ゲリラの旗
その夜、私はようやく寝台に身を沈めたところでした。
今日も一日、集いの家と執務室を行き来して、
人の話を聞き、書類に目を通し、必要な指示を出し――
自分の中の「まだ足りない」という声を、なだめすかして押し込めて。
枕に頬を預けた瞬間、
扉を叩く硬い音が、静かな寝室を揺らしました。
「……レオン、ですわね」
こんな時間に、遠慮の少ないノックをするのは、
この屋敷では彼くらいのものです。
「どうぞ」
声をかけると、すぐに扉が開きました。
想像どおり、制服姿のレオンが立っています。
「夜分に失礼いたします、リヴィア様」
彼の声は、いつも以上に固く、短かった。
「近隣の村が、夜襲を受けました」
眠気が、一瞬で吹き飛びました。
「……被害は?」
「詳細はまだですが、
炎が上がったとの報告。
負傷者も複数いるようです」
「馬の用意を。すぐに向かいますわ」
そう口にしたあとで、自分の格好に気づきました。
夜着のまま、寝間着用のゆるいローブ。
髪もほどいたまま。
「さすがに、このままではまずいですわね……」
寝間着の上から厚手のコートを羽織り、
ベルトだけ留めて無理やり「服らしい形」に整えました。
侍女を起こす時間も惜しい。
最低限、動ければいい――そう自分に言い聞かせます。
レオンが一瞬、眉を寄せましたが、
私の目を見て、何も言わずに頷きました。
◆ ◆ ◆
夜の冷気は、昼間の気温よりもずっと正直です。
馬の背に揺られながら、
顔や指先に突き刺さるような冷たさを感じつつ、
私は自分の胸の中の、別の冷たさを見つめていました。
(また、誰かが倒れているのかもしれませんわね)
盗賊。飢えた者たち。
戦で行き場を失った兵士たち。
この辺境を狙う「理由」を持った者たちは、
残念ながら、そう珍しくありません。
(今回は、誰が――)
そこまで考えたところで、
遠くに、煙の帯が見えました。
暗い空に、ゆらゆらと黒い線を描くそれは、
まるで夜空に書き込まれた悲鳴のようにも見えます。
「急ぎましょう」
声をかけると、レオンが無言で頷き、
馬を一段階、速い歩様へと切り替えました。
◆ ◆ ◆
村に着いたとき、
そこは「焼け野原」には、なっていませんでした。
それが、少しだけ、救いに思えたのは事実です。
家々はまだ煙を吐き出してはいるものの、
全体が燃え落ちているわけではない。
火はすでに、多くの手によって抑え込まれたあとでした。
怯えた表情の人々が、
互いに水桶を回し、
子どもを抱き寄せ、
火の粉が残っていないか確かめている。
「リヴィア様……!」
私の姿に気づいた村長が、駆け寄ってきました。
顔も髭も煤で真っ黒です。
「お怪我は?」
「い、いえ。死人は……出ておりません」
その言葉に、胸の底で何かがほっと緩みました。
ですが、村長の顔には、別種の影が落ちています。
「詳しく、教えていただけますか」
「は、はい……」
村長に案内され、私は村の中心へ向かいました。
◆ ◆ ◆
そこにあったのは、
村で一番大きな建物――徴税倉庫でした。
領の支所も兼ねるその建物は、
半分以上が黒く焼け崩れ、
屋根はほとんど失われています。
しかし、その周囲に並ぶ
民の食料を収めた小さな倉や、
家畜小屋は無事でした。
焦げた梁の隙間から、
まだ赤い火の名残が、
じりじりと音を立てています。
「……ここだけ、ですのね」
「はい。やつらは最初から、ここを狙っておったようです」
村長の声が震えました。
「突然、夜中に叫び声がして――
“これは民のための裁きだ”と叫びながら、
黒い布で顔を隠した連中が、ここに火を放って……」
村人たちの証言が、次々と重なります。
「家には手を付けなかったんです、リヴィア様」
「“民の蓄えには触れない”とか言って……
でも、怖くて……」
「“税ってのは、お前らから吸い上げた血だ”って叫んで……
あの、倉庫だけを……」
私は焼け跡に近づき、
焦げた木の匂いと、
まだ湿った土の匂いを吸い込みました。
足元には、割れた壺や、
