行き場のない祈り
教会からの文を受け取って、返書の草稿を書き始めてから、まだ数日しか経っておりませんのに。
邸の前には、いつのまにか――
以前よりも、ずっと長い列ができるようになっていました。
◆ ◆ ◆
「今日も、もう並んでおられます」
朝、執務室へ向かう途中で、窓の外を覗いた侍女が小さく息を呑みました。
私は階段の踊り場から身を乗り出し、邸の前の広場を見下ろします。
冷たい空気の中で、人、人、人。
厚手の上着を着た農夫、包帯の巻かれた兵士、古びたマントをまとった老婆。
抱きかかえられた幼い子どもの姿も見えました。
――列が、伸びていますわね。
胸の奥が、わずかにきゅっと縮みました。
「噂が広がっているようです」
いつのまにか横に並んでいたルークが、静かに言いました。
「“公爵令嬢様の奇跡が、教会に正式に認められた”と」
「正式に、だなんて」
思わず苦笑がこぼれます。
「教会からの文は、どちらかといえば“これからどう扱ってくれましょうか”という確認のようなものだったのですけれど」
「ですが、噂とは得てして都合よく変わるものです。
“教会本部から封書が届いた”という事実だけが一人歩きし、“認められた”に変わったのでしょう」
――私の返事が届くより早く、噂のほうが形を変えて広がっていく。
何だか、少しおかしくて、少し怖くもありました。
「今日も、邸でご相談をお受けしましょう。
教会のほうにも人が押し寄せているでしょうし、神父様だけではとても……」
「無理はなさらないでください」
ルークの忠告は、いつもどおり静かで現実的です。
けれど、窓の外で列を作っている人々を見てしまえば――
「今日はやめにしましょう」と扉を閉じることなど、とてもできそうにありませんでした。
「無理は、いたしませんわ」
言葉にした瞬間、自分で少しだけ嘘の匂いを感じます。
それでも、階段を降りる足は止まりませんでした。
◆ ◆ ◆
邸の玄関ホールを、即席の待合場所として開放するようになったのは、いつからだったでしょう。
大きな扉が開くたびに、冷たい外気と、人々の祈りが一緒になって流れ込んできます。
「順番にお呼びしますので、中でお待ちください」
使用人たちが声をかけ、椅子やベンチに人を案内していきます。
私は応接室の一つを、相談用の部屋として使っていました。
一組が出ていけば、次の一組。
深く息を吸い、顔を上げ、扉のほうを向きます。
「次の方を、お通しして」
最初に入ってきたのは、痩せた若い母親でした。
腕には、ぐったりとした幼い男の子。
額に手を当てると、熱がびりびりと伝わってきます。
「三日も、高い熱が下がらなくて……お医者様に見せるお金も、もう……」
途切れ途切れの言葉から、夜通し付き添っていたであろう疲労がにじんでいました。
私はゆっくりと子どもの額に手を当て、
精霊たちへと静かに呼びかけます。
――熱を奪いすぎないで。
この子が自分で治す力を、少しだけ手伝って。
額の熱が、少しだけ落ち着いていく。
呼吸が楽そうになっていく。
完全な治癒ではなく、
病と戦うための“猶予”を少しだけ伸ばすような術。
「今夜は、きっと少し眠れるはずですわ。
明日の朝いちばんに、診療所の医師に診てもらってください。
紹介状を書きますわ」
母親は何度も何度も頭を下げ、
涙を零しながら子どもを抱きしめていました。
――一人。
扉が閉まり、私は小さく息を吐きます。
次に入ってきたのは、片腕を失った元兵士でした。
「戦場から戻ってきて、仕事がなくて……。
片腕でもできる仕事なんて、そう多くはないでしょう?
