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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第3章_愛と怒りと、歌えば国が揺らぐ夜
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行き場のない祈り

 教会からの文を受け取って、返書の草稿を書き始めてから、まだ数日しか経っておりませんのに。


 邸の前には、いつのまにか――

 以前よりも、ずっと長い列ができるようになっていました。


◆ ◆ ◆


「今日も、もう並んでおられます」


 朝、執務室へ向かう途中で、窓の外を覗いた侍女が小さく息を呑みました。


 私は階段の踊り場から身を乗り出し、邸の前の広場を見下ろします。


 冷たい空気の中で、人、人、人。


 厚手の上着を着た農夫、包帯の巻かれた兵士、古びたマントをまとった老婆。

 抱きかかえられた幼い子どもの姿も見えました。


 ――列が、伸びていますわね。


 胸の奥が、わずかにきゅっと縮みました。


「噂が広がっているようです」


 いつのまにか横に並んでいたルークが、静かに言いました。


「“公爵令嬢様の奇跡が、教会に正式に認められた”と」


「正式に、だなんて」


 思わず苦笑がこぼれます。


「教会からの文は、どちらかといえば“これからどう扱ってくれましょうか”という確認のようなものだったのですけれど」


「ですが、噂とは得てして都合よく変わるものです。

  “教会本部から封書が届いた”という事実だけが一人歩きし、“認められた”に変わったのでしょう」


 ――私の返事が届くより早く、噂のほうが形を変えて広がっていく。


 何だか、少しおかしくて、少し怖くもありました。


「今日も、邸でご相談をお受けしましょう。

  教会のほうにも人が押し寄せているでしょうし、神父様だけではとても……」


「無理はなさらないでください」


 ルークの忠告は、いつもどおり静かで現実的です。


 けれど、窓の外で列を作っている人々を見てしまえば――

 「今日はやめにしましょう」と扉を閉じることなど、とてもできそうにありませんでした。


「無理は、いたしませんわ」


 言葉にした瞬間、自分で少しだけ嘘の匂いを感じます。


 それでも、階段を降りる足は止まりませんでした。


◆ ◆ ◆


 邸の玄関ホールを、即席の待合場所として開放するようになったのは、いつからだったでしょう。


 大きな扉が開くたびに、冷たい外気と、人々の祈りが一緒になって流れ込んできます。


「順番にお呼びしますので、中でお待ちください」


 使用人たちが声をかけ、椅子やベンチに人を案内していきます。

 私は応接室の一つを、相談用の部屋として使っていました。


 一組が出ていけば、次の一組。

 深く息を吸い、顔を上げ、扉のほうを向きます。


「次の方を、お通しして」


 最初に入ってきたのは、痩せた若い母親でした。


 腕には、ぐったりとした幼い男の子。

 額に手を当てると、熱がびりびりと伝わってきます。


「三日も、高い熱が下がらなくて……お医者様に見せるお金も、もう……」


 途切れ途切れの言葉から、夜通し付き添っていたであろう疲労がにじんでいました。


 私はゆっくりと子どもの額に手を当て、

 精霊たちへと静かに呼びかけます。


 ――熱を奪いすぎないで。

  この子が自分で治す力を、少しだけ手伝って。


 額の熱が、少しだけ落ち着いていく。

 呼吸が楽そうになっていく。


 完全な治癒ではなく、

 病と戦うための“猶予”を少しだけ伸ばすような術。


「今夜は、きっと少し眠れるはずですわ。

  明日の朝いちばんに、診療所の医師に診てもらってください。

  紹介状を書きますわ」


 母親は何度も何度も頭を下げ、

 涙を零しながら子どもを抱きしめていました。


 ――一人。


 扉が閉まり、私は小さく息を吐きます。


 次に入ってきたのは、片腕を失った元兵士でした。


「戦場から戻ってきて、仕事がなくて……。

  片腕でもできる仕事なんて、そう多くはないでしょう?

