#1 人生で初めて来た病院が、職場になるなんて——
「人生で初めて来た病院が、職場になるなんて——」
あまりにも健康すぎて、人生で一度も医療機関にかかったことがない女の子、日下紬。
彼女は就活で「体力と元気はあります!」しか言えなかったが、なんとなく応募した病院から内定を貰って働くことを決めた。理由の1つは、この病院しか内定が出なかったから。
配属は医事課、世間的には“医療事務”と呼ばれる仕事。
正直に言うと、実際に採用されるまで医療事務に資格がいらないことすら知らなかった。
あとから調べて、民間資格はあるけど必須じゃないと知った。
(資格もない私が、病院で働いていいんだ……?)
それが2つ目の理由。無資格でもできる事務職員なら、まったりホワイトに働くことができそう。
そんな感じで、初めての病院は、患者としてではなく働く側として来ることになってしまった。
……
(病院って、こんなに……でかいの……?)
見上げた建物の大きさに、紬は思わずジャケットの裾をぎゅっと引っ張った。
制服が貸与されるとはいえ、万が一に備えてのオフィスカジュアル。
就活で自然と身についた「社会人の笑顔」が、今はもう顔に貼りついている気がする。
正直、この笑顔を作れるようになるまで、本当に時間がかかった。
就活は散々で、内定が決まったのは卒業ギリギリの1月だった。
都内の中堅大学を出て、22歳の新卒としてなんとか滑り込むことができた。
もちろん、医療事務なんて経験も知識もゼロ。
「東京ノソコミオ総合病院」――その名のとおり、立派すぎる総合病院。
都心から少し離れた多摩地区にあり、その点に関しては地方出身の紬も少し安心する。
紬は、自宅から車で約10分の距離を通勤している。
広めの職員用駐車場に軽自動車を停めて、バッグの外ポケットに手を伸ばした。
取り出したのは、昨日まとめ買いした箱入りの白い不織布マスク。
就活ではほとんど使わなかったが、病院勤務なら必須らしい。
(よし……これを付けたら、仕事モード……のはず!)
自分に言い聞かせるように、マスクの紐を引っ張って耳にかけた。
コロナ禍のときに付けていたけど、それ以外で付けたことがなかった。
なんとなくミラーに映るその姿に違和感がある。
(えっ、マスク逆かも!? どっちが表だったっけ……!?)
慌てて外し、慌ててつけ直す。
だけど、今度は上下がわからなくなり、さらに真っ赤になった。
(落ち着け私! こんなんで医療事務が務まるの!?)
印字されたメーカーのロゴを見て、上下左右を把握する。気を引き締めるように深呼吸してみる。
朝の冷たい空気の中、車から降りると、緊張と期待が入り混じった気持ちが少しだけ和らいだ。
ゆっくり西側の職員用通用口へと向かう。
(え、ほんとにここで働くの? ってレベルなんだけど……)
時間はまだ朝7時30分。始業は8時30分からだけど、心配すぎて1時間前に着いてしまった。けれどその余裕は、すぐに消し飛んだ。
「えっ、救急車……何台も……!?」
救急外来の隣にある職員通用口は、夜間出入口を兼ねていて、その近くではストレッチャーが慌ただしく運ばれていく。看護師らしき人たちは何も言わずに、けれどスムーズに動きながら、誰かの命を繋ごうとしていた。
(ドラマみたい……いや、現実か……)
そんな緊張感の中で、自分だけ浮いている気がした。
焦りながらも、バッグの中から既に何度も確認して、手汗で少し湿っている院内マップを開く。
スマホにも同じ地図を保存してあるけど、紙のほうが見やすい気がして、昨日コンビニでカラー印刷までしてきた。
(えーっと……まずは、更衣室で着替えてから……8階の会議室A、だよね……?)
