憂いの瞳
猫鬼は、どこか座りの悪い目つきで楊胤をじっと見ていた。
その表情は決して怖いものではなく、むしろ『よぉ』と気安く声をかけてきたように思える。
「猫鬼がいたのか。黒いせいで見えなかった」
仙霞も猫鬼の存在に気づいていなかった。いつからいたのかわからない。
乱れた襟を直しながら、楊胤は仙霞の顔を見ずに口早に言った。
「さきほどの続きだが──墓荒らしはせぬ。それより罪人に心当たりはないか? たとえば身内など」
「ああ、それなら罪人は絞れています」
「なに?」
訝しげなまなざしで仙霞をとらえる楊胤に、仙霞はさらりと言い放つ。
「罪人は──おそらく四夫人の中にいるでしょう」
仙霞の口から告げられたのは、後宮妃の中でも最上位にある名だった。
趙羅国にはいま皇妃はおらず、実質的に後宮を支配するのは、正一品の四夫人──貴妃・淑妃・徳妃・賢妃である。
楊胤の表情が引き締まり、声を落として問う。
「……なぜ、四夫人だと思う?」
仙霞は指先で顎を支え、淡々と答えた。
「仮に蠱毒を用いたのだとすれば、上級妃でなければ実行は不可能です。造蠱には必ず条件があり、隠し部屋や庭が必要になります。個人の庭を持てるのは宮を与えられた上級妃だけ。つまり、宮殿を構える四夫人こそもっとも怪しい」
「……しかし、それだけでは断じきれまい。正二品の九嬪であっても、工夫しだいでは可能ではないか」
楊胤の反論に、仙霞は静かに二本の指を立てる。
「理由はもうひとつあります」
張りつめた間を置き、続けた。
「蠱毒の性質上、呪術の矛先は必ず自分より身分の低い相手でなければなりません。己より強い相手を呪えば、たとえ熟練者でも自らが命を落とす危険がある。梅昭媛は九嬪──もし九嬪以下の者が呪殺したとすれば、その時点でもう人間ではいられない」
楊胤は息を呑む。
信じがたいという色をその瞳に宿しながら、仙霞を凝視していた。
「……人間ではなくなるとは、どういう意味だ。そもそも蠱毒とはなんなのだ」
楊胤の問いに、仙霞はわずかも感情を交えず答えた。
「蠱毒とは、呪いそのものです。怪異であり、怨霊と同じ存在でもある。虫や爬虫類、小動物をおびただしい数でひとつの器に閉じ込め、互いに喰い合わせる。そして最後にただ一匹だけ生き残ったもの──それが蠱です」
蝋燭の炎がわずかに揺れた。仙霞は淡々と続ける。
「蠱は呪殺の媒介となります。毒のように飲ませることもあれば、眠る人の体内へと忍び込むこともある。方法は様々ですが、いずれも禍々しい呪術に変わりはありません」
楊胤の眉が寄る。仙霞の声は静かに、なおも続く。
「そして──この術は一歩誤れば術者自身をも滅ぼします。己の身の丈に合わぬ術を施せば、蠱はその報いを術者に払わせるでしょう。呪いは術者自身に宿り、鬼と化すのです」
部屋の空気が凍りつく。
仙霞の声音は最後まで平板だったが、真剣に耳を傾けていた楊胤の顔は、次第に血の気を失っているように見える。
「……では、この猫鬼も怨霊なのか?」
楊胤が視線を落とすと、猫鬼は文机の下で小さく体を丸め、眠っていた。
「この子は呪いを宿していない、ただの死霊です。けれど──誰かを害せと命じれば、怨霊に変わるでしょう。今のところは、ただのかわいい猫です」
仙霞があっさりと言い切る一方で、楊胤はあからさまに身を引いた。
どう見てもかわいらしい猫なのに、なぜそこまで怯えるのか。仙霞には理解できなかった。
「……四夫人が怪しいという理由はわかった。正直、俺も同じ考えだ」
「どうしてですか?」
楊胤は声を落とし、険しい表情で答えた。
「動機を考えれば、他にない。梅昭媛は子を身籠っていた。女官や他の妃嬪から恨まれるような人物ではなかったと聞いている。ならば──梅昭媛を消して得をするのは、四夫人くらいだろう」
蝋燭の火が小さく揺れる。楊胤は視線を沈めたまま、続ける。
「もちろん、実際に調べてみなければわからんがな」
「では会いに行きましょう」
仙霞は即答した。
「人となりを知るには、直接会うのが一番です」
楊胤は一瞬だけ面倒そうな顔を浮かべたが、結局は諦めたように嘆息した。
「……そうだな。四夫人に拝謁する許可を取ろう。ところで──会えば、お前の予知とやらは使えるのか?」
「予知は私の意思に関係なく発動します。視たいと思って視られるものではありません」
「なんだ。思っていたほど大したものではないな」
たしかに事実だが、正面から言われると妙に癪に障る。
「予知の力に頼るより、楊胤様は皇子なのですから、神のお力を使って事件を解決なさればよろしいのではありませんか?」
「神の力? なんだ、それは」
楊胤は眉を寄せ、訝しげに問い返した。
「皇帝の祖先は神。ゆえに、皇族には不思議なお力が宿ると聞いております」
「そんなもの、民が皇帝を敬うように作られた嘘に決まっているだろう」
「嘘なのですか?」
仙霞は驚きに目を丸めた。
「当たり前だ。本気で信じていたのか?」
楊胤は呆れたように笑う。
霊的な力は血筋によって受け継がれる。ならば、神の血を引く皇族にも特別な力が宿るのだと、仙霞は疑いもなく信じていた。それだけに、楊胤の小馬鹿にしたような態度に腹が立った。
仙霞はむっとして唇を尖らせる。
「ははは、怒るな、怒るな」
楊胤は快活に笑い、幼子をあやすように仙霞の頭をなでた。次の瞬間──
脳裏に、衝撃の映像が流れ込む。
鮮烈で、現実感を伴った未来の断片。
仙霞は息を呑み、思わず身を強張らせた。
――金糸で龍の刺繍が施された龍袍を纏い、前後二十四旒の冕冠を被っているのは、睫毛を伏せ憂いの表情を浮かべる楊胤の姿であった。
(そんな……まさか)
その装束が意味するものを、仙霞は知っている。
それは、『皇帝』だけに着用を許されたものだった。
あまりにも重大すぎる未来の断片に、目を見開いたまま硬直した。
「どうした?」
すぐ傍らから声が降る。
のぞき込む楊胤の顔に我に返った時には、映像はもう消えていた。
けれど──脳裏には焼きついて離れない。
特にあの、憂いを帯びた瞳だけは。
「あ、いえ……なんでもありません」
仙霞は楊胤の顔がまともに見られず、顔を伏せた。
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
それは、予知で視た未来の楊胤が、あまりにも悲しげに見えたからだろうか。