  それでも、家族を食べさせなきゃならない」


 切断された肩口は、すでに古い傷です。


 腕を生やすような真似は、私にはできません。

 精霊たちも、それは“戻しすぎた時間”として拒むでしょう。


 けれど、傷跡の痛みを和らげることはできる。

 重い物を持ったときの痺れを軽くすることも。


 私は痛みを少しだけ遠ざける魔法を施し、

 同時に、集いの家で始めた簡単な仕事の募集について話しました。


「荷物を運ぶ仕事は難しいかもしれませんけれど、

  文字が読める方なら、帳簿を手伝っていただくこともできますわ」


「……俺なんかでも、いいんでしょうか」


「“なんか”ではございませんわ。

  あなたはこの国を守るために、片腕を置いてきた方なのでしょう」


 ――二人。


 次の人、その次の人。そのまた次。


 借金に追い詰められた夫婦。

 家を焼かれた老人。

 祈っても祈っても戻ってこなかった息子の名を、

 いまさら告解のように口にする父親。


 一人一人の話を聞きながら、

 私は自分の中で、必死に線引きをしていきました。


 今、この場で魔法を使えば、状況を好転させられる人。

 魔法ではなく、人の手や制度で支えたほうがいい人。

 どうしても、今の私では届かないところにいる人。


 ――どれだけ、冷静でいられるかしら。


 心のどこかで、そんな自分への問いが、膝に重く乗っかってきます。


◆ ◆ ◆


「リヴィア様、少し休憩を」


 いつのまにか日が傾き、

 応接室に差し込む光が橙色に変わっていました。


 侍女の一人がそっとお茶を置き、

 私の顔色を窺います。


「大丈夫ですわ。次の方を」


「ですが、もう何時間も……」


「あと一人だけ。

  それで今日は、本当に終わりにいたしますから」


 自分で言いながら、

 それが約束にならないと分かっているような気がしました。


 それでも、侍女はそれ以上食い下がらず、

 廊下に控えるルークに目で合図を送ります。


 扉が開き、また一人。


 気づけば、窓の外の空はすっかり暗くなっていました。


 最後の相談者を見送ったとき、

 時計はとっくに夕食の時間を過ぎていたはずです。


 廊下に出ると、まだ玄関ホールには人が残っていました。


 順番が回ってこなかった人たち。

 子どもの手を引きながらも、諦めきれない目でこちらを見つめる母親。

 腰の曲がった老人が、帽子を胸に抱えたまま、

 どうしていいか分からないように立ち尽くしています。


「本日はここまでとさせていただきます」


 ルークが、申し訳なさそうに告げました。


「明日も、同じ時間にご相談をお受けいたします。

  どうか、お身体を冷やされませんよう」


 視線が、私のほうにも流れてきます。


 祈るように、責めるように、すがるように。


 ――今日、あなたに選ばれなかった者たちです。


 誰かが、そう囁いた気がしました。


「……明日も、ここにおりますわ」


 声が震えないようにするのに、

 少しだけ、力が要りました。


「今日は、これ以上は、まともなお話ができませんもの。

  中途半端なお返事でお帰しするより、

  きちんとお話できる状態でお会いしたいのです」


 それは半分、本心で。

 半分は、自分への言い訳でした。


 人々は簡単には納得したわけではありません。


 それでも、寒さと疲労、

 そして「公爵令嬢様が明日も」と言った言葉に押されるように、

 少しずつ玄関ホールを後にしていきました。


 扉が閉まり、静寂が戻る。


 その静けさは、昼の喧噪の残響を、

 却って強く浮き上がらせました。


◆ ◆ ◆


 自室まで辿り着いたまでは、覚えています。


 ドレスの背中のボタンを外してもらい、

 侍女に礼を言って部屋を出てもらって。


 それから、 


 ――そこで、糸が切れました。


 腰紐に手をかけた途端、

 指先から力が抜けていくのが分かりました。


 そのまま床に、ぺたりと座り込んでしまいます。


 膝に落ちた自分の手が、かすかに震えていました。


「……せめて、ベッドまで辿り着きたかったですわ」


 自嘲混じりにそう呟いた途端、

 喉の奥から、何かが込み上げてきました。


 今日の列。

 顔。

 声。

 祈り。


 救えた人たちの笑顔よりも、

 救えなかった人たちの目のほうが、鮮明に浮かんできます。


 幼い子を抱いていた母親の、順番が回ってこなかった肩。

 最初は列の一番後ろにいたはずなのに、

 いつのまにか見えなくなってしまっていた老人。


 ――全部、救えないなら。


「全部救えないなら、何もしないほうがましだと……」


 絞り出すような声が、自分の口から漏れました。


「そんなふうに思えたら、

  どれだけ楽だったでしょうね」


 でも、私は。

