#13 受付ではね、今みたいにいろいろ聞かれることも多いの
翌朝の医事課は、静かなざわめきに包まれていた。
コピー機の低い音、プリンターから紙が出るかすかな摩擦音、窓の外での擦れる音。その全部が、まだ少し眠たげな空気をゆっくり揺らしていた。
紬は、少し早めに出勤していた。パソコンを立ち上げる指先に、ほんの少し緊張が混じっている。
デスクに座ると、斜め向かいで沙耶が背筋を伸ばしたままノートを広げていた。彼女のページには、びっしりとメモが並んでいる。
そのとき、入口のドアが音を立てて開いた。
小柄な影が差し込む。愛美だった。その表情は、昨日の疲れを感じさせないくらい穏やかだった。
「おはよう。ふたりとも、早いね」
「おはようございます!」
「おはようございます、愛美さん」
愛美は笑顔で頷くと、受付カウンターの方に視線を向けた。そこでは、すでに朝の受付準備が始まっている。
外来開始の時刻が近づくにつれて、再来受付機の前には患者の列ができはじめていた。
予約のある患者は、再来受付機で淡々と手続きを済ませていく。
一方、初診の患者は、窓口のシャッターが開くのを、やや不安そうに待っていた。
その列の中で、ひとりの男性が受付機の前で首をかしげていた。
診察券を持たないまま画面を操作しようとして、エラー表示に戸惑っている。
愛美はすぐに気づき、やわらかい声で近づいた。
「すみません、初めてのご来院ですか?」
「あ、はい。ここで受付すればいいのかなと……」
「初診の方はこちらの窓口でお手続きになります。ご案内しますね」
男性はほっとしたように頷き、愛美のあとをついていった。
その姿勢には、“困っている人を見逃さない”という自然な気配りがあった。
今度は、機械の前で眉を寄せている女性がいた。
受付票が出てこず、何度もボタンを押しては不安そうに画面を見つめている。
愛美が確認すると、排出口に小さな赤いランプが点滅していた。
「すみません、紙が切れてますね。すぐ補充しますので、少しお待ちくださいね」
「あ、私が壊したのかと思って……」
「大丈夫ですよ。よくあることなんです」
愛美は手慣れた動作でロール紙を交換し、テスト印刷を終えると女性に受付票を渡した。
「これで大丈夫です。次は外来受付の番号順にお呼びしますね」
「ありがとうございます」
女性は深く頭を下げて、安心したように微笑んだ。
再来受付機の周りで患者に丁寧に対応する姿を、他の患者も温かい目で見守っているようだった。
愛美自身は、小柄で子どもっぽい見た目にコンプレックスを感じている。けれど、この場では、その柔らかい印象が“親しみやすさ”として受け取られている。
葉月が同じことをしても、こうはならないだろう。彼女がそう思うのは、羨望でも嫉妬でもなかった。
自分の声は低く、背は高く、立っているだけで“落ち着いた人”と見なされる。それが安心感につながることもあれば、距離を作ってしまうこともある。
同じように声をかけても、相手の反応が微妙に違う。それを、葉月はもう何度も経験してきた。
愛美の“柔らかさ”は、葉月にはないもの。だからこそ、こうして現場で輝く彼女を見ると、ほんの少しだけ、自分も“ああなれたら”と思う瞬間があった。
すぐそばでは、すでに受付を終えた年配の男性が立ち尽くしていた。
手に受付票を握りしめたまま、きょろきょろと辺りを見回している。
「すみません、次はどこへ行けば……?」
愛美はすぐに反応した。
「今日は内科のご予約ですね。こちらの廊下をまっすぐ進むと、右手に診察室が並んでいます。モニターでお名前が呼ばれますので、それまでそちらでお待ちください」
「おお、助かった……ありがとうね」
その笑顔を見て、紬と沙耶は思わず顔を見合わせた。
どの患者にも声のトーンを変えず、相手の不安を先に察して動く。
それはマニュアルには書かれていない、“空気を読む力”そのものだった。
「……さすが、愛美さんだね」
紬がつぶやくと、沙耶が小さく頷いた。
