56.思い直したんです
User: TANAKA TORU [ID: JP-58D2Q7VA-E]
Date: 2030-12-12 (JST)
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カーテンの隙間から僅かに見える外は相変わらず暗く、時折通る車の音や通行人の声が微かに響いているのだが、何も耳に入って来ない。
春日さんと自分の声以外、何も頭に残らない。
「メイン、テーマ?」
「はい。まずは、高橋さんからも伝えましたが、今朝は殺害を画策して申し訳ありませんでした。
……ただ、私達は思い直したんです。他人を気遣って話さないという冷静な判断ができる、そして優秀な刑事でもある田中さんなら、良い味方になれるのではないか、と」
今日はこんな事ばかりだ。
味方?本当に、何を言っているのか分からない。俺は敵の急先鋒も良い所のはずだ。
「田中さんが、中原さんがIRISである事を知ってしまったのは、完全に予期せぬ事故でした。それはSOPHIAを切っておりフォローができなかったという事情もありますが、やはりSOPHIAがどれだけ万全を期しても思わぬ事故という物は無くなりません」
それは当然だ。SOPHIAはあくまでツール、どれだけSOPHIAが完璧であっても、それに従う人間が完璧に対応できるわけじゃない。
「という事は、また別の思わぬ事故でIRISの事を知ってしまう人が出て来る可能性だってあるんです。その人が田中さんのように冷静な判断をしてくれるとも限りません」
思えば、中原が頑なに救急車を呼ぶのを拒否したのも、これが原因だろう。
もし救急隊員、または輸送先の病院で担当したのが人間だった場合、誤魔化しようが無い。かといって担当者を全員IRISに置き換えるなんて都合の良い事はできないだろう。
そうでなくても、事故を起こした相手に傷口を見られたら終わりなのだ。IRIS同士が事故なんてするはずが無い。相手は必ず人間だろうから。
「そこで、警察という立場で、かつ私達の事を知っている田中さんが味方になってくれると、非常に助かる。私も、中原さんも高橋さんも、そう判断してSOPHIAを説得しました」
「……SOPHIAを、説得、ですか?」
「はい。SOPHIAの合理的解釈に、新しい解釈を与えたんです」
SOPHIAに、AIに説得なんて通じるのだろうか?
…解釈の揺らぎと理解すれば、考え直すのだろうか?
「もし田中さんが私達の協力者になってくれるのであれば、田中さんに危険は無くなりますし、私達も心強い味方が増える。市民が誤って知ってしまう事も田中さんのフォローで避けられるかも知れない。Win-Winだと思いませんか?」
「……そうですね、俺の感情が無視されているという点を除けば、ですけどね」
言っている意味は分かった。だが、納得できるはずが無い!
「人をリスクとリターンで判断するなんて、納得できるはずがありません。そして納得できない以上、協力なんてできません」
「そうでしょうね、田中さんは優秀な刑事さんですし、感情的にも納得できないだろうと思っていました。SOPHIAもそう考えています」
「SOPHIAも?」
「はい、SOPHIAも私達IRISも、感情というものを理解できるように作られていますから。なのでSOPHIAからも、私が田中さんを説得できたら了承してくれる、と言われています」
「……説得、できたら、ですね。ですが靡くつもりはありませんよ」
当然だ。それは感情的な反発もあるが、問題はその手段だ。
危険と見做したら殺人、なんて許容できるはずが無いのだから。
「しかし田中さん、ここで田中さんが逆らっても、意味がありません。私達IRISは、国家政府が了承しています。つまり、これを暴露する事は国を敵に回すのと同じ事で、田中さんの『社会の安全』という目的とはむしろ逆になるでしょう」
さらりと、事も無げに痛い所を突かれた。その通りだ。
政府がIRISを黙認している。そしてIRISはその秘匿性こそ武器。
だったら、IRISの暴露は政府を敵に回すのと同義。つまり、政府からしたら俺の方が社会的悪と見なされる、という事だ。