 どうしても、それができない。


 目の前に沈みかけている人の手を、

 「全部は救えないから」と言って離してしまう自分を、

 許せない。


 だから、椅子に座る。

 扉を開ける。

 列を見てしまう。


 そして、また今日のように――

 自分の限界に、頭を打ち付ける。


「どうして、私は“これで十分”と自分に言い聞かせることが、

  こんなにも下手なのかしら」


 視界が滲んでいく。

 手の甲で拭っても、すぐにまた、別の雫がこぼれてきました。


 ノックの音がしたのは、そのときです。


「リヴィア様?」


 レオンの声でした。


 返事をしようとしても、喉が詰まって声になりません。


 しばらく待っても、室内から音がしないからでしょう。

 扉が静かに開きました。


 振り向く余裕もなく、そのまま俯いている私の前まで、

 足音が近づいてきます。


「失礼します」


 レオンは、余計なことを何も言わず、

 私の少し斜め後ろに腰を下ろしました。


 床に、です。


「レオン。床が、冷たいですわよ」


 ようやく出た声は、ひどく鼻にかかっていました。


「お互い様です」


 短い返事。


 それ以上、慰めの言葉も、

 励ましの言葉も、彼は口にしませんでした。


 ただそこにいて、

 私が呼吸を整えるまでの、長い沈黙を一緒に受け止めてくれていました。


 しばらくして、ようやく胸のつかえが、

 少しだけ下りていきます。


 涙で濡れた頬を袖で拭いながら、

 私は、背中越しに問いかけました。


「……今日、私に救われなかった人たちは、どう思うのでしょうね」


 彼らの祈りは、どこへ行くのでしょう。


 神のもとへ?

 精霊のもとへ?

 それとも――

 ただ宙を彷徨って、行き場を失ったまま、

 どこかに沈んでしまうのでしょうか。


「分かりません」


 レオンは率直に言いました。


「ですが、今日、あなたに救われた人も、

  救われなかった人も――

  おそらく、明日も生きようとするのでしょう」


 ゆっくりとした、静かな声。


「それを許したのは、あなたの奇跡だけではありません」


「……どういう、意味ですの」


「あなたが今日、そこに座っていたこと。

  話を聞いたこと。

  “自分の話を最後まで聞いてくれる誰かがいる”と知ったこと」


 レオンはそこで言葉を切り、

 少しだけ息を吸いました。


「それだけで、

  明日も列に並んでみようと思える人は、きっと少なくないはずです」


 ――列に並ぶ、という選択。


 生きることを諦めてしまえば、

 そもそも列に加わることすらしないはずです。


 順番が回ってこなかったあの人たちも。

 もしかしたら明日も、ここに来てくれるかもしれない。


 そのとき私は――

 今日と同じように、椅子に座っていられるでしょうか。


 少し、怖くなりました。


「明日も、列ができるのでしょうね」


 ぽつりと漏らすと、

 レオンは小さく笑ったような気配を見せました。


「ええ。きっと」


「それでも――」


 床に置いた自分の手を、ぎゅっと握りしめます。


「それでも、明日も椅子に座って待っていようと思いますわ」


 行き場のない祈りが、

 全部叶うわけではないと知りながら。


 それでも、行き場を失った祈りが、

 ほんの少しだけ腰掛けていられる椅子くらいなら――

 ここに置いておけるかもしれないから。


「その椅子が壊れそうになったら、言ってください」


 レオンが、ぽつりと言いました。


「今度こそ、ちゃんと、修理を手伝います」


 思わず、くすりと笑いが漏れます。


「今までのは、手伝ってくださっていなかったのです?」


「影で勝手に釘を打っていただけですから」


「それを世間では“手伝う”と申しますのよ」


 頬に残っていた涙が、

 ようやく完全に乾いていくのを感じました。


 ゆっくりと立ち上がると、

 足元が少しふらりと揺れます。


「ほら、やはりベッドまで辿り着けそうにないではありませんか」


「お支えします」


 レオンが自然な動作で手を差し出し、

 私はその腕を借りてベッドの縁に腰掛けました。


「明日も列ができるのなら――

  明日もきちんとした顔で座っていなければなりませんものね」


「はい。寝癖のないお顔で」


「そこですか」


 そんなやり取りができる程度には、

 もう大丈夫だと、自分で自分に言い聞かせます。


 行き場のない祈りは、きっと明日も、ここへ流れ込んでくる。


 全部を抱きしめることはできなくても。

 せめて、「ここまでなら」と言える場所まで――

 私は、椅子に座って手を伸ばし続けてみようと思いました。


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