夜の密談
二、三着しかなかった衣装も一気に増え、鏡台の棚にはかんざしや化粧道具まで種類豊富に並べられていく。
「……使うことはないと思うのですが」
「皇子の女官なのだから、化粧くらいしておかねば怪しまれるだろう」
楊胤は、せっせと働く女官や宦官たちに聞こえないよう、仙霞の耳元で囁いた。
──なるほど、そういうものか。
華蠱宮では、下級妃なのに化粧もせず身なりに気を遣う必要もなかった。
あの気楽な生活は、案外恵まれていたのだなと仙霞はしみじみ思った。
「ああ、それと──好きかもしれないと思って持ってきたのだが……」
楊胤がおもむろに布包みを開くと、中から分厚い冊子が現れた。
科挙の試験に出題される『論語』や『孟子』といった儒教経典である。
「もう中身は暗唱できるほど覚えている。だから、お前にやろう」
「いいのですか!?」
叫ぶような声を上げ、本に飛びついた仙霞。
その勢いに、楊胤だけでなく女官や宦官たちまでぎょっと振り返る。
「おい……皆が見ている前だ。せめて表面上だけでも取り繕え」
楊胤が慌てて耳打ちするが、興奮した仙霞の耳には右から左へと抜けていく。
巻物が主流で、製紙本は貴重だというのに──その高価な冊子が目の前にある。思わず涎が出そうになるのを必死で堪える。
「荷物の中に衣より巻物の方が多かったから、本好きかと思ったが……予想以上の食いつきだな。もはや異常だ」
「楊胤様、感謝いたします!」
仙霞は思わず楊胤の手を取り、深々と感謝を述べた。
「お、おう……」
楊胤は引き気味の苦笑を隠そうともせず、困惑した顔を見せるのだった。
仙霞は、腐敗した虫や、共食いといった気味の悪いものに心惹かれるが、純粋に知的好奇心も強かった。
本は裏切らないし、静かに知識だけを差し出してくれる。人間よりも、よほど親切だ。
「まだまだ本を持ってきていただいてもいいですからね! 部屋はこんなに広いのですから」
「……なかなか遠慮のない女だな」
そうして楊胤や女官たちが去った後の棟で、仙霞は心置きなく本に耽ることができた。
夜は蝋燭も使ってよいらしく、贅沢ではあるが読書のために惜しみなく灯す。
食事は女官が運び、食べ終わった膳は片づけてくれる。別棟にある湯殿まで使わせてもらえ、なにげに至れり尽くせりだ。
夜もすっかり更け、そろそろ寝ようかと思ったその時──玄関扉が叩かれた。
こんな時間に誰だろうと首をかしげながら開けると、そこに立っていたのは楊胤だった。
「こんな時間に……なんの用ですか?」
「とりあえず中に入れてくれ。話は後だ」
入れてくれと言われて、入れないわけにもいかない。仙霞は仕方なく彼を中へ通した。
楊胤は絹の長袍を帯で締め、その上に薄手の衫を羽織っていた。
仙霞も中衣に長裳の裙を合わせた寝衣姿だ。年頃の娘であれば気恥ずかしさに頬を染めるだろうが、あいにく仙霞はなにも気にしない。
部屋には文机と箪笥、そして布団が敷かれているだけ。
客を通すような別室はなく、この部屋に迎えるしかなかった。
文机の上に立てた蝋燭の明かりのそばで、楊胤は胡坐をかく。
仕方なく仙霞も、その灯りに入るよう隣に座った。
「こんな時間に来たら、女官たちに余計な勘違いをされますよ」
「むしろ都合がいいのだ。出自も不明の女官を自分の宮殿に住まわせるなど、普通では考えられぬ待遇だからな。それに、会話を聞かれては困る。夜に逢瀬を重ねていると思われれば、女官たちも納得するだろう。……まあ、勘違いされるのは不本意だが」
「私も大変不本意です」
ただありのままに思ったことを口にしただけなのに、楊胤に睨まれた。同意しただけなのに、なぜだろう。
「さっさと片をつけよう。こんな面倒なことは早く終わらせるに限る」
「ええ、もちろんです。私も早く華蠱宮に戻りたいです」
「では──知っていることを話せ」
「は?」
仙霞は間抜けな顔で聞き返した。
知っているもなにも、仙霞はなにも知らない。
昨晩の楊胤と蠱婆の会話だって、途中から飽きて聞き流していたくらいだ。
「なにか知っていることはないのか」
「むしろ私が聞きたいくらいです。私はなにを探ればいいのでしょう」
楊胤は眉間に皺を寄せ、説明が面倒で仕方ないといった顔をする。
──いや、そんな顔をされても、知らないものはどうしようもない。
ごほん、と咳払いをひとつ。ようやく楊胤は事案の概要を語り始めた。
これを解決しなければ華蠱宮には戻れない。仙霞もさすがに真剣に耳を傾けることにした。
「……というわけだ。梅昭媛は本当に呪殺されたのだろうか」
仙霞は顎に手を当て、一拍考えてから口を開いた。
「遺体は焼かれたのですよね? けれど無数の穴の空いた臓器は残ったと。その焼け残った臓器、拝見することはできますか?」
「おそらく土葬されたはずだ。無理だな」
「無理? なぜですか?」
楊胤は呆れたように答える。
「俺に墓を暴けと言うのか? 重罪だぞ」
「皇子のご身分なら可能かと」
「俺は皇子だが、母はただの女官で、すでに亡くなっている。後ろ盾もない。こんな事案を押しつけられている時点で、俺がどれほど侮られているかわかるだろう。皇帝に直訴できる立場ではない」
気づけば楊胤の一人称は『私』から『俺』へと変わっていた。
言いたくもない出自を語ったのも、仙霞の前では偽りの仮面をつけていても仕方がないと思ったのかもしれない。
昼間「皆がいる前では表面上だけでも取り繕え」と言っていたのだから──二人きりのときは本音を出してもいい、ということなのかもしれない。
仙霞はそう解釈し、「口にしてはいけないこと」を言ってみることにした。
「でしたら、内々に処理すればよいのです。発覚しなければ処罰されることもありません」
仙霞は妖艶な笑みを浮かべ、悪魔の囁きのような声を紡ぐ。
楊胤は驚いたように目を見開き、その場に惹き込まれたように固まった。
──あと一押しで折れる。
仙霞はそう確信し、不敵な笑みを浮かべて顔を近づける。
「そ、そのようなこと……!」
動揺した楊胤は顔を真っ赤に染め、思わず仰け反った。
ところが次の瞬間、楊胤の顔から血の気が引いたかと思うと、なぜかこちらへと倒れ込んできて、仙霞は仰向けに押し倒される形になった。
とっさのことでなにが起きたのかわからない。
気がつけば仙霞は仰向けに倒れ、楊胤が跨るようにして覆いかぶさっているのである。
(この状況はいったい……)
視線が絡み合ったまま、互いに事態を把握するまで──ほんのまばたきほどの沈黙が流れた。
「す、すまぬ!」
楊胤は慌てて仙霞から身を離した。
解放された仙霞は、何度もぱちぱちとまばたきをする。
「なにか……柔らかい毛のようなものが手に当たったのだ」
なんだ、そういうことか。
仙霞は起き上がって周囲を見渡し、文机の下で毛繕いをしている猫鬼の姿を見つけた。
「楊胤様の手に当たったのは、猫鬼かと」
仙霞の指さす方を見て、ようやく楊胤も猫鬼を確認する。




