共闘の一夜
その報せは、
いつもより早く沈んだ夕日と同じくらい、胸騒ぎのする色をしていました。
「……複数の村に向けて、《灰牙》の旗が同時に動いている、ですって?」
執務室に駆け込んできた斥候の言葉を、私は思わず復唱していました。
「はい。小規模な略奪ではありません。
物資だけでなく、人そのものを攫う陣形です。
“見せしめにするつもりだ”と、奴ら自身が笑っていたと」
灰色のマントに煤がついている。
遠くで上がった煙の中を、全力で駆け抜けてきたのでしょう。
(……ついに、来ましたのね)
焼けた村の跡。
震える子どもの手。
真っ黒に焦げたパン窯。
今まで見てきたあの光景が、
今夜、いくつも一度に増えるかもしれない——
そう思うと、喉の奥がひりつきました。
「すぐに兵を動かします」
レオンが、低い声で言います。
「ですが、同時に複数の村となると、
この戦力だけでは全てを守り切るのは……」
言葉を濁した彼の視線に、
私もまた、答えの出ない算術を頭の中で繰り返しました。
守れる村。守り切れない村。
先に諦めるべき地点を決める——
そんな計算を、私はしたくありませんでした。
そのとき、扉が控えめに叩かれます。
「……今は手が離せませんわ。後に——」
「“赤い風”からの使いです」
ルークの静かな声に、
部屋の空気が一瞬で張りつめました。
◆ ◆ ◆
森の外れ。
夕闇と夜の境目が、ゆっくりと滲み合っていく時間。
木々の合間に立つその人物は、
自分がどの陣営にも属さないことを全身で示していました。
赤い布を腕に巻いた若い男——
けれど、その背後にいる者の気配は、隠しようもありません。
「頭領が話がある」
それだけ告げると、
彼は木陰を振り返りました。
「来たか」
低く、よく通る声。
前に聞いたときよりも、ほんの少しだけ疲れが滲んでいる気がします。
暗がりから現れたカタリナは、
相変わらず粗末な革鎧に、実用一点張りの装備でした。
けれど、その瞳だけは、
焼ける村々を見てきた炎を、まっすぐそのまま宿している。
「忙しそうだな、公爵様」
「あなたも、のんびり散歩という顔ではありませんわね」
私がそう返すと、
彼女はわずかに口元を歪めました。
「単刀直入に言う。
《灰牙》が今夜、大きく動く」
「もう聞いておりますわ。
あなた方にも、被害が及ぶのですね」
「“及ぶ”どころか、こっちが支えている村がいくつも狙われてる」
カタリナの声が、低く掠れました。
「あいつらは“救う価値のない悪”だ。
私にだって、守りたい奴らはいる」
その一言には、
嘘の混じる余地がありませんでした。
「だから——」
彼女は、私をまっすぐに見ました。
「一夜限りでいい。共闘しよう」
静かな森の中で、
その提案は焚き火の火の粉みたいに、ぱちりと弾けました。
「……誤解のないように言っとく」
カタリナは続けます。
「あんたを助けたいわけじゃない。
私が守りたい奴らを守るために、
あんたの兵と奇跡を利用するだけだ」
「利用、ですのね」
「そうだ。あんたのほうも、そう思えばいい」
私の胸の奥に、
小さな何かがきしんだ気がしました。
けれど——その言い方のほうが、
かえって信用できるのも事実です。
(綺麗事と善意だけで手を結ばれるほうが、きっと、私は不安になる)
私はゆっくりと息を吸い込みました。
「分かりましたわ。一夜限り——
《灰牙》を止めるためだけの共闘、承ります」
そう告げると、