半ば焼けた帳簿の残骸が、散らばっています。
焼け落ちた梁のひとつに、
何かが引っかかっていました。
「リヴィア様」
レオンが指差しました。
そこには、
赤い布に雑な筆致で描かれた、
一枚の「旗」の印が残されていました。
風に煽られ、ちぎれかけた布切れ。
描かれているのは、波打つような線と、
それを斜めに横切る一本の曲線。
炎と風――
そんな印象を受ける意匠です。
「……これが?」
「やつらの目印らしいです」
村長が唾を飲み込みながら言いました。
「“赤い風さまのおなりだ”と……
そう叫んでおりました」
「赤い風」
私は、その言葉を繰り返しました。
風は、本来、誰のものでもありません。
それを「名乗る」ということは、
きっと彼らなりの意味と誇りがあるのでしょう。
ですが――だからといって、
この焼け跡が消えるわけではありません。
「リヴィア様。こちらを」
レオンが、焦げた木箱の陰から
一枚の紙を拾い上げて、持ってきました。
角が少し焼け、
煤にまみれたそれは、
丁寧な字と荒い字が混じった奇妙な手紙でした。
私は火の残っていない場所まで下がり、
ランタンの明かりを近づけて、紙面を読みました。
そこには、こう書かれていました。
『税と称して民の血を吸う者たちへ』
――嫌でも、視線が先に進みます。
『お前たちの倉は、お前たちの喉もとだ。
そこを焼くのは、民から奪われた血を、少しだけ返してもらうための裁きだ』
『我ら《赤い風》は、
民のために剣を振るう』
『奇跡の公爵令嬢とやらも、所詮は貴族側の人間。
民の名を口にしながら、税と権力の上に座る者。
いずれ、裁きの席から逃れることはできない』
最後には、名前が記されていました。
『頭目 カタリナ』
――女の名前。
私は、そっと息を吐きました。
「……随分と、はっきりとした宣戦布告ですわね」
「許しがたい真似です」
レオンの声が低くなります。
「人を殺さなかったからといって、
許される行為ではありません」
「ええ。もちろんですわ」
私は、焼け落ちた倉庫の残骸を見上げました。
税の帳簿、徴税品――
領主としての「権威」と「管理」の象徴が、
見事なまでに狙い撃ちされています。
民の食料倉が無事であることは、救いです。
けれど同時に、
これは明らかに「選んだ」攻撃でした。
(家々は、まだ立っている)
(人々も、大きな怪我は少ない)
(けれど――領主の首根っこだけを、
器用に噛みつかれたようなものですわね)
村長が、おそるおそる尋ねてきました。
「リヴィア様……
これは、その……盗賊どもとは違うのでしょうか」
「ええ」
私は頷きました。
「少なくとも、自分たちを“盗賊”とは呼んでいない、でしょうね」
彼らは自らを《ゲリラ》と名乗りたがるでしょう。
「民のための剣」だと。
手紙の文面からは、
怒りと憎しみと――
ほんの僅かな、正しさへの渇望が滲んでいました。
(貴族による搾取。
理不尽な税。
見捨てられた村々)
私がまだこの辺境に来る前、
この土地がどう扱われてきたのかを思えば、
彼らの怒りの一部は、決して空想ではないのでしょう。
問題は――その「正しさ」を、
どのような形で振りかざすか、です。
「レオン」
「はい」
「被害状況の確認を最優先ですわ。
怪我人の手当てを。
今夜の寝床の確保も」
「承知しました」
レオンが部下たちに指示を飛ばし、
騎士たちが動き出します。
私は、倒壊しかけている壁の前に立ち、
赤い旗の印を見上げました。
「リヴィア様」
レオンの足音が戻ってきます。
「手口は、かなり洗練されています」
「と、言いますと?」
「火の回し方が巧妙です。
あらかじめ油を仕込んでいた様子もない。
少人数で、短時間で、狙った場所だけを焼いている」
レオンの声には、
騎士としての冷静な分析が含まれていました。
「おそらく、軍経験者か、
元騎士が混じっている可能性が高い。
訓練もなく出来る動きではありません」
「……つまり、“ただ怒りに任せた暴徒”ではないわけですのね」
「はい。
