#12 “なんで採用されたのかな”って、今でもたまに思うよ
午後5時過ぎ。医事課の先輩たちは、これから“レセプト点検”という業務を行うらしい。
愛美の説明の中でも、医事課の主要な業務だと言及されていた。
とはいえ、新人に残業させるわけにはいかず、定時に更衣室に入ったのは紬と沙耶のふたりだけだった。同じ時期に、同じ部署に採用された私たちは、ちょうどロッカーも隣り同士。その扉を同時に開けてしまって、ほんの少しだけぎこちない空気が流れる。
「……あ、ごめん、ロッカーかぶっちゃった?」
「いえ、大丈夫です」
職員用の更衣室は意外と静かで、誰かの私物から漂ってくる柔軟剤の香りと、カチャリというロッカーの鍵を回す音だけがやけに響く。
「ふう……疲れたぁ……」
ベストのボタンを外しながら、紬は小さく背伸びをした。初日だということもあって、緊張で背中にずっと力が入ってた気がする。その隣で、沙耶も静かに着替えを始めていた。
「……さっきの葉月さん、すごかったね」
紬の言葉に、沙耶は静かに頷いた。
「本当に。あんなふうに落ち着いて対応できたらいいですよね」
「うん。声も話し方も、全部“安心できる”感じだった」
「……あの人、きっといろんな経験してるんだろうなって思いました」
紬は小さく笑った。
「ね。なんか、頼もしかった」
「それにしても、研修だけでも意外と体力使いますね」
「沙耶ちゃんもそうだったんだ? かなり余裕に見えるよ」
「そんなことはないですよ、私もまだまだ勉強しないといけないことがたくさんあります」
「でも、私、今日すごく助けられたよ。沙耶ちゃんが説明してくれたおかげで、保険証のこと、ちゃんと理解できたもん」
「……本当ですか?」
「うん。完璧すぎてちょっと緊張するけど……でも頼れるなーって思った! お姉ちゃんみたい」
沙耶は目をぱちぱちと瞬かせて、それから小さく笑った。
「……紬さんのほうが年上じゃないですか」
「あ、そこツッコむ?」
「はい。どう考えても、私がお姉ちゃんポジションなのはおかしいです」
少しだけむくれたような口調。でも声は柔らかい。
紬はくすっと笑った。
「年齢っていうより、雰囲気かな。沙耶ちゃん、すごく“ちゃんとしてる”感じするんだよね」
「……それは、そう見えるようにしてるだけです。そういうのだけは、昔から気にしちゃうんです」
そう言いながら、沙耶は静かに制服のベストのボタンを外し、ハンガーへと掛けた。
カッチリとしたベストを脱ぎ捨て、薄手のブラウス一枚になると、胸元から腰にかけてのラインが一気に露わになる。ブラウスの生地を内側からぐっと押し上げるように、豊かな胸が存在感を増した。
紬は思わず目を見張り、沙耶の胸元と自分の平均的な胸元を交互に見比べた。
「……ちょっと待って、沙耶ちゃん」
「え? なんですか?」
「『お姉ちゃんポジションはおかしい』とか言ってたけどさ……ほらぁ、見てよ! 私より全然“成長”してるじゃない!」
「なっ……!?」
紬がニヤニヤしながら自分の胸の前で手を大きく広げて見せると、沙耶は一瞬で顔を真っ赤にした。あわてて脱いだベストを抱え直すようにして、胸元を隠そうとする。
「つ、紬さんっ! どこ見てるんですか! そういう成長の話じゃないでしょ!?」
「だって、仕事中でもなんとなく分かってたけど、ベスト脱ぐと迫力が凄すぎるんだもん! やっぱり沙耶ちゃんの方が包容力も含めてお姉ちゃんっぽいよ」
「もう……っ、からかわないでください!」
沙耶は真っ赤になって抗議しながら、ブラウスのボタンを上から外し、すっと肌から滑り落とした。
その身体には、しっかりとしたホールド感のあるブラジャーが身につけられていた。豊満なバストを支えるアンダーバストの帯は肉に食い込み、制服のスカートの上にはぽっこりとしたお腹の肉が乗っていた。
「私は、ただ太っているだけですよ」
沙耶は下腹の肉感を気にするように少し身体をすくめ、自嘲気味に呟いた。
マスクを外した横顔にはゆるい二重あごが覗き、さっきまでの“隙のない完璧な同期”という印象が、ふっと和らいでいく。
「……だから、せめて服装だけでもだらしなく見えないようにって思って」