それでも、家族を食べさせなきゃならない」
切断された肩口は、すでに古い傷です。
腕を生やすような真似は、私にはできません。
精霊たちも、それは“戻しすぎた時間”として拒むでしょう。
けれど、傷跡の痛みを和らげることはできる。
重い物を持ったときの痺れを軽くすることも。
私は痛みを少しだけ遠ざける魔法を施し、
同時に、集いの家で始めた簡単な仕事の募集について話しました。
「荷物を運ぶ仕事は難しいかもしれませんけれど、
文字が読める方なら、帳簿を手伝っていただくこともできますわ」
「……俺なんかでも、いいんでしょうか」
「“なんか”ではございませんわ。
あなたはこの国を守るために、片腕を置いてきた方なのでしょう」
――二人。
次の人、その次の人。そのまた次。
借金に追い詰められた夫婦。
家を焼かれた老人。
祈っても祈っても戻ってこなかった息子の名を、
いまさら告解のように口にする父親。
一人一人の話を聞きながら、
私は自分の中で、必死に線引きをしていきました。
今、この場で魔法を使えば、状況を好転させられる人。
魔法ではなく、人の手や制度で支えたほうがいい人。
どうしても、今の私では届かないところにいる人。
――どれだけ、冷静でいられるかしら。
心のどこかで、そんな自分への問いが、膝に重く乗っかってきます。
◆ ◆ ◆
「リヴィア様、少し休憩を」
いつのまにか日が傾き、
応接室に差し込む光が橙色に変わっていました。
侍女の一人がそっとお茶を置き、
私の顔色を窺います。
「大丈夫ですわ。次の方を」
「ですが、もう何時間も……」
「あと一人だけ。
それで今日は、本当に終わりにいたしますから」
自分で言いながら、
それが約束にならないと分かっているような気がしました。
それでも、侍女はそれ以上食い下がらず、
廊下に控えるルークに目で合図を送ります。
扉が開き、また一人。
気づけば、窓の外の空はすっかり暗くなっていました。
最後の相談者を見送ったとき、
時計はとっくに夕食の時間を過ぎていたはずです。
廊下に出ると、まだ玄関ホールには人が残っていました。
順番が回ってこなかった人たち。
子どもの手を引きながらも、諦めきれない目でこちらを見つめる母親。
腰の曲がった老人が、帽子を胸に抱えたまま、
どうしていいか分からないように立ち尽くしています。
「本日はここまでとさせていただきます」
ルークが、申し訳なさそうに告げました。
「明日も、同じ時間にご相談をお受けいたします。
どうか、お身体を冷やされませんよう」
視線が、私のほうにも流れてきます。
祈るように、責めるように、すがるように。
――今日、あなたに選ばれなかった者たちです。
誰かが、そう囁いた気がしました。
「……明日も、ここにおりますわ」
声が震えないようにするのに、
少しだけ、力が要りました。
「今日は、これ以上は、まともなお話ができませんもの。
中途半端なお返事でお帰しするより、
きちんとお話できる状態でお会いしたいのです」
それは半分、本心で。
半分は、自分への言い訳でした。
人々は簡単には納得したわけではありません。
それでも、寒さと疲労、
そして「公爵令嬢様が明日も」と言った言葉に押されるように、
少しずつ玄関ホールを後にしていきました。
扉が閉まり、静寂が戻る。
その静けさは、昼の喧噪の残響を、
却って強く浮き上がらせました。
◆ ◆ ◆
自室まで辿り着いたまでは、覚えています。
ドレスの背中のボタンを外してもらい、
侍女に礼を言って部屋を出てもらって。
それから、
――そこで、糸が切れました。
腰紐に手をかけた途端、
指先から力が抜けていくのが分かりました。
そのまま床に、ぺたりと座り込んでしまいます。
膝に落ちた自分の手が、かすかに震えていました。
「……せめて、ベッドまで辿り着きたかったですわ」
自嘲混じりにそう呟いた途端、
喉の奥から、何かが込み上げてきました。
今日の列。
顔。
声。
祈り。
救えた人たちの笑顔よりも、
救えなかった人たちの目のほうが、鮮明に浮かんできます。
幼い子を抱いていた母親の、順番が回ってこなかった肩。
最初は列の一番後ろにいたはずなのに、
いつのまにか見えなくなってしまっていた老人。
――全部、救えないなら。
「全部救えないなら、何もしないほうがましだと……」
絞り出すような声が、自分の口から漏れました。
「そんなふうに思えたら、