意図と技量を持った集団だと見ておいたほうがよろしいかと」
私は、手に持っていた置き手紙を見下ろしました。
『奇跡の公爵令嬢とやらも、所詮は貴族側の人間』
墨のにじみが、
夜露と焦げ跡に混じって、
文字を少し歪ませています。
(……そうですわね)
彼らが憎んでいる「貴族」という言葉の中に、
今の私も、確かに含まれているのだと思います。
私は領主であり、公爵令嬢であり、
税を決める側であり、徴税を命じる側でもある。
たとえ、
「出来る限り公平に」と心がけていたとしても。
たとえ、
飢えた村に追加の支援を送っていたとしても。
彼らから見れば、
私は「上にいる者」です。
「……彼らが怒っているものの一部に、
私も含まれているのでしょうね」
小さく呟くと、レオンが私を見ました。
「リヴィア様」
「誤解ですわ、と片付けるのは簡単です。
でも、ここまでの憎しみが生まれるには――
積もり積もった何かが、きっとあるはずですもの」
だからといって、やり方を許すつもりはありません。
民のためだと口にしながら、
夜中に火を放つことを正当化するのなら、
それは別の形の暴力に過ぎません。
「ただ……」
私は赤い旗から目を離さぬまま、続けました。
「“何に怒っているのか”を聞きもせず、
ただ敵として切り捨てるのは――
それもまた、違う気がしますの」
レオンの横顔が、
わずかに柔らかくなった気がしました。
「いずれ、カタリナという女と、
直接話をする機会が来るかもしれません」
頭目――
自らその名を手紙に記した者。
彼女がどのような顔をしているのか、
どのような声で「民のため」と口にするのか。
それを確かめる必要があると、
私は思いました。
「その時に、こちらが一方的な正義だけを持っていては――
きっと、何も届きませんもの」
もちろん、危険は大きいでしょう。
レオンは、主として「警戒」の色を濃くした目で、
私を見つめています。
「やり方は、決して容認できません」
私は言いました。
「人の家を焼き、
人の暮らしを脅かすのなら――
たとえその口に“民のため”と乗せていても、
それは正しさとは呼べませんわ」
けれど、それでも。
「それでも、“なぜそこまでの怒りを抱くに至ったか”は――
一度は聞いておきたいのです」
赤い布が、夜風にかすかに揺れました。
旗というにはあまりに小さく、粗雑な一枚。
けれど、その布切れが象徴しているものが、
この焼け跡以上に厄介であることを、
私は直感していました。
「これは、いつか必ず向き合うべき“もう一つの正義”なのですね」
誰かの正しさと、誰かの正しさが、
正面からぶつかり合う時。
そのとき、私はどこに立つのか。
誰の側に立ち、何を守るのか。
焼けた木の匂いと、
冷えた夜気の中で、
その問いだけが、静かに胸の奥に沈んでいきました。
◆ ◆ ◆
「リヴィア様」
ぼんやりと赤い旗を見上げていた私に、
レオンがそっと声をかけました。
「頬に煤がついております」
「え?」
指先でそっと触れると、ざらりとした感触。
「……本当ですわ」
「今夜は、その格好で村を駆け回られていますから」
夜着にコートを羽織っただけの自分を思い出し、
村人たちの視線も思い出し――
少しだけ、頬が熱くなりました。
「こんなお姿で他国の使者を迎えることにならなくて、よかったですね」
「その冗談、今はあまり楽しくありませんわ」
そう返しながらも、
私の口元には、わずかな笑みが浮かんでいました。
焼け跡の匂い。
赤い旗。
置き手紙に刻まれた名前。
どれも、決して軽いものではありません。
それでも――
ここにいる人々が、まだ生きている。
互いに肩を貸し、
家の中を片付け、
子どもを抱き寄せている。
その事実を、一つずつ確認するように、
私は村の中を歩き始めました。
《赤い風》という名の、もう一つの嵐が、
この辺境をさらおうとしている。
ならば――
私もまた、この場所に立つ者として、
吹きすさぶ風の正体を、
正面から見極めなければなりませんわね。




