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アイリスの瞳  作者: たけひろ
第七章:そのAIは嘘を吐いている
66/68

65.起きる時間よ

User: TANAKA TORU [ID: JP-58D2Q7VA-E]

Date: 2031-05-14 (JST)


[LOG ENTRY]

・・・

06:29:59 — User wake-up protocol initiated.

06:29:59 — Cohabitant proximity detected.

06:29:59 — User wake-up protocol canceled.

・・・

________________________________________


「徹さん、そろそろ起きる時間よ。今日もランニングに行くんでしょ?」


もうすっかり聞き馴染んだ優しい声と身体を柔らかく揺すられる感触に、意識がぼんやりと浮上していく。

瞼を開けると、相変わらず穏やかに微笑んでいる愛しい顔が映った。


「……おはよう、結さん」

「おはよう。今日はいい天気だから、ランニングはきっと気持ちいいわよ。私は朝ご飯の準備しているから、目が覚めたら行ってらっしゃい」

「ふわぁ……、ありがとう。ちょっと行ってくる」

「うん、気を付けてね」


身支度を整えて外に出ると、雲一つ無い晴天だった。

さすがにこの時間はまだ半袖では肌寒いものの、そろそろ春が終わり夏の気配を感じ始めてきた。


[田中様、現在の気温は16℃。温かくなってきましたが、風邪にはお気をつけて]

「ああ、分かっている。今日は少し速めのペースを意識するから、速度の表示と、ペースダウンしたら注意してくれ」

[承知しました]


眼鏡のレンズに表示されたルートを見つつ、走り始めた。

結さんとの新居は、前の家からほど近い、新しいマンションだ。

家賃は少々痛いが、それでも東京のような大都会でも無いし、給料で十分賄える。

そしてその分広く、おかげでダブルサイズのベッドも導入できて、一安心だ。


「ふう、ただいま、結さん」

「おかえりなさい、徹さん。後は筋トレでしょ?それが終わってシャワー浴び終わる頃には、ご飯出来上がるようにしておくから」

「わかった、ありがとう」


結さんの宣言通り、筋トレとシャワーを終える頃には、テーブルにシンプルながら美味しそうな朝食が並んでいる。

半年前、一人で生活していた頃には考えられなかった、誰かが食事を用意してくれるという事。

別に当時は何とも思っていなかったが、それがこれほどに有難い事だとは思わなかった。


「じゃあ、一緒に食べましょ、徹さん」

「ああ。結さんはまだ時間大丈夫か?」

「私は余裕。徹さんは今日は残業になりそう?」

「いや、面倒な事件は昨日片付いたから、何もなければそんなに遅くならないと思う」

「良かった、じゃあ夕飯も一緒に食べましょうね」


そんな会話を交わしながら、納豆ご飯を口に運ぶ。

なんだか昔からの好物なのだが、結さんにはしっかり好みを把握されているので、当然のように出て来るのだ。

ゆっくりと噛みしめていると、SOPHIAから声が聞こえてきた。


[今日もバランスが良く素晴らしい朝食です。しかしやや炭水化物が少ないので、田中様のような肉体を使うお仕事ですと――]


以前は鬱陶しいだけだった栄養アドバイスも、食生活が整った今となっては面白く感じるようになってきた。

というか、結さんの用意してくれた朝食は完璧だと思ったのに、これでもまだ指摘が入るのか。難しいもんだな。


「あ、これお弁当ね。そろそろ出発でしょ?皿は私が洗っておくから」

「ああ、ありがとう。お弁当も嬉しいよ」

「ふふ、ちゃんとお礼が言えるのはとてもよろしい」

「子供じゃないんだから」


そして軽くハグをして、家を出た。

俺は相変わらず、歩いて出勤している。


________________________________________


「おはようございます、テツ先輩。今日も冴えない顔していますね!」

「やかましい。おはよう、中原」


葵原中央署は、当然ながらあれから何も変わっていない。自分のデスクに到着すると、すぐに中原が声をかけてきた。

こいつは相変わらずフランクな口調のままだ。まぁ急に変わる方がおかしいのだけど。


「昨日の事件の報告書は書き終えたか?」

「はい、この通りすでに終わっています。チェックお願いします」

「分かった。…SOPHIA、一応誤脱字のチェック」

[…検証完了、誤字脱字はありません]


