香煙に揺らぐ影
「麝香に、敗鼓皮、蓮の葉。菖蒲に大蒜もあるぞ」
楊胤は大蒜を持ち上げ、笑みを漏らした。
気持ちはすっかり切り替わったようで、どこか心を躍らせているように見える。学んだことを試してみたくてたまらないのだろう。
「麝香は媚薬の効果があるといわれていますが……大丈夫ですか?」
楊胤は「え?」と素っ頓狂な顔をし、たちまち赤面して大きく手を振った。
「ち、違う! そういう目的で持ってきたわけではない! 呪い返しに有効だと古文書に記されていたのだ!」
「わかっております。ただ……私は耐性がありますが、楊胤様は大丈夫かと心配で」
「……どうだろうな。やってみないことにはわからん」
「ではもしもの時は、頬をひっぱたくか、股間に蹴りを入れても怒らないでくださいね」
仙霞は念のため釘を刺した。
麝香は確かに催情作用があるが、理性を完全に奪うほど強烈ではない。頬を叩けばすぐに正気に戻るだろう。
「……まあ、その時は仕方あるまい」
楊胤はとても複雑な顔をしながら、渋々と承諾した。
「それよりも、なぜ媚薬に耐性がある?」
「それは……色々と。漢方に使われるものは大方、練習の一環で試していますからね」
「なるほど」
うまくはぐらかせたようで仙霞は内心安堵する。
蠱師見習いである以上、蠱毒に関わるあれこれは、一度は試しておかねばならないのも事実だった。
「これらを使ってどうすればいいのだ? 薬にして服用するのか?」
「気休め程度にしかなりません」
「それでも、やらないよりはましだろう」
楊胤は眉をひそませて言った。
仙霞を実験台にしたいのか、純粋に心配しているのか判別がつかない。
(まあ、どちらでもいいことだ)
仙霞は麝香を手に取り、鼻先へ近づけた。
強壮剤にも媚薬にも使われるその香りは、鼻を突くほどの強烈な刺激臭を放つ。薄めれば魅惑的な香りになるが、それでは効力が発揮されない。
「大事なのは、ものをどう使うかではなく──そこにどう呪力を込めるかです」
仙霞は皿に少量の麝香を置き、火を灯した。たちまち香りが室内へ広がる。
楊胤は思わず眉を寄せて鼻をつまむ。
「頭を殴られたような強い刺激臭だな」
強烈な匂いに面食らっているようだが、媚薬の効能に呑まれてはいないようだ。
一方で仙霞は、その煙を直接吸い込みながらも微動だにしない。気を研ぎ澄ませ、意識を香りに同調させているのだ。
こんなことを誰もができるわけではない。高い呪力を持つためには、長年の修行が不可欠である。しかし仙霞は、生まれながらにして強い霊力を宿していた。そのため、わずか数年の修行で頭角を現し、類まれな才を示していた。
香りに感情を重ねるように静かに目を閉じる。
悪意を乗せれば呪いとなり、善意を込めれば護りとなる。
やがて麝香の香りに色が宿り、白い靄となって漂い出す。室内はたちまち神秘的な空間に変わり、まるで雲海の上に迷い込んだかのようだった。
「これは……」
楊胤は信じがたいものを目にしたかのように、部屋を見回した。
仙霞自身も、これほど鮮明に術が現れたのは初めてで驚いた。だが心を乱せば術が解けてしまう。平静を装い、息を整える。
やがて麝香の香りに光の粒が混じり、淡い光が辺りを照らした。暗がりに隠れていた床の一角で、なにかがうごめいているのが浮かび上がる。
「虫……? いつの間に」
手のひらに収まるほどの大きさの黒い影が、数体もぞもぞと蠢いていた。
この棟は虫が湧くような古さも汚れもない。仙霞が住むにあたり女官たちが徹底的に磨き上げ、日々の掃除も怠っていなかった。これまで一度も虫など入り込んだことはない。
楊胤はそれを掴んで外へ放り出そうとしたが──
「直接触ってはいけません! それは蠱毒です!」
仙霞の声に、楊胤の手が止まった。
得体の知れぬ虫から静かに距離をとり、仙霞の前へ立つように身を盾にする。
「いつから蠱毒が……?」
「わかりません。前から存在していたものが、術によって見えるようになったのかもしれません」
「つまり……ずっと狙われていたということか」
蠱毒の実体を目にするのは仙霞にとっても初めてだった。
もしも仙霞が蠱毒に気がつかず眠ってしまっていたら、体の中に入り込んでいたかもしれない。
本当なら近寄って観察したいところだ。だが、今はそれどころではない。
「私は、動けません。集中を切らし、動いてしまえば術が解けるからです。そうすると、蠱毒も消えてしまいますが、目に見えなくなるだけで存在していることに変わりはありません」
「つまり、今が蠱毒を倒せる絶好の機会ということだな」