沙耶は、自分の体型を“だらしない”と思っていて、それを引け目に感じているようだった。彼女の完璧主義って、それを隠すためでもあったんだと、初めて少しだけ分かった気がした。
「私、昔から太りやすくて、そんなに食べてるつもりじゃないんですけど、顔とかお腹にすぐ出ちゃうんです」
「うん」
「油断すると、いつの間にかウエストがきつくなってることが、よくありました」
「へえ……そうなんだ。見えないけどなあ」
「昔からずっとそうなんです、周りと比べてばっかりでした。体育の時間とか、着替えるのも、ジャージ姿になるのも本当に嫌で……。みんな細くてスタイル良く見えて、今でも、服を選ぶときとか、鏡の前で何度も確認しちゃいます」
「……」
「この制服も、大きめのサイズを申請するのが恥ずかしくて、パツパツになっちゃってますし……」
沙耶の声は淡々としていたけれど、その奥にある記憶の重みが、ふわりと空気に溶けていく。
そしてそのまま、沙耶はスカートのホックを外し、足元へと脱ぎ落とすために身体を少し深く屈めた。その動作に伴って、スカートの帯に乗っていたお腹の肉がぐにゅりと重なり、明確な段を作る。ウエストの締め付けから完全に解放された身体は、ぽっこりとした下腹の丸みや腰まわりの柔らかそうなふくらみが、包み隠さず露わになっていた。
屈んだ姿勢のまま丁寧にスカートを折りたたむ沙耶の背中に、どこか守ってあげたくなるような、人間らしい隙が生まれていた。
「でも、私、沙耶ちゃんの体型、すごく素敵だと思うよ。ふわっとしてて、柔らかくて、女の子っぽくて。憧れるかも」
「……からかってます?」
「ううん、本気。もし私が男の子だったら、きっと沙耶ちゃんのこと好きになってると思う」
そう言いながら、笑いを混ぜるように目を細めた。
「頼りになるだけじゃなくて、だって、眼鏡とかマスク外すと、すごく可愛いし」
沙耶ちゃんは一瞬きょとんとしてから、そっと目をそらした。
「……そうやって言われるの、慣れてないです」
「私も言い慣れてないよ」
「『男の子だったら』なんて仮定、要らないと思います」
「え?」
「同性にそうやってまっすぐ言われる方が、なんだか照れくさいです」
沙耶の声は少し低く、でもどこか耳に残る柔らかさを含んでいた。そっぽを向いた耳の先端が、ほんのりと赤くなっている。
「……それに、紬さんが男の子じゃなくてよかったです」
「えっ、なんで? 男の子だったらフラれてた?」
「違います。紬さんだから、こうやって普通に話せてるんです」
ぽつりと付け加えられた言葉に、紬は一瞬口を半開きのままフリーズし、それから胸の奥がくすぐったくなるような感覚を覚えた。照れ隠しに前髪をくるんと指で巻きながら、着替えを終えて私服のカットソーを整えている沙耶の胸元へ、そっと視線を巡らせた。
ゆったりとした私服に着替えたことで、彼女の豊満な凹凸が隠されている。
「……でもさ、沙耶ちゃん。その胸も、女の私ですら思わず目がいっちゃうくらいなんだから、もし男の人だったらもっと気になると思うよ?」
「……確かに、視線を感じることはありましたけど。そういう無遠慮な目で見られたり、体型を勝手に評価されたり、そんなことで異性に好意を寄せられても、嬉しくはないですよ」
沙耶の声には、どこか冷めた、小さな諦めのような響きが混ざっていた。
その“受け取る側の戸惑い”の奥にあるものが、なんとなくわかる気がした。
――それは、葉月さんと重なった。
あのとき葉月さんも言っていた。
それは私の努力でも能力でもない。ただ、たまたまそういう容姿に生まれたってだけ。
生まれ持った見た目や声、雰囲気。
それが誰かの好意を引き寄せることもあれば、誤解や距離を生むこともある。
沙耶ちゃんも、葉月さんも、その両方を知っている人なのかもしれない。
私は、そんなふたりを思い浮かべながら、自分のロッカーの中をそっと閉めた。
金属の音が、夕方の静かな更衣室に小さく響いた。
「でも……紬さんに見てもらうのは、なぜか悪い気はしません」
ふふ、と沙耶ちゃんが小さく笑う。その笑い方が、いつもよりちょっとだけ素直な感じがして、私もつられて微笑んでしまった。
「紬さんって、コンプレックスとかなさそうですよね?」
「それ、褒めてる?」
