#5 保険証は、医療保険の加入を証明する書類です②
保険証がただのカードじゃないことを知り、紬は思わず自分の財布に入った保険証を取り出す。
それを見た愛美が補足説明をする。
「それとね、もう一つ大事なのが“資格確認”。保険証を持っていても、引っ越しや就職・退職で資格が変わっていたり、無効になっていたりすることもあるの」
愛美は新しく「資格確認=有効な保険かどうかをチェック!」と書き足した。
「例えば、今、紬ちゃんが持っている保険証って、社会保険?」
「そうみたいです。父親の名前と勤務先が書いてあります」
「うん、それは“被扶養者”の保険証だね。会社で働くお父さんの保険に、家族として入ってるってこと」
「でも、紬ちゃんも沙耶ちゃんも、今日から社会人になったから、ここで発行される社会保険の加入者になるの。だから、もう扶養じゃなくなる。つまり――」
「この保険証、もう使えなくなるってこと……ですか?」
「正解。こういう“保険証が切り替わるタイミング“が一番トラブルが多いの。患者さん本人も気づいてないことがあるから、“古い保険証”を出されることも多いのよ」
「わ……私、知らなかったら普通にこのまま使ってたかも……」
紬が焦った顔でつぶやくと、沙耶が横からフォローするように口を開いた。
「私も、オリエンテーションで“保険証が届くまで2週間くらいかかる”って聞きました。でも、その間はどうするんですか?」
「いい質問だね。実際には“保険証が手元にない状態”でも、医療機関を受診することはできるよ。その場合は一時的に10割負担になるけど、あとから保険証を出せば差額が返ってくるの」
「え、返ってくるんですか?」
「そう。“保険証の後出し”っていう形でね。ただし、決まった期間内に提出しないとダメだし、返金までに時間もかかる。患者さんが負担に感じることもあるから、私たち医療事務は“保険証の有効性”を最初にしっかり確認する必要があるの」
そう言って、愛美は“資格確認”の横にもう一つ、ポイントを書き足した。
「だから、受付ではただ保険証を“受け取る”んじゃなくて、“見極める”のが大事ってわけ」
愛美はそう締めくくると、新人2人の顔を順に見て、にっこりと微笑んだ。
「この確認を怠ると、病院が本来もらえるはずの医療費を回収できなかったり、患者さんに誤った請求がいってトラブルになったりするの。だから、受付での保険証チェックは、医療の“入口”としてすごく大事なんだよ」
「入口……」
紬は、ぽつりとつぶやいた自分の言葉を、心の中で繰り返した。
病院って、お医者さんや看護師さんだけが中心だと思っていた。でも、その前に“受付”という場所があって、そこには確かに自分たちの仕事がある。
たった一枚の保険証。それを正しく見て、正しく判断することが、病院の収入にも、患者さんの負担にも、直接つながっている。それって、すごく責任があることだ。
「保険証って、小さなカードだけど、中身はすごく重たいの。住所、名前、生年月日、保険者番号、記号、番号……一つでも間違っていたら、医療費を請求できなくなる可能性がある。“ただ受け取る”だけじゃなくて、“正確に読み取る”ことが、私たちの役目なんだよ」
「……はい」
自然と背筋が伸びる。単なる“事務作業”だと思っていたものが、医療の一部としてつながっていることを、少しだけ実感できた気がした。
沙耶が横から小さくうなずく。
「専門学校で習ったときは、なんとなく流してたけど……現場で聞くと、意味がぜんぜん違って聞こえますね」
「そういう“気づき”を、これから何度も経験していくと思うよ。患者さんが最初に出会うのが受付。つまり、私たちは“医療の最前線”に立っているんだってこと、忘れないでね」
「はいっ」
「そういえば、私……入職前健診のとき、初めて病院に行ったんですけど、保険証を出し忘れたかもしれません」
そう言って、紬はおずおずとポケットからさっきの保険証を取り出す。
