見放された者たちと、“居場所”のない心
「……“見放された者”?」
市場を歩いていたとき、その言葉が耳に引っかかりました。
朝の市場はいつもどおり賑やかで、野菜の並ぶざるの上を、光がきらきらと踊っています。値切り交渉の声、焼き菓子の香り、魚をさばく音。そんな中で、小声の噂ほど、よく響くものですわね。
「また出たんだとよ、“印”のあるやつが」
「精霊に嫌われた証だって言うけどさ……」
「教会も、ああいうのはあんまり相手にしたがらねぇらしいぞ」
すれ違いざま、労働着姿の男たちが、押し殺した声で話していきます。
隣を歩くレオンが、ちらりと私を見ました。
「……お気になさいますか」
「ええ。
あの集会の日のイグナスさんだけの話ではない、ということですわね」
“見放された者”。
それはきっと、彼一人の呼び名ではない。
精霊に加護を与えられなかったと感じる人たち。
教会から「信心が足りない」と突き放された人たち。
どちらからも居場所をもらえず、うつむいて生きてきた心。
(あの人の叫びは、きっと、一人ぶんではありませんでしたもの)
胸の奥が、じわりと重くなりました。
◆ ◆ ◆
「今日は、お時間をいただいてありがとうございます」
数日後、私は屋敷の一室――もとは倉庫だった場所を片付けて作った小さな集会の場で、そう頭を下げました。
粗末な長椅子がいくつか。
窓から差し込む光は柔らかく、机の上には湯気の立つ茶と、焼きすぎた気配のあるクッキーが並んでいます。
集まってくれたのは、十数人ほど。
仕事を失ったばかりの青年。
腕に古い火傷の跡がある中年の女性。
教会の入口までは行くけれど、扉を開けずに引き返してしまうと言う老人。
そして――イグナスと同じように、「かつて精霊の加護を期待されながら、何も起きなかった」と噂されている数人。
皆、一様に視線を彷徨わせ、私と正面から目を合わせようとはしません。
「今日は、説教をしに来たわけではありませんの。
もしよろしければ、あなた方のお話を聞かせていただきたいのです」
そう告げると、しばしの沈黙。
最初に口を開いたのは、痩せた青年でした。
「……子どものとき、神父様に言われたんです。
“精霊に選ばれる器ですね、きっと立派な加護が降りますよ”って」
彼は、膝の上で握った拳を見つめたまま話を続けました。
「毎日、祈りました。
仕事のあとも、眠くても、教会に寄って。
供物も、ちょっと無理してでもいいものを持っていって。
でも、何も起きなかった」
指の節には、何度も床に額を打ちつけたせいでしょうか、固くなった跡が見えました。
「そのうち、言われることが変わりました。
“焦らず待ちなさい”から、“もっと真剣に祈りなさい”に。
最後は、“あなたの信心が足りないのかもしれません”でした」
かすかな笑いが、喉の奥で引っかかったまま消えていきます。
「奇跡をもらった誰かを見ると、素直に喜べないんです。
あぁ、俺には無理だったんだって、突きつけられるみたいで」
その隣で、中年の女性が、ぽつりと続けました。
「うちの子も、小さな頃に病を患って……
精霊に祈れば、きっと治るって、みんなで言い合って。
でも、熱は下がらなくて、最後は……」
女性は言葉を飲み込み、ぱっと涙を拭いました。
「町の人は、“神様の御許に行ったんだ”って言ってくれました。
神父様も、“試練だったのです”って。
頭ではわかるんですよ? でも……
祈れば届く、って言われていた分だけ、
届かなかった現実が、余計に痛いんです」
「見放された」と感じた心の痛みは、
決して一種類ではありません。
ひとりひとりの口からこぼれ落ちる言葉は、
全部、違う形をしていて、違う季節の寒さをまとっていました。
「俺も、悪い夢を見ます」
年配の男が、低い声で言いました。
「暗い場所で、遠くから笑い声が聞こえる。
あれは精霊なのか、何か別のものなのか……
俺にはわからんけど、妙に冷たい風が吹いてきて、目が覚めるんです」
「……同じだ」
別の人が顔を上げました。
「俺も、似たような夢を見る。
深い水の底にいるみたいで、
上から光が差しているのに、どうしても届かない」
(――深い、水の底)
一瞬、別の世界の匂いが、かすかに鼻をかすめました。
あの、白い空間とは違う、もっと暗く、重い気配。
(……Abyssのほうに、少しずつ綻びが広がっているのかしら)
そんな推測が頭をよぎりましたが、今はそれを口に出す場ではありません。
私は、深く息を吸い込みました。
「お話しくださって、ありがとうございます」
皆の視線が、不安げにこちらに向きます。
「きっと、楽しい話ではなかったでしょうに。
それでも、口に出してくださったことそのものが、
とても大事な一歩だと思いますわ」
私は、自分の膝の上で組んでいた手を見下ろしました。
「奇跡に選ばれなかった人生は、
決して“価値がない人生”ではありません。
――ただ、そう信じるための居場所が、この国には少なすぎるのかもしれませんわね」
青年が、かすかに目を見開きました。
「神様に選ばれなかった。
精霊にも選ばれなかった。
そう感じてしまった人が、行き場を失ってしまうのなら――
それはきっと、神や精霊だけの責任ではありません」
私は、ひとりひとりの顔を見るように視線を動かしました。