「はい。あんなふうに声をかけられたら、誰でも安心しますね」
愛美にその言葉が届いたかのように、次の患者へいつもの柔らかな声で「おはようございます」と声をかけた。
朝の光が、窓からゆっくり差し込んでくる。新しい一日が、静かに始まっていた。
そのとき、受付カウンターの端で、老夫婦がそっと声をかけてきた。
愛美は別の患者を案内中だったため、対応できない。
その様子を見ていた紬と沙耶が、ほぼ同時に立ち上がった。
「すみません、ちょっとお聞きしてもいいですか?」
最初に口を開いたのは、おばあさんだった。白髪をきれいにまとめ、手には以前に外来受診をした際の領収書を持っている。隣には、小柄なおじいさんが静かに立っていた。
「先週、ふたりで同じ日に受診したんですけどね、まったく同じ薬と検査なのに、支払う金額が違ってて……」
ふたりは領収書を差し出した。内容を見比べると、たしかに明細はほぼ同じ。
ただ、支払額だけが少し違っている。おじいさんのほうが、わずかに安い。
沙耶がカルテ番号を確認しながら、落ち着いた声で言った。
「えっと……ご主人さまは76歳、奥さまは74歳でいらっしゃいますね? 医療費の自己負担は、70歳から74歳までは原則2割なんです。でも、75歳以上になると“後期高齢者医療制度”に変わって、1割負担になるんですよ」
「まあ……そうなの? 同じ年寄りなのに、違うのねぇ」
「はい。制度の切り替わりで、負担割合も変わるんです」
紬が領収書を指しながら、やさしく補足した。
「こちらの領収書の右上に“負担割合1割”って書いてあるのが、ご主人さまのほうです。74歳までは国保や社保の保険証を使いますけど、75歳になると新しい保険証が届いたと思います。そのときに、負担割合が変わったので、こうして金額が違うんです」
「まあまあ……よく分かりましたよ。そんな仕組みになってるのねぇ」
おばあさんは感心したように目を丸くして、隣のおじいさんの肩を軽く叩いた。
「あなた、安くてよかったじゃない」
「いやいや、まだ元気なのに“後期”なんて言われるのは複雑だなあ」
ふたりのやり取りに、窓口の空気がふっと和んだ。
「丁寧に教えてくれてありがとうねぇ。わたしたち、こういうの苦手で……」
そう言って深く頭を下げる老夫婦に、紬は思わず頬を緩めた。
「いえ、こちらこそ。分かりにくいですよね。ありがとうございます」
隣を見ると、沙耶が顔を真っ赤にしていた。「な、なんか、褒められると逆に緊張しますね……!」
「でも、ちゃんと説明できてたと思うよ」紬が小声で笑うと、沙耶は両手で顔を覆った。
少し離れた場所で、葉月はそのやり取りを静かに見ていた。
一瞬、手を貸そうかと思ったけど、沙耶が落ち着いて制度を説明し、紬が相槌を打ちながら補足していくその姿を見て、大丈夫と判断し、そっと見守ることにした。
「いい説明だったね」葉月がぽつりと言う。
「昨日、愛美さんから教わったばかりの内容だったので……」紬と沙耶がほぼ同時に答えた。
葉月は小さく首を横に振る。「でも、ふたりとも、ちゃんと自分の言葉にして話せてたよ。それが一番大事なんだと思う。説明って、“覚えたことを言う”んじゃなくて、“伝える”ことだから」
いつの間にか患者対応を終えた愛美も頷いた。「そうそう。受付ではね、今みたいにいろいろ聞かれることも多いの。制度のこと、請求のこと、機械のこと……。でも、ちゃんと話せば、ちゃんと届く。それを今、ふたりとも体験できたのは大きいわ」
紬は静かにうなずいた。心の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。“説明した”というより、“理解してもらえた”という実感。それが、こんなに嬉しいなんて。
窓の外では、午前の光がもう少し強くなっていた。受付カウンターの上に、淡い影が揺れる。新しい朝の中で、紬は少しだけ胸を張って、深呼吸をした。
(よし、次も……ちゃんと伝えよう。そのためにも、しっかりと理解しないと!)