「あとで、保険証持っていってみます! 戻ってくるんですよね? 3割負担との差額……」
「紬ちゃん、それって“入職前健診”のときの話だったよね?」
「はい、そうです! なんとかクリニックってところに行って……診察と色々な検査を受けました。もちろん、何にも異常なかったですけど」
愛美は、やんわりとした口調で指摘した。
「それなら……そもそも保険証は使えないんじゃないかな」
「えっ……?」
「健診や人間ドック、予防接種なんかは、基本的に“保険適用外”なの。つまり、“治療”じゃないから、健康保険は使えない自由診療になるんだよ」
ホワイトボードに、愛美は新しく項目を書き足した。
★ 保険が使えない例(=自由診療) ★
・健診(入職前、人間ドックなど)
・予防接種(インフルエンザ、コロナなど)
・美容目的の診療(シミ取り、ホワイトニングなど)
・保険適用外の行為(インプラント、ED、AGAなど)
「たとえば風邪やケガの治療は“病気やケガに対する医療行為”だから保険が使えるけど、健診は“今の健康状態を確認する”ための行為だから、治療とは見なされないの」
「じゃあ……保険証、出し忘れたとか以前の問題だったんですね、私……」
紬が肩を落とすと、愛美はくすっと笑った。
「そういう経験も、ちゃんと知識になるから大丈夫。医療事務は“これは保険が使える? 使えない?”を瞬時に判断する力も求められるの。こういう場面、一度でも経験しておくと強いよ」
「“診療報酬の対象になるかどうか”ってことですね。私、学校で覚えました。でも実際の現場でこうやって聞くと、すごく納得できます」
「さすが沙耶ちゃん、よく覚えてるね!」
愛美はそう言って沙耶に目を細めると、紬の方を向いて優しく続けた。
「だから紬ちゃんが受けた健診は、全額自己負担で正しいの。返金とかは気にしなくて大丈夫。むしろ“健診には保険が使えない”ってことを、今日覚えられたのは大きな一歩だよ」
「……ありがとうございます。ちょっと恥ずかしいけど、ひとつ勉強になりました!」
保険証をそっと財布に戻しながら、紬は少しだけ胸を張って微笑んだ。
「最初は難しく感じるかもしれないけど、大丈夫。焦らなくていいから、一つひとつ覚えていこうね」
沙耶が小さく手をあげて質問する。
「ちなみに、“保険適用外の行為”のところに書いてある……ED、って……なんですか?」
一瞬で静寂につつまれる。ホワイトボードのペンが止まる音まで聞こえる。
「……っ」
愛美さんは急に視線をそらす。頬にほんのり赤みが差す。
「……知りたいです。勉強のために、教えてください。“これは保険が使える? 使えない?”を瞬時に判断する力も求められるんですよね?」
愛美は小さく咳払いして、ごまかすようにクリアファイルを閉じ始めた。
「……その、私は詳しくは知らないっていうか……えっと、経験が……」
(これなら私でもわかる! 教わるだけじゃないんだ)
「じゃあ、私が説明しますね」
「……えっ? 紬さんがですか?」
「EDは“勃起不全”の略で、治療には“バイアグラ”とかのお薬を使うみたいなんですけど、これが保険が効かないってことですよね?」
「……まあ、その通りだけど、紬ちゃん、なんでそんなにスラスラ言えるの……」
「………………っ」
沙耶は、表情をこわばらせたまま、耳まで真っ赤に染めていた。
「……す、すみません……! 知識として知っておきたかっただけで……!」
「いや、うん……わかるよ。でも沙耶ちゃん、顔が真っ赤すぎるよ……?」
そう言う愛美も、頬を赤く染めている。それを見た紬も、急に恥ずかしくなってくる。
「うっ……やっぱり私、まだまだ知らないことが多すぎて……」
「大丈夫だよ。こういうのも、いろんな意味で“勉強になった”ってことで」
「……はい……」
沙耶は小さくうなずくと、ひとつ深呼吸してから、ノートに「ED=自由診療」と丁寧に書き込んだ。