紙の院内マップをぎゅっと持ちながら進むと、“職員専用更衣室”の文字が目に飛び込んできた。
(ほんとに……ここで働くんだ……)
心臓がひとつ跳ねる。今まで、それなりにバイト経験はあるけど、やっぱり“社会人”は少し違う気がする。そっと更衣室のドアを開けた瞬間、紬の目に飛び込んできたのは、“病院で働く人たちの本物の姿”だった。
白衣の女性が鏡の前で髪を手早くまとめ、ナース服の人が胸ポケットにペンを差し込み、軽快な足取りで部屋を出ていく。
(わっ……なんか、かっこいい……!)
その立ち姿、清潔感、動作のスピード。“医療ドラマの世界”みたいで、見ているだけで胸がどきどきした。
「お、おはようございますっ……!」
気圧されながら挨拶すると、数名が軽く会釈だけ返してくれた。自分の声が思ったより響いてしまった気がして、ちょっと恥ずかしくなって目をそらす。
その静かでキビキビした雰囲気に圧倒され、割り当てられたロッカーへ小走りで移動する。
チラッと見えた名札には、知らない肩書きが並んでいる。
「臨床工学技士」
「診療放射線技師」
「理学療法士」
(……あ、なんかもう私だけ“部外者”っぽい……)
縮み上がりながら自分に割り当てられたロッカーを開けると、そこにはハンガーにかけられた新品の制服が待っていた。紺色のスッキリしたベストに、上品なプリーツの入った膝丈のスカート。胸元には控えめなリボンがあしらわれ、清潔感と上品さが絶妙なバランスで同居している。
(……え、待って。めちゃくちゃ可愛いんだけど……!!)
さっきまでの緊張が一瞬で吹き飛び、紬のテンションは一気に跳ね上がった。
さっそくブラウスに袖を通し、ベストのボタンをパチパチと留める。スカートを穿いて鏡の前に立つと、そこにはできる社会人っぽく見える自分が写っていた。
身長・体重・スリーサイズのすべてが平均値なはずの紬の体型を、適度に着圧のある紺色のベストがウエストのラインを綺麗に見せてくれて、膝丈スカートから伸びる脚も、なんだかいつもよりスラッとして見える。
くるりと一周まわって裾のなびき具合を確かめる。コンプレックスだったうねる癖毛も、縮毛矯正のおかげで栗色のゆるふわセミロングにみえる。
丸めの大きな茶色い瞳と相まって、鏡の中に映っているのは、どこからどう見てもちょっと可愛いデキる社会人だ。ポケットには、昨日買ったばかりの新しいノートを装備。ペンも、三色ボールペンと蛍光ペンを完備。
うん、悪くない。
(うわぁ……なんか一気にドラマのヒロインになった気分! 朝はバタバタと出社して、テキパキ仕事こなして、アフター5は同期とおしゃれな居酒屋行ったりして……)
不織布マスクの上から、思わずニヤニヤと口元が緩んでしまう。
(もしかして……イケメンの若手ドクターとかと運命的な出会いがあったりして!? いやいや、恋に仕事に大忙しになっちゃったらどうしよう〜〜!)
一人で頭の中で妄想のストーリーを繰り広げ、胸をときめかせる紬。
(落ち着け私! 恋愛しに来たんじゃない、仕事に来たんだから!)
自分で自分にツッコミを入れながら、鏡を三度、四度とチェックする。隣で看護服の女性がヘアピンを差す動作すらスマートに見えて、またどきどきしてしまう。
(やばい、初日から空回りしてるかも……)
深呼吸をひとつ。勇気を振り絞って、もう一度“社会人スマイル”を作ってみた。
(……よしっ。がんばれ私。見た目は…… 悪くないはず!)
最後に不織布マスクをつける。白衣の職員が颯爽とドアを出ていく横で、紬もそっと姿勢を正した。
鏡がなくてもわかる。顔全体が“新人の不安”から“働く人の表情”に切り替わった気がした。
(よし……行くしかないよね! とりあえず……笑顔! 元気だけはある!)
そう自分に言い聞かせて、紬は一歩、更衣室の外に踏み出した。
(それに、事務での採用だし、まあ、何とかなるでしょっ)
今日から始まる、知らない世界。
まだ何もわからないけど、それでもここで、一歩ずつ進んでいくしかない。