カタリナは短く頷きました。
「話が早くて助かる。
じゃあ、細かい首の刈り方は——
あんたの城で地図を見ながら決めよう」
皮肉とも本気ともつかない言葉に、
思わず笑いそうになってしまう自分がいました。
◆ ◆ ◆
城の作戦室に広げられた地図の上で、
灰色と赤が向かい合います。
レオンと騎士たち、《赤い風》の斥候。
その中央に、私とカタリナ。
夜の始まりとともに、
部屋の中には別の火花が散り始めていました。
「ここだ」
カタリナが指で示したのは、
いくつかの村から少し離れた丘の上。
「《灰牙》がここを通るのはほぼ確実。
この辺りは森が薄い。
ここで待ち伏せて首を刈る」
「待ち伏せ自体は、有効でしょう」
レオンが頷きかけ——
私はその先を、そっと遮りました。
「ですが、その丘の麓にある民家を囮に使うという案は、却下いたします」
カタリナの指先が、ぴくりと止まります。
「話、最後まで聞いたか?」
「聞いておりますわ」
私は、地図の端に置いていたペンを握り直しました。
力が入りすぎて、細いペン軸が少し軋む。
「民家を囮にすれば、奴らは迷わずそこを燃やす。
炎と混乱の中で、私たちが側面から——」
「その時点で、火に巻かれる人が出ます」
言葉が、ごく自然に口から零れました。
「いくら“囮に選んだ”と言っても、
そこは誰かの家で、明日の朝食の準備をしていたかもしれない場所ですわ」
「戦場で被害ゼロを目指すつもりか?」
カタリナが、苛立ちを隠さず言い放ちます。
「怪我人どころか死人も出る。
それでも“大部分を救えた”なら、上等だ」
「死人が出ることを前提に、
最初からあきらめる地点を決めるのと——」
握っていたペンが、ぱきりと音を立てました。
はっとして手を開くと、
インクが小さく飛び散って、地図の隅に黒い点を作ります。
「……申し訳ありません」
思わぬ失敗に、顔が熱くなる。
「構いません。地図は何枚でも写せます」
レオンが淡々と言ってくれて、
少しだけ救われました。
「死人が出る可能性を理解した上で、
それでも“少しでも減らす方法”を探すのは別のことです」
インクの染みから目を逸らしながら、
私は続けました。
「民を囮にする案は、どうしても飲めません。
代わりに——避難経路を先に確保した上で、
こちらから罠を仕掛けましょう」
「避難、だと?」
「ええ」
私は別の村に印をつけました。
「襲撃予定の村々から、
子どもと老人を先にここへ。
動ける大人は、物資を最低限持って、この森の中へ。
その退避路沿いに、あなた方の部隊を潜ませるのです」
ペン先で、森の線をなぞります。
「《灰牙》が“誰もいない村”に踏み込んだ瞬間、
彼らは目的を見失います。
そこであなた方が背後を突き、
うちの兵が正面から押し返す」
「……民の避難を優先するってわけか」
カタリナの声に、わずかな逡巡が混じりました。
「それじゃ、敵も散り散りになる。
一網打尽は難しい」
「一夜で世界を綺麗にしようとは思っておりませんわ」
私は、カタリナを見据えました。
「ただ——今夜、ここで“辺境ごと焼き払う”という企みを挫けるなら、それで良しとします」
「……」
しばしの沈黙。
地図の上に置かれた指が、彼女なりに計算をしているようでした。
「背後から首だけ刈る役は、こっちが引き受けよう」
やがて、カタリナが低く呟きます。
「撤退経路も自分たちで確保する。
あんたらは正面で、村と避難路を守れ」