「もちろん、褒めてるつもりです。なんというか……自信ありそうに見えるというか弱点が
ないというか」
「いやいや、自信なんて全然ないし」
紬は苦笑しながら、ハンガーにかけた制服をロッカーに押し込んだ。
金属の扉が小さく鳴る。
「改めて考えると、癖毛はコンプレックスだったかもね」
私は自分の前髪をくるんと指で巻いて、軽く引っ張ってみせる。
「朝はちゃんとブローしてるのに、湿気があると一瞬でアウト。中学生のころとか、“前髪バネみたい”って言われたことあるし」
「……あ、さっきのマイナンバーカードの」
「ひどーい。笑ったでしょ今」
「笑ってないです、ちょっとだけ……口角が上がっただけです」
ふたりでふふっと笑い合ってから、私は少しだけ言葉を選ぶようにして口を開いた。
「でもね……どちらかというと、“魅力とか長所がない”ってことがコンプレックスかもしれない」
「……え?」
「就活のときに、めちゃくちゃ実感した。面接で“自分の強みは?”って聞かれるじゃん? で、“体力はあります!”しか言えなくて……」
「え、でも、それって立派な長所じゃないですか?」
「うーん、でも他の子はもっとこう、いろんなエピソードとか資格とか出してくるんだよ? リーダー経験とか、ボランティアとか。私、特に頑張ったこともなくて、話せるものが何もなかったの」
「……」
「私、全部すごく普通でしょ? 良くも悪くも特徴がなくて。褒められるとしたら、“健康そう”とか、“親しみやすそう”とか、それくらい」
自分で言っていて、少し可笑しくなったのか、紬は肩をすくめた。
「“なんで採用されたのかな”って、今でもたまに思うよ」
沙耶ちゃんは一瞬だけ黙っていたけれど、すぐに優しい声で言ってくれた。
「……なんとなく、理由わかる気がします」
「え?」
「今日一日、一緒にいて思ったんですけど……紬さんって、人をよく見ていると思います」
不意にそう言われて、紬はきょとんとした。
「え、そうかな?」
「はい。ちゃんと見てる、って感じです」
沙耶はロッカーの前に立ったまま、指先を軽く組んだ。
「相手が何を言いたいのかとか、どこで困ってるのかとか。踏み込みすぎないけど、放っておかない。その距離の取り方が、すごく自然で……」
「そんな、意識したことないよ」
「たぶん、意識してないからだと思います」
沙耶は少し照れたように笑った。
「葉月さんのときも、愛美さんのときも……何も言わなかったけど、ちゃんと気づいてましたよね」
「……」
「そういうのって、“強みがない”人にはできないと思います」
その言葉に、紬は一瞬だけ言葉を失った。
「医事課って、知識も大事ですけど……相手を見る仕事でもあるじゃないですか。患者さんも、先輩も」
沙耶はそう言って、ゆっくりと息を吐いた。
「だから……私は、紬さんがここに採用された理由、なんとなくわかる気がします」
紬は前髪を指でくるりと巻きながら、少し困ったように笑った。
「……そんなふうに言われると、ちょっとだけ自信持っちゃいそう」
「持っていいと思います」
更衣室の静けさの中で、その一言は不思議と軽くなくて、紬の胸の奥に、静かに残った。
「……うわ、なんか今、すごく救われた」
「ふふ、口角上がってますよ」
「これは素直に笑ったんだってば」
夕方の更衣室に、ふたりのくすくす笑いが静かに響いた。
ふと、ロッカーの扉を閉めながら沙耶ちゃんがぽつりとつぶやいた。
「……でも、こうやって誰かと話せてよかったです。研修も、着替えも、ひとりだったら、きっともっと緊張してました」
「私もだよ。沙耶ちゃんがいてくれてよかった。こうやって一緒に頑張れる人がいるだけで、心強いなって思う」
「……じゃあ、明日もよろしくお願いしますね、“同期”さん」
「もちろん。同期って響き、なんかいいね。これから、いっぱい頼らせてもらうから」
言葉に出してみると、少し照れくさかった。でも、それが素直な気持ちだった。
沙耶がゆったりとしたカットソーを整えながら、ちょっとだけ微笑む。
(人をよく見ている)
それは今まで、誰にも言われたことのない言葉だった。
「……もしかして、沙耶ちゃんの胸チラチラ見てるのバレた?」
「もうっ! そういう話じゃないですよ」