どれだけ楽だったでしょうね」
でも、私は。
どうしても、それができない。
目の前に沈みかけている人の手を、
「全部は救えないから」と言って離してしまう自分を、
許せない。
だから、椅子に座る。
扉を開ける。
列を見てしまう。
そして、また今日のように――
自分の限界に、頭を打ち付ける。
「どうして、私は“これで十分”と自分に言い聞かせることが、
こんなにも下手なのかしら」
視界が滲んでいく。
手の甲で拭っても、すぐにまた、別の雫がこぼれてきました。
ノックの音がしたのは、そのときです。
「リヴィア様?」
レオンの声でした。
返事をしようとしても、喉が詰まって声になりません。
しばらく待っても、室内から音がしないからでしょう。
扉が静かに開きました。
振り向く余裕もなく、そのまま俯いている私の前まで、
足音が近づいてきます。
「失礼します」
レオンは、余計なことを何も言わず、
私の少し斜め後ろに腰を下ろしました。
床に、です。
「レオン。床が、冷たいですわよ」
ようやく出た声は、ひどく鼻にかかっていました。
「お互い様です」
短い返事。
それ以上、慰めの言葉も、
励ましの言葉も、彼は口にしませんでした。
ただそこにいて、
私が呼吸を整えるまでの、長い沈黙を一緒に受け止めてくれていました。
しばらくして、ようやく胸のつかえが、
少しだけ下りていきます。
涙で濡れた頬を袖で拭いながら、
私は、背中越しに問いかけました。
「……今日、私に救われなかった人たちは、どう思うのでしょうね」
彼らの祈りは、どこへ行くのでしょう。
神のもとへ?
精霊のもとへ?
それとも――
ただ宙を彷徨って、行き場を失ったまま、
どこかに沈んでしまうのでしょうか。
「分かりません」
レオンは率直に言いました。
「ですが、今日、あなたに救われた人も、
救われなかった人も――
おそらく、明日も生きようとするのでしょう」
ゆっくりとした、静かな声。
「それを許したのは、あなたの奇跡だけではありません」
「……どういう、意味ですの」
「あなたが今日、そこに座っていたこと。
話を聞いたこと。
“自分の話を最後まで聞いてくれる誰かがいる”と知ったこと」
レオンはそこで言葉を切り、
少しだけ息を吸いました。
「それだけで、
明日も列に並んでみようと思える人は、きっと少なくないはずです」
――列に並ぶ、という選択。
生きることを諦めてしまえば、
そもそも列に加わることすらしないはずです。
順番が回ってこなかったあの人たちも。
もしかしたら明日も、ここに来てくれるかもしれない。
そのとき私は――
今日と同じように、椅子に座っていられるでしょうか。
少し、怖くなりました。
「明日も、列ができるのでしょうね」
ぽつりと漏らすと、
レオンは小さく笑ったような気配を見せました。
「ええ。きっと」
「それでも――」
床に置いた自分の手を、ぎゅっと握りしめます。
「それでも、明日も椅子に座って待っていようと思いますわ」
行き場のない祈りが、
全部叶うわけではないと知りながら。
それでも、行き場を失った祈りが、
ほんの少しだけ腰掛けていられる椅子くらいなら――
ここに置いておけるかもしれないから。
「その椅子が壊れそうになったら、言ってください」
レオンが、ぽつりと言いました。
「今度こそ、ちゃんと、修理を手伝います」
思わず、くすりと笑いが漏れます。
「今までのは、手伝ってくださっていなかったのです?」
「影で勝手に釘を打っていただけですから」
「それを世間では“手伝う”と申しますのよ」
頬に残っていた涙が、
ようやく完全に乾いていくのを感じました。
ゆっくりと立ち上がると、
足元が少しふらりと揺れます。
「ほら、やはりベッドまで辿り着けそうにないではありませんか」
「お支えします」
レオンが自然な動作で手を差し出し、
私はその腕を借りてベッドの縁に腰掛けました。
「明日も列ができるのなら――
明日もきちんとした顔で座っていなければなりませんものね」
「はい。寝癖のないお顔で」
「そこですか」
そんなやり取りができる程度には、
もう大丈夫だと、自分で自分に言い聞かせます。
行き場のない祈りは、きっと明日も、ここへ流れ込んでくる。
全部を抱きしめることはできなくても。
せめて、「ここまでなら」と言える場所まで――
私は、椅子に座って手を伸ばし続けてみようと思いました。