「お任せいたしますわ」
レオンが、わずかに肩をすくめました。
「……野盗と共闘する日が来るとは、夢にも思いませんでした」
「今夜だけは」
私は、少しだけ笑ってみせました。
「“野盗”ではなく、“守りたい相手が重なった人たち”と呼ぶことにしましょう」
カタリナが、鼻で笑います。
「お嬢様、顔が真剣すぎて怖いぞ」
「これでも、落ち着いている方なのですけれど」
「なら、普段はどれだけ取り乱してるんだ」
「それは——企業秘密ですわ」
ほんのわずかに場が和み、
それでも地図の上に落ちる影の濃さは、変わりませんでした。
◆ ◆ ◆
夜が、村を包み込みます。
焚き火の光は、
必要最小限に抑えられていました。
避難を終えた家々は、
誰もいないふりをするために、
静まり返って暗闇に沈んでいます。
村の外れ。
私は少し高い位置から、
陣形全体を見下ろしていました。
手前に、うちの騎士と兵たち。
そのさらに前に、わずかな囮として残した“空の家”。
(どうか、誰も本当に眠っていませんように)
胸の中で、何度も同じことを祈ります。
「リヴィア様。いつでも」
「ええ」
レオンの声に頷き、
私は胸の前で指を組みました。
古い言葉が、喉の奥から零れ出します。
——風よ、盾となれ。
——土よ、壁となれ。
見えない膜が、
村全体をふわりと包んでいく感覚。
火矢を受け止め、
刃の勢いをわずかに逸らすための、
ささやかな、しかし広い守りの奇跡。
森の向こうから、
低い太鼓のような音が響いてきました。
鬨の声。
下卑た笑い声。
複数の足音が、土を踏みしだきながら近づいてくる。
「——来ます」
レオンが短く告げた瞬間、
闇の向こうで松明がいくつも揺れました。
《灰牙》の旗が、夜の闇の中にぼんやりと浮かび上がる。
私は、息を止めました。
◆ ◆ ◆
最初の矢が飛んできたとき——
村の屋根は、燃え上がりませんでした。
火のついた矢が、
見えない壁に触れた瞬間、
ぱちり、と赤い火花を散らして落ちていく。
「なんだ……?」
盗賊たちのざわめきが届きます。
「ビビるな! 突っ込め!」
怒鳴り声。
松明を掲げ、
粗末な鎧を身につけた男たちが雪崩れ込んでくる。
「今ですわ!」
私の声に合わせて、
隠れていた騎士たちが一斉に飛び出しました。
盾が前に突き出され、
槍が構えられ、
狭い路地での乱戦が始まる。
私の位置からは、
全てがはっきりと見えるわけではありません。
それでも、
倒れかけた兵の気配、
破られそうになる防御の綻びは、
皮膚の裏側で感じ取れる。
傷ついた気配を感じるたび、
私は古い言葉を紡ぎました。
——血よ、止まれ。
——骨よ、繋がれ。
淡い光が、闇の中で瞬きます。
傷口が閉じ、呼吸が戻る。
その一方で——
村の外側。
森の影から、別の刃が閃いていました。
「今だ、頭を落とせ!」
女の声。
カタリナです。
《灰牙》の隊列の後方。
指揮官らしき男が振り返った瞬間——
闇から飛び出した影が、その喉笛を迷いなく斬り払う。
悲鳴を上げる暇もなく、
男の体が崩れ落ちました。
「頭がやられたぞ!」
「後ろから——ぐあっ!」
次々と、
指揮を執っていた者たちが、
矢と短剣に倒れていく。
混乱。動揺。
怒号と罵声。
カタリナたちは、その混乱を好機と見て、
すぐに闇へと溶けて位置を変えました。
「前も裏も混乱しています! 今なら——」
「前線、踏みとどまって!
