#4 保険証は、医療保険の加入を証明する書類です①
「それじゃあ早速、保険証についてお勉強しようか」
午後の少し落ち着いた時間。医事課の一角で、愛美がクリアファイルを取り出しながらそう言った。
ファイルの中には、何枚もの保険証のコピーがきっちり重なっていて、見るだけで圧倒されそうになる。
「まずは、保険証って、どういうものかわかる?」
問いかけられた瞬間、紬は少しだけ焦った。思い浮かんだのは、学生時代に使っていた“学生証”とか、“免許証”みたいなやつ。
でもそれって、たぶん違うよね……? 使ったことがないので、よくわからない。
「……あの、正直に言っていいですか」
紬が恐る恐る口を開くと、愛美も沙耶も、ふと手を止めて彼女の方を見た。
「私……これまで一度も、病院にかかったことがないんです。たぶん、生まれてから一度も」
「えっ?」
沙耶が素っ頓狂な声を上げた。
「風邪ひいたり、お腹壊したりしなかったの?」
愛美もちょっと信じられないという顔。
「はい、風邪もインフルも虫歯もなくて。コロナもまわりは全滅してたのに、私だけピンピンしてて。検査すら受けたことがなくて」
「それ……逆に都市伝説みたいですね」
「なので、“コロナの検査で鼻が痛い”みたいな“あるある”がわからないんですよね」
「そんな人が医療事務に配属されるなんて……ちょっと珍しいタイプかもしれませんね」
「熱が出たこともないですし、怪我も擦り傷くらいで。予防接種は学校で受けたけど、病院には本当に行った記憶がなくて……。保険証はお守りみたいに財布に入れてただけで、使ったことがないんです」
「まさかの……病院キャンセル界隈?」
「……はい。入職前健診のときに初めて、受付っていう場所を通った気がします」
ふたりの視線にちょっと恥ずかしくなって、つい目をそらしてしまう。
「すごいなあ……」
愛美がぽつりと笑った。
「体力と元気には自信あるんです。だからって、就活の面接でそれしか言えなかったんですけど……」
紬が苦笑すると、沙耶が肩をすくめながら小さく頷いた。
「そりゃあ、保険証がどういうものか、わからなくても仕方ないですね」
「えっと……なんか、身分証明書みたいな……?」
そう答えると、隣の沙耶が、真顔のまま小さく首を振った。
「保険証は、医療保険の加入を証明する書類です」
沙耶が冷静に回答。答えたあとの“ドヤ感”もない。
愛美は私たちの様子を見て、養護教諭のような落ち着いた口調で説明を始めた。
「じゃあ、まず医療制度の基本から説明しようか。日本の医療は保険制度を中心に成り立っていて、患者さんは診療費の一部だけ自己負担をして、残りは健康保険や公費でカバーされる仕組みなんだよ」
愛美はホワイトボードの前に立ち、マーカーのキャップを外した。くるりと振り返りながら、やさしい笑みを浮かべる。
「保険……って、CMとかでやってるアレですか?」
紬は思わず口を挟んだ。愛美はうなずきながら、ホワイトボードに図を描いていく。
「そう、そんな感じ。日本は、“国民皆保険制度”っていって、全国民がなんらかの医療保険に入る義務があるの。大きく分けると“会社で入る『健康保険』”と、“自営業などのそれ以外の人たちが入る『国民健康保険』”、それと”75歳以上の人たちが入る『後期高齢者医療制度』”の3つね」
ホワイトボードには、それぞれの特徴が簡潔にまとめられていた。
まっすぐで見やすい字。見た目は小さいけど立派な大人だと、紬は内心で感心する。
★ 保険証について ★
1 健康保険(社保)
・会社員やその扶養家族が加入
・勤務先が保険料を一部負担
・保険証は会社経由で交付
2 国民健康保険(国保)
・自営業、フリーランス、無職などが加入
・市区町村が運営している
・保険料は全額自己負担
3 後期高齢者医療制度
・75歳以上が対象(一定の障害がある人は65歳~)
・自己負担は原則1割(※所得により2~3割になることも)
・保険証は広域連合から交付
「患者さんが病院に来たときに最初に出すのが保険証。それを電子カルテに登録すると、患者さんが負担する割合も決まるの」
(……保険証って、身分証代わりにしか使ったことなかったけど、こんなに情報が詰まってるんだ)
「病院で保険証を出すことで、医療費の一部だけを負担すればいい仕組みになってるの。残りは保険者が支払ってくれるから」
「へえぇ……!」
「負担の割合は年齢や所得で変わるの。それが、ここねっ」
愛美は、ホワイトボードの下の方を指さした。
4 年齢と自己負担割合について(重要!)