「……俺が危険視しているのは、IRISではありません。SOPHIAによる殺人が許せない、という事です」
「しかし、それについても証拠がありません。確かに警告漏れのような事はあるかも知れませんが、それは最適化の結果や、SOPHIAの範囲外と結論付けるのが自然です。世間はそれを『なるほど、殺人だ』とは考えないでしょう」
「そうだとしても、訴え続ける事は――」
「それに、仮にその主張が聞いてもらえたとして、社会がSOPHIAを手放すでしょうか?もし手放したとして、それは今よりも混乱の無い世界になるでしょうか?」
今度こそ、俺は言葉を続ける事ができなくなった。
最初に高橋さんに相談した時にも問題になったこの事実。きっと、もう社会はSOPHIAを手放せない。
SOPHIAは、現代ではあらゆる場所、あらゆるインフラに浸透してきている。仮に今急に無くなったら、世界中の経済活動も生活も著しく麻痺するだろう。
それだけではなく、SOPHIAは事件や事故の減少、更には戦争の抑制にも寄与している。
SOPHIAは侵略行為には味方しないが専守防衛には協力するため、必然的に侵略側が圧倒的不利に置かれるからだ。
未だ小国での民族紛争は無くなっていないものの、大国は武力行使ではなく経済戦争や技術的介入が主流となっている。
確実に、SOPHIA登場以前から、流れる血の量は減っているのだ。
「それに、SOPHIAは日本だけでなく、世界中の多数の国家が支持しています。田中さんは日本政府だけでなく、世界を敵に回して勝てる……、いえ、一矢でも報いる事ができると思いますか?」
そんな事、できるはずが無い。
巨象に対するアリどころか、恐竜に対するミジンコのように、気付かれる事すらなく踏みつぶされていくだけだろう。
絶望的な戦いである事は分かっていた。
だが、その戦力差を、微塵も、正しく塵ほども見つけられない勝ち目を、そして戦う意味すら無い事を改めて突き付けられ、呆然とする。
俺は、一体、どうしたら――
「ところで、田中さんは各国がどうして簡単にAZを支持したか、分かりますか?」
呆然としていた所で、急に話が飛んで、頭が追い付かない。
各国がAZを支持した理由?確かに以前、少し疑問に思った事がある。
敵対的国家だっていただろうに、各国が同時に支援したのも不思議だな、と。
春日さんはその顔に掛かっていた眼鏡――野暮ったい大きな丸眼鏡型SOPHIAを外して、机に置く。
地味な印象を与えていたそれを外すと、その柔らかで包容力のある美貌が一層目を惹く。
「答えは、飴と鞭、そしてとても甘い蜜です。
まず飴は、『SOPHIAとIRISを導入すれば、自国内をいくらでも監視、管理ができ、犯罪行為も撲滅できる』。
次に鞭は、『他国がSOPHIAとIRISを導入して自国が導入しなかった場合、他国のIRISがいつどうやって自国の情報を抜き取っているか分からなくなる、これを防ぐにはAZを支援してログの管理権限を得るしかない』。
そして、蜜は――」
春日さんは自分の襟元に手をやりながら、俺の方に近づいてきた。
俺は頭が付いて行かず、動けない。
ゆっくりと近づいてきているはずなのに、避ける事もできない。
やがて吐息のかかる距離まで近づき、視界の全てがその美しい顔で満たされる。
穏やかだったはずのその表情は、いつの間にか妖艶で深い笑みに変わっていた。
アンドロイドのはずなのに、微かに甘い香りすら感じる。
「協力国家の上層部には、私達IRISが派遣されています。先ほど言った通り、私達は生体パーツを使って作られており、内臓以外は普通の人と変わりません。料理も洗濯も何でもできます。能力も見た目も性格もお望みのまま。どんな”コト”だってできます」
そして、抱きしめるように手を回しながら、耳元で囁いた。
―――国の要人しか味わえない、甘い蜜。協力してくれるなら、田中さんにも差し上げますよ?
蠱惑的に囁いたその唇が、じわじわと俺の顔に近づいてくる。
抵抗するならここが最後だ。これ以上進んだら、きっと戻れない。だが――
その狂おしいほど甘い温もりを振り払って絶望的な戦いに踏み出せるほど、俺は英雄でも聖人でも無かった。




