、優しく答えた。
「あるよ。むしろ、珍しくないくらい」
「えっ……」
「たとえば、がんの治療。抗がん剤は1回数万円。何度も投与するから、あっという間に数十万になる。それに入院費。1日1万円前後かかる病院もあるから、1か月入院したら30万円以上。手術が入れば、さらにドンと跳ね上がるの」
愛美は、少し表情を引き締めて続けた。
「たとえば医療ドラマで、難しい心臓の手術を成功させて一命を取り留める――そんなシーン、よくあるでしょ? でも、もし“限度額制度”がなかったら、心臓のバイパス手術や弁の置換手術なんかだと、入院費や手術費を合わせて総額500万〜800万円なんてことも珍しくないの。そうなると、感動のラストシーンのあとに届く請求書で、現実に引き戻されちゃうよね? ドラマのテーマもブレちゃう」
紬と沙耶は思わず息をのんだ。
「……そんなに……?」
「そう。だからこそ、“限度額制度”があることで、本当に多くの人が助かっているのよ」
「……あれ? なんか今、急に思ったんですけど」
「うん?」
愛美が顔を上げる。
「タイトルど忘れしちゃったんですけど、闇医者が毎回とんでもない金額を請求する漫画あるじゃないですか」
「……ああ、あの漫画ね」
「子どもの頃は、“ぼったくり医者!”って思ってたんですけど、もしかして、あの世界には……“限度額制度”がないだけなんじゃないかな、って」
一瞬、静かになる。
愛美は、少し驚いたように瞬きをしてから、小さく息を吐いた。
「……その発想、面白いね」
「ですよね? だって、心臓の手術とか、命が助かるレベルの治療ですよね。もし保険がなかったら……何百万、下手したら何千万でも、おかしくない気がしてきて」
紬は、さっき聞いた数字を思い出していた。
500万。800万。ドラマの向こう側にあった、現実の医療費。
「限度額制度があるから、“ちょっと高いな”で済んでるだけで、本当は、医療ってそれくらいの価値があるのかもしれないですね」
そこで、愛美は少しだけ声のトーンを落とした。
「……ただしね。その制度、申請しないと使えない」
「……あ」
「つまり、“知ってる人だけが、ちゃんと守られる仕組み”なの」
紬は、はっとして顔を上げた。
「じゃあ……あの世界じゃなくても……」
「そう。現実でも、“限度額認定証を出さなかった”だけで、一時的に何十万円、何百万円を払う人はいる」
愛美は、さっき説明した言葉を、もう一度噛みしめるように続けた。
「制度がない世界が怖いんじゃない。制度があるのに、使われない世界が、一番怖いの」
紬は、静かに息をのんだ。
沙耶が、ふと表情を引き締めた。
「それって……患者さん自身が、制度を知らなかったら、損しちゃうってことですよね?」
「そうなのよ。だからこそ、私たち医療側が、“こういう制度がありますよ”って声をかけることが本当に大切。たとえば、“手術が必要です”ってなったときに、保険証見て、“あ、この人はたぶん区分ウくらいだな”ってピンと来たら――『限度額認定証はお持ちですか?』って、一言添えるだけで、その人の生活を守ることにつながるの」
紬が静かに呟いた。
「……医療はサービス業って、そういうことなんですね……」
愛美は深く頷いた。
「うん。治療と同じくらい、“安心して治療を受けられる環境”をつくることが、医療の一部なの。だから、こういう制度も“現場の力”として覚えておいてほしい。最初は難しく感じるかもしれないけど、ちゃんと勉強した分だけ、患者さんに寄り添える対応ができるようになるから」
そう言って、愛美は少し目を細めた。
「たとえば――“この人、今月入院と外来合わせたら10万円くらいになりそう”ってときに、“あ、多数該当の可能性あるな”って判断できるだけで、全然違うからね」
「……でも、もし限度額認定証を出し忘れて、高額な医療費を一度払っちゃったら、その月はもうアウト、ってことになるんですか……?」
紬の不安そうな問いに、愛美は「いい質問」と言いたげに微笑んだ。
「実はね、救済措置もあるのよ。それが“高額療養費制度”」
「えっ、それってさっきの限度額とは別ですか?」
「うん。似てるけどちょっと違うの。限度額認定証は“その月の支払いを最初から抑えるための仕組み”。でも、高額療養費制度は、“いったん支払ったあとで、申請すれば払い戻しされる仕組み”なの」
「へぇ……! 後からでも返ってくるんですね」
「ただし注意点もあってね。払い戻しには時間がかかるし、申請の手続きもある程度は自分でやらなきゃいけない。それに、医療機関ごと、月ごと、外来と入院別々で計算されるから、全部が対象になるとは限らないの」
「なるほど……便利だけど、ちょっと手間はあるんですね」
「そう。だからできれば最初から“限度額認定証を提示しておく”のが一番スムーズ。でも、もし忘れてしまっても、患者さんがあとから損しないように、“高額療養費制度もありますよ”って教えてあげることが大切なの」
愛美はそう言って、やわらかく微笑んだ。
「“支払いが終わったら関係ない”じゃなくて、“そのあとも、できることがあるかもしれない”って気にかけてあげられるかどうか。そういうところにも、医療事務の本当の意味があると思うよ」
沙耶と紬は、しばらく言葉もなく頷いていた。
(制度を知っているだけで、誰かを助けられる。自分の一言で、誰かの生活が救われることがあるんだ)
そんなことを考えながら、紬はそっとノートの余白に、「※高額療養費=あとから申請で戻る」と書き加えた。
愛美はホワイトボードに「限度額」「高額療養費」と書き分けながら、簡潔にまとめてくれた。
「まとめるとね——」
★ 高額療養費制度と限度額認定証まとめ ★
1 限度額認定証
・事前に役所に申請しておく必要がある
・医療費の支払い時に“最初から上限が適用”される
・スムーズだけど、“出し忘れると効果なし”
2 高額療養費制度
・医療費を“いったん自分で支払った後”に役所に申請
・所定の条件を満たせば、後日“払い戻し”される
・ただし、手続きが煩雑で時間もかかる
愛美は、そこで少しだけ表情を曇らせた。
「どちらも患者さんを守るための大切な制度。でも……役所に申請って、やっぱり手間だし、書類も複雑で、正直ちょっとわかりづらいんだよね」
沙耶が小さく頷く。
「制度があるのに、難しすぎて使えないって……なんか、もったいないですね」
「うん。でも、最近はその問題を少しずつ解決する仕組みも出てきてるのよ」
そう言って愛美は、いったん時計を見て、にこりと笑った。
「……でも、その話は、休憩のあとにしようか。ちょっと疲れてきたでしょ?」
沙耶と紬はほっとしたように小さく笑い、湯のみを手に取った。
愛美も湯気の立つ湯のみを手に取り、ふと窓の外を見た。
「……こういう制度が、もっと誰でも簡単に使えるようになるといいのにね」
その呟きが、湯気の向こうで静かに揺れた。