・0~5歳:原則2割(※実際には、自治体の助成で無料になることも多い)
・6~69歳:原則3割
・70~74歳(前期高齢者):原則2割(※現役並み所得者は3割)
・75歳以上(後期高齢者):原則1割(※現役並み所得者は2~3割)
(え……3割負担の期間長くない?……)
「受付では、この割合を間違えると、会計が全部ずれちゃうからね。最初は、ここを一番よく見ることになるかな」
「なるほど……。沙耶ちゃんは、こういうのも全部頭に入ってるの?」
紬が隣を振り返ると、沙耶は丸みのある頬を少し緩め、メガネの奥の瞳をパチパチとさせて小さく頷いた。
「はい。年齢ごとの負担割合も、例外になる所得要件も……ひと通り頭に入っています」
(……すご……! 本当に頭の中に教科書が入ってるんだ……!)
真顔で即答する沙耶を、紬は思わずじーっと見つめてしまった。
きっちり留めた襟元や、豊かな胸元に引っ張られて少しパツパツになっているネイビーのベスト。柔らかそうな丸みのある体型に反して、すごく一生懸命で真面目なところが、たまらなく愛おしくなってくる。
「沙耶ちゃん、天才なんだねぇ!」
「てっ!? て、天才だなんてっ!」
真っ直ぐに褒めちぎられた瞬間、沙耶は丸い目を大きく見開いた。モチモチとした白い頬がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「べ、別にこれくらい、医療機関で働くなら知っていて当然ですから……っ! 紬さんが知らなすぎるだけです!」
「あはは、ごめんごめん! でもやっぱり沙耶ちゃんはすごいよ〜!」
「~〜〜っ! だから、当たり前ですって言ってるじゃないですか……!」
真っ赤な顔のまま、肩をすくめて必死にツンツンしてみせる姿は、先ほどまでの冷静さとはギャップがありすぎて、かえって愛くるしさが溢れ出ていた。
そんな二人のやり取りを、愛美はくすくすと微笑ましそうに見つめていた。
「ふふ、沙耶ちゃんが暗記してくれてるのは本当に頼もしいな。でもね、紬ちゃん」
愛美はホワイトボードのマーカーをカチッと鳴らすと、優しくふたりを見つめた。
「暗記も大切だけど、もっと大事なのは“どうしてその制度があるのか”っていう制度趣旨を理解することなの」
「制度の趣旨?」
「そう。たとえば、なんで75歳以上になると負担が1割に減ると思う? 高齢になると医療にかかる機会が増えるから、経済的な負担を減らして、誰もが必要な医療を受けられるようにするためなんだよ。逆に、現役並みの収入がある人は3割負担のままにすることで、制度全体のバランスを取ってるの」
愛美はトントン、とホワイトボードの「後期高齢者」の文字を叩く。
「丸暗記した知識は、制度が変わったり例外が出たときに混乱しやすいの。でも、誰かを守るための仕組みなんだって意味を理解していれば、現場で迷ったときも応用が利くようになるんだよ」
「……!」
愛美の言葉に、今度は沙耶がハッとしたように丸い目を見開いた。
教科書の知識だけではない、10年現場に立ち続けてきたベテランならではの深い言葉。
沙耶はちょっと豊かな身体をすっと緊張させて、愛美に向かって深々と頭を下げた。
「……勉強になります。私は数字ばかり追っていました」
「いいのいいの。二人で補い合っていけば最強のコンビになれるよ」
愛美は二人の顔を交互に見ながら、満足そうに可愛らしく胸を張った。
紬は、もう一度ホワイトボードを見上げた。
(知らなかったことだらけだけど……)
不思議と怖さよりも「もっと知りたい」という気持ちのほうが強かった。




