#2 一応……成績だけは学年で一番でした
オリエンテーションは、あっという間に終わった。
病院の理念、組織図、服務規程。正直、頭に入ったのは半分もない気がする。
でも、「命を支える現場で働く自覚を持ってください」という一言だけは、やけに胸に残った。
「それでは、各配属先へ案内しますね」
前に立っていた総務課の女性が、にこやかにそう言った。立ち姿がきれいで、声も落ち着いている。
ネイビーのベストに名札。総務課の制服も、医事課と変わらないらしい。
病院とはいえ、あくまでも事務職員なんだと紬は妙に安心した。
「医事課配属の方はこちらです」
その言葉に、紬も慌てて立ち上がった。
同時に、すぐ近くの席に座っていた女の子も静かに立ち上がる。
(あ、この子も……)
歩き出した彼女の横顔に、紬は一瞬だけ目を奪われた。
きっちりと整えられた黒髪のボブが、白い蛍光灯の光をさらりと反射している。
シルバーのメガネと切れ長の黒い瞳。
ブラウスは襟元まできっちりとボタンが留められ、ネイビーのベストは寸分の狂いもなくウエストに沿っていた。肩にシワは一つもなく、名札の位置も完璧。
ポケットの中のボールペンまで、まるで展示品みたいにきちんと揃っている。
(……真面目そう)
一目で「しっかりした人」だとわかる。
でも、紬の視線を引き止めたのは、別のところだった。
歩くたびに、整いすぎた制服が、かえって彼女の身体の輪郭を浮かび上がらせている。
ベストの布地は、丸みを帯びた身体に引っぱられるようにして、第二ボタンのあたりにかすかな緊張を滲ませていた。
タイトスカートも同じで、完璧な折り目が、腰から太ももにかけての柔らかなラインを逆に強調している。
(……すごい。きちんとしてるのに……)
真面目一辺倒な装いなのに、なぜか近寄りがたい感じがしない。
整いすぎているからこそ、そこからこぼれ出る柔らかさが目に留まる。
紬と同じはずの新品の制服は、彼女の動きに合わせて大きく表情を変えていた。
彼女は歩きながら、ふと顔を上げて軽く会釈した。
マスクの上からでもわかる白い肌と、丸みのある輪郭。
学生っぽいあどけなさを残した表情だった。
「……おはようございます。今日からですね。木崎沙耶です」
落ち着いた声色に、紬は一瞬だけ言葉に詰まった。
(同い年……だよね?)
「えっ、あ、はい! 日下紬です! よろしくお願いします〜!」
少し声を張りすぎたかもしれない、と顔を赤らめつつも、沙耶に軽く会釈する。
沙耶はそんな紬を見て、小さく微笑んだ。
廊下を歩きながら、自然と二人は並ぶ形になる。
「えっと、沙耶ちゃんも、今年入ったばかりなんですか?」
「はい。3月に専門学校を卒業して、そのままこちらに就職しました」
「へぇ〜、専門学校ってことは、医療系?」
「はい。医療事務の専門課程でした。2年制なので、今年20歳です」
(20歳!……私より二つ下なのに、この落ち着き)
それに、医療事務の専門課程ってどんな感じなんだろう?
「診療報酬とか、保険制度とか……座学が多かったです」
言葉の選び方も落ち着いていて、すごく大人っぽい。
そんな沙耶の受け答えに、紬は自分のほうが年上だという事実を一瞬忘れそうになった。
「なんか、かなり頭よさそうですよね……」
そう言うと、沙耶は少しだけ視線を外して、
「そんなことはないですけど、一応……成績だけは学年で一番でした」と、照れたように口をつぐんだ。
自慢っぽくないのが、かえってすごみを感じる。
「すごっ! じゃあ、なんでもわかっちゃいますね。頼りにしてもいいですか!?」
紬が勢いよく言うと、沙耶は一瞬きょとんとしてから、小さく微笑んだ。
「いえ、実務は初めてなので……まだ、全然です」
「あ、そっか。バイトとか、してました?」
「いえ……実は、バイト経験もないんです」
「えっ……!? じゃあ、これが初めての“働く”ってやつ?」
「……そうですね。なにかと、お手柔らかにお願いします」
「そっかぁ。私、逆にバイトばっかりやってたかも」
「そうなんですか?」
「うん。高校のときからずっと。コンビニにカフェ、引越しに塾のチューターも。正直、職場によって人間関係が全然違って、社会勉強にはなったかなって感じ」
「いろんなところで働いてたんですね」
「まあね。長続きはしなかったけど!」
紬は肩をすくめて笑った。
沙耶はくすっと微笑みながらも、その言葉の中にある“現場慣れした強さ”を感じた。
そう言って、ぺこりと頭を下げる姿が、あまりに丁寧で立派。
なのに、妙に可愛らしく感じるのは、きっとその真面目さのせいだろう。
(私とは真逆だけど……)
やがて総務課の女性が足を止める。
「こちらが医事課です」
カウンターに並ぶ患者と、忙しなく動く医事課の人たち。
紬は息をのんだ。
沙耶も背筋を伸ばしている。
(それでも、この子と一緒なら……なんとかなるかも)




