#10 ……同じ説明でも、届いたり、届かなかったりするんですね
夕方が近づき、外来の波がひと段落したころ。
医事課の空気は、忙しさの余韻を残しながらも、ほんの少しだけ柔らいでいた。
新人の紬と沙耶は、保険証に慣れるために、登録と確認作業を繰り返していた。
コピー用紙と画面を見比べる単調な作業。けれど、気を抜くと簡単にミスが起きる
「あれ?」
沙耶が小さく声を上げた。
「この患者さん、カルテでは負担割合が“1割”になってますけど……保険証には“2割”って書いてあります」
「ほんとだ……」
紬も画面を覗き込む。明らかな不一致。登録ミスだ。
「危なかったね」
「これ、気づかずに会計出してたら大変でしたよね……」
そう話していた、そのときだった。
「なんでこんなに高いんだよ!」
突然、会計窓口の方から怒鳴り声が響いた。
年配の男性が、領収書を握りしめたまま、窓口の職員に詰め寄っている。
一瞬で、医事課の空気が張りつめる。
紬も沙耶も手を止めて、思わずそちらに目をやった。
「……ちょっと待っててね」
小さくそう言って、愛美は声を荒げている患者さんのところに向かった。
背は低く、声も高め。でも、足取りは迷いがない。
「失礼いたします。確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「あ? いつもと同じ検査やってんのに、なんでこんな金額になるんだって聞いてんだよ!」
「明細を一度拝見できますか?」
丁寧な言葉遣い。
けれど、男性の苛立ちは収まらない。
「お前じゃ話にならん! もっと上の人間を呼べ!」
その瞬間、愛美の動きが一瞬だけ止まった。
それは驚きでも、怒りでもなく、慣れてしまった人の反応だった。
愛美は一度だけ小さく息を吸い、言葉を選ぶように唇を結ぶ。
次の瞬間、すっと横から別の職員が現れた。
「失礼します。私が対応いたしますね」
背の高い女性だった。名前はまだわからないけど、制服を着ていて医事課の職員だということだけはわかる。
175センチほどはあるだろうか。健康的というより、どこか儚さを感じさせるほどの細さに、中性的な俳優のような立ち姿。
黒髪のショートヘアが、耳元で静かに揺れる。
中性的で、涼しげな顔立ち。切れ長の目は感情を抑え、相手を冷静に見据えている。
胸ポケットからチラリとのぞくボールペンには、紫色のうさぎのチャームがアクセントにもなっている。
その女性と入れ替わるようにして、愛美が紬たちの近くに戻ってきた。
その表情は暗く、申し訳なさそう。
「愛美さん、お疲れさまです。あの人は?」
「桐原葉月さん。医事課2年目で、事実上のクレーム担当……になってるの」
「えっ、クレーム担当って……そんなの、あるんですが?」
「いや、正式な役職じゃないんだけど……。トラブルが起きたら、だいたい葉月ちゃんが解決してくれるんだよね」
穏やかで説明も的確だから、患者さんが納得して帰る率がすごく高いらしい。
確かに、葉月が説明を始めると、男性の声はみるみる落ち着いていった。
さっきまでの緊張が嘘のように、彼女の落ち着いた声だけが聞こえる。
手元の端末を確認し、保険証のコピーを取り出し、丁寧に説明を重ねる。
「たしかに今回は、保険証の情報が誤って登録されていたようです。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。こちらが本来のご負担額となりますので、差額をご返金いたしますね」
落ち着いた声。押しつけがましくない言い方。でも、要点はちゃんと伝わっている。
たったそれだけのやり取りで、患者さんの肩の力がスッと抜けていくのが見えた。
数分後、患者さんは無言で頭を下げて、会計フロアを去っていった。
「……えっ、すご」
紬は思わず声が出てしまった。
沙耶も同じタイミングで「……かっこいい……」とつぶやいていた。
チラッと見ると、目がハート型になっているようだった。
戻ってきた葉月に対して、愛美は感謝を伝えた。
「ありがとう、助かった……。本当に、すぐ空気が変わったね」
そう言いながら笑った愛美の表情は、どこかぎこちなかったように見える。
口元は笑っていても、目の奥にほんの少しだけ、翳りが見えるような気がした。
沙耶も、そんな愛美の横顔をじっと見ていた。いつもの尊敬の眼差しとは少し違う。
どこか心配そうで、でも踏み込めない。そんな迷いを宿した目だった。
(……愛美さん、やっぱり、悔しかったのかな)
説明は間違っていなかった。対応も丁寧だった。
それでも、相手の態度が変わったのは、“誰が話したか”だった。
愛美は、知識も経験もある。でも、背が低くて、声が高くて、幼く見える。
だから、最初から患者さんは愛美に対して強く出ていた。
葉月は、立っているだけで“話が通じそうだ”と思わせる。
その差が、きっと、愛美には刺さった。
ふと、沙耶がぽつりとつぶやいた。
「……同じ説明でも、届いたり、届かなかったりするんですね」
紬は黙って頷いた。
愛美は、すぐにいつもの笑顔に戻っていた。
葉月に礼を言い、私たちのところへ戻ってくる。
その背中を見ながら、紬は思った。
(……ちゃんと届いてますよ、愛美さん)
でも、それを言葉にするのは違う気がした。今の自分が言えば、慰めになってしまう。
だから紬は、手元の保険証に視線を戻した。
言葉が届かない瞬間もある。でも、積み重ねてきた時間まで、消えるわけじゃない。
(私たちも、いつか)
誰かの怒りの前に立ったとき。
誰かの不安に向き合ったとき。
(言葉が届く人になりたいな)