まあ、そりゃそうだろう。コイツが作ったならきっと完璧だ。俺よりよほど書類仕事は得意なのだから。

形式的にSOPHIAに一度チェックをしてもらっているが、引っ掛かった事なんて無い。

そして自分で読んでみても、案の定何も引っ掛かる所は無かった。さっさと了承だけ返す。


「おう田中、すまんがこの案件も請け負えるか?今年から来たアイツがまだウチの手順に慣れてなくて手一杯みたいでな」

「ああ、課長。了解しました、大丈夫です。…中原、大丈夫だよな?」

「はい、今はそんなに大変なタスクも無いですし、私も問題無いですよ!」

「さすがに丸2年もバディ組んでいると阿吽の呼吸だな。最近仕事バリバリこなしてくれて助かっているよ。こないだの資料も評判良いし」

「じゃあその分ボーナスください。家賃が上がったので」

「それは却下だ」


最初はどうなる事か、と思ったが、慣れてしまえば何て事も無い。

中原は元々優秀な奴だった。今はその優秀さの方向性がはっきりしただけだ。

SOPHIAの情報や能力を全て引き出せる奴、と考えれば良いだけなのだ。


何せ今ここで雑談をしながら、並行して殺人犯の行動解析だってできる。

それさえ理解してしまえば、俺はむしろ中原の発言や行動を適切に通せるように折衝役になれば良いだけだ。

…これでは、どちらが先輩なのか分かったもんじゃない。


「今年はお前らバディの検挙率も解決スピードも上がっているし、ボーナスは無くても昇給昇格はあるかもな」

「やっぱり中原が頼りになるようになった、というのが大きいですね」

「テツ先輩のご指導ご鞭撻のおかげです。頼りになる先輩で助かっていますよ」


中原の能力を活かせるように立ち回った結果として、事件解決速度は劇的に上がった。

今なら、高橋さんが殺人事件を一つ残らず24時間以内に解決できるのも納得、という物だ。

社会の全てに目と耳が張り巡らされている、それが比喩ですら無いのだから。


「全く、小林の言い分じゃないが、お前ら結構仲良いよな。田中は彼女に刺されないようにしろよ」

「大丈夫です、課長。テツ先輩の事は警察官としては信頼できるし先輩としては尊敬していますが、恋人としては無し寄りの無しですので」

「テメェ、本人の前で随分はっきり言うじゃないか」

「え、もしかしてテツ先輩、春日さんという美人な彼女がいながら、私にも手を出すつもりですか?…セクハラで訴えますよ?」

「張っ倒すぞ」

「仲良いのは結構だが、喧嘩はすんなよ」


コイツは結さんの事も全部把握しているはずなのに、事あるごとに揶揄ってくる。

こいつの人格設定は何かおかしいんじゃないのか?AIごとに素の性格とかあんのか?

そんなくだらない考えすら浮かんでくる。


だがやっぱり能力としては優秀なのだ。

課長に追加で回された業務も中原と分担して――中原が8割、俺が2割くらいで――昼になる頃にはさっさと片付ける事ができた。

まったく、頼りになる奴だ。


「テツ先輩はまた彼女さんの愛妻弁当ですか?」

「『彼女の愛妻弁当』っておかしいだろ」

「何細かい事言っているんですか。まぁ、春日さんとお付き合い始めてから、テツ先輩の栄養バランスも改善されたようで私も一安心です!」

「……それ以前から、気を付けてはいたぞ?」

「……本気で言っていますか?」


呆れたような顔の中原を見て見ぬふりし、弁当の蓋を開ける。

そこには色とりどりで、とても美味しそうなメニューが並んでいた。


[田中様、朝のメニューと合わせて、これは栄養バランスが適切に取れていますね。文句の付け所がありません]

「お、凄いな。お前から見ても百点満点が出るのか」

[はい、完璧です。この調子で健康に気を付けていきましょう!]


完璧、ね。さすが結さんだ。

そして結さんに感謝を捧げながら、弁当を食べ始めた。

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