退避路側へは絶対に行かせませんわ!」
レオンの声に被せるように、
私は指示を飛ばしました。
村の反対側。
避難を終えた子どもたちと老人たちが、
森の奥へと向かう細い道。
そこにだけは、
決して《灰牙》の影を向かわせたくない。
私は、足元の土に意識を向けました。
——揺れよ。
——敵の足だけを取れ。
土の中の精霊たちが、
くすくすと笑うように動き出す。
村の出口へ殺到しようとした盗賊たちの足元で、
地面がわずかに崩れ、
彼らの体勢を崩していきました。
「なんだこれ——!」
「足が……!」
「今だ、押し返せ!」
レオンの号令とともに、
うちの騎士たちが一気に押し返す。
剣戟の音。
叫び声。
息の詰まるような瞬間の連続。
そのすべての中で——
私は、ほんの一瞬だけ、
自分のすぐ背後に生まれた気配に気づきました。
「——動くな、公爵様」
低い声。
振り返らなくても、誰か分かります。
カタリナです。
彼女は、いつの間にか私のすぐ背中を守る位置に立っていました。
前方から飛んできた何かが、
彼女の剣に弾かれて散る。
反射的に上げた私の左手の先で、
光の膜がもう一重、重なりました。
前でカタリナが斬り伏せ、
後ろで私が倒れた兵を起こす。
ほんの数秒のことだったのでしょう。
けれど、永く伸びた影のように、
その感覚ははっきりと刻まれました。
「背中くらいは預けてやる」
彼女がぼそりと呟きます。
「今夜だけな」
「今夜だけで、十分ですわ」
私もまた、息を吐きながら答えました。
◆ ◆ ◆
どれくらい時間が経ったのか、
正確には分かりません。
気づいたときには——
鬨の声は途切れがちになり、
《灰牙》の旗は、
燃え残った布切れとなって地面に落ちていました。
敵は全滅には至らずとも、
指揮系統を失い、四散していく。
こちらの被害も、決して軽くはありません。
それでも——
村は、焼き払われてはいませんでした。
家々はまだそこにあり、
明日の朝も、この場所で人々は火を起こせる。
避難路の先で、
子どもたちが怯えた顔で互いの手を握りしめている。
それだけで、
今夜という一夜が、
どれほど重い意味を持っているかが分かりました。
「撤退する」
いつの間にか隣に来ていたカタリナが、
短く告げます。
「追撃は?」
「これ以上深追いすれば、こちらの損失が増えるだけだ。
首は十分刈った。今夜のところは、これでいい」
彼女の言葉に、
私は頷きました。
「……借りは作らない主義なんでね」
カタリナが、ちらりとこちらを見ます。
「あんたの奇跡がなきゃ、守れなかった奴もいる。
それは認める」
「私もまた、
あなたの刃がなければ、
止められなかった敵がいることを認めますわ」
「気に入らないな」
「お互い様ですわね」
ふっと、
彼女の口元が緩んだ気がしました。
「今夜だけは——だ」
それだけ言い残して、
カタリナは闇の中へ姿を消します。
赤い布が、夜風に一度だけ揺れました。
◆ ◆ ◆
夜明け前。
空がようやく、墨色から薄い青へと変わり始める頃。
私は、焦げ跡の残る村の外れに立っていました。
傷ついた人々は、順番に治療を受けています。
死者は——
決してゼロではありません。
それでも、
村が「辺境ごと焼き払われる」ことは、防げた。
レオンが隣に立ち、
静かに空を見上げていました。
「今夜だけの共闘、でしたね」
「ええ。
それ以上を望むつもりはありませんわ」
私は、煤けた地面を見下ろします。
(今夜だけは——)
壊したいものと、守りたいものが。
不思議と、同じ方向を向いていた。
彼女は貴族制度を壊したい。
私は、その中で今生きている人たちを守りたい。
本来なら、決して交わらないはずの二つの正義が、
一瞬だけ、同じ敵へと向けられた夜。
(いつかきっと、再び刃を向け合うことになるのでしょう)
それでも、今夜だけは——
背中を預け、預けられた事実は消えません。
「噂にでもなるでしょうかしら」
思わず口に出していて、
自分で驚きました。
「“人を飲み込む城の主”と、
“貴族殺しの女”が、
一夜だけ同じ敵を斬った——なんて」
「できれば、子どもたちにはあまり聞かせたくない話ですね」
レオンの苦笑に、
私もまた、少しだけ笑いました。
空の端が、白んでいきます。
今夜、守られた火が、
また一日分のパンを焼いてくれることを願いながら——
私はそっと、胸の前で指を組みました。