「私たち、“人間”の側が、
“選ばれなかった人の席”を用意する努力を、
怠ってきた結果でもあるのでしょう」
沈黙。
けれど、その沈黙は、少しだけ温度を持っていました。
「私が精霊に好かれているのは、
正直に言えば、かなり偏った偶然の産物ですわ。
あなた方が何をしたから、私が何をしたから、という単純な話ではありません」
焦げた匂いが、鼻先をくすぐります。
「あ、そうですわ。
……少し焦がしてしまったかもしれませんけれど、よろしければ」
私は、机の上のクッキーの皿をそっと皆のほうへ押し出しました。
形は少々いびつで、端のほうは見事に色が濃い。
“公爵令嬢の手作り”という言葉には、とても似つかわしくない見た目です。
子どもが一人、恐る恐る手を伸ばしました。
「リヴィア様が、焼いたの?」
「ええ、“焦がし公爵令嬢”の名に恥じぬ仕上がりですわ」
そう言うと、部屋の空気が少しだけ和らぎました。
くすくす、と小さな笑いが漏れる。
「……美味しい」
最初にかじった子どもが、目を丸くしてそう言いました。
それに釣られるように、他の人たちもおそるおそる手を伸ばします。
甘いものは、言葉よりも早く心に届くことがありますわね。
クッキーを一枚つまみながら、私は静かに続けました。
「私は、奇跡を配る神様にはなれません。
精霊に加護を約束させることもできません」
その代わりに――と、言葉を切ります。
「私が用意できるのは、“精霊に好かれる場所”ではなく、
“人としていてもいい場所”だけですわ」
目の前にいる人たちが、一斉に顔を上げました。
「信仰が強くても弱くてもいい。
加護があってもなくてもいい。
働ける人は働き、今は働けない人は少し休んで、
それでも“ここにいていい”と言える場所」
それは、孤児院とも、教会とも少し違うもの。
「……シェルター、のようなもの、でしょうか」
隅に座っていた家臣が、ぽつりと呟きました。
私は頷きます。
「ええ。
精霊に見放されたと感じる人も、
教会に居づらくなった人も、
“普通の信徒”として振る舞うのが苦しくなってしまった人も――
そこなら、肩身を狭くせずに済むような場所を」
それはきっと、
辺境にしか作れないものではないはずです。
けれど、今、最初のひとかけらを用意できるのが、
私の領地なら――それは、そう悪くない役目かもしれません。
「すぐに立派な建物が用意できるとは限りませんわ。
最初は、小さな部屋を一つ増やすところからかもしれません。
でも、そこに灯りをつけておきたいのです。
“見放された”と感じた心が、
少しだけ肩の力を抜ける、あかりを」
青年が、握った拳をほどきました。
「……本当に、そんな場所が?」
「約束はできません。
けれど、“作ろうとしている人間がいる”ことくらいなら、
ここではっきりとお伝えできますわ」
そう言うと、彼は少しだけ笑いました。
痛みの中に、わずかな期待を混ぜたような、かすかな笑み。
◆ ◆ ◆
集まりが終わり、人々がそれぞれの家に戻っていったあと。
片付けをしながら、私はレオンと向かい合いました。
「……やはり、“見放された者”は、一人や二人ではありませんでしたわね」
「ええ」
レオンは、残ったクッキーを一枚手にとり、じっとそれを見つめました。
「あなたが集会で話したことが、
彼らの孤独をさらに際立たせた可能性も、たしかにあります。
ですが――」
「わかっています」
私は、彼の言葉を引き継ぎました。
「だからこそ、“居場所”が必要なのですわね」
窓の外には、夕暮れの空。
青と橙が混ざり合う、その狭間の色。
「精霊に見放されたと感じる人たちは、
教会にも寄れず、
“普通であろうとする場所”にもいづらい」
私は、さきほど聞いた夢の話を思い出しました。
「ならば、信仰の強さや加護の有無に関係なく、
働けて、食べて、眠れる場所を――
この領地のどこかに、用意しなければ」
「危険も増えます」
レオンの声は、現実的でした。
「教会からは、“異端者を集めている”と見なされるでしょう。
王都にいる監査団にも、言い訳を求められます」
「ええ。
でも、選べる道が少ないなら、
その少ない道の中から、まだ“私でいられる道”を選びたいのです」
窓ガラスに映る自分の顔に、向き合うように呟きました。
「……奇跡に選ばれたかどうかではなく。
“ここにいていい”と言ってもらえたかどうかで、
人生の温度が変わってしまうのなら」
私は、指先で机の端をなぞりました。
「その一言くらいなら、
私にも、誰かに渡せるかもしれませんわね」
外には、もう一つ星が、また一つ星が、
ぽつりぽつりと灯っていきます。
“見放された”と感じる心を、
“ここにいてもいい”という感覚で、どこまで上書きできるのか。
それは、きっと一朝一夕では叶わないでしょう。
それでも。
「焦がしクッキーから始まる居場所づくり、ですわね」
自分でそう呟いて、思わず苦笑しました。
レオンが、わずかに肩を揺らします。
「……ならば、次は焦がしすぎないよう、私も見張っていますよ」
「それは心強いですわ」
小さな冗談と、小さな決意。
それらを胸に抱えながら、私は窓の外の星をもう一度見上げました。
この国のどこかで、「見放された」と感じている人の心に、
いつか、それぞれの灯りが灯りますように――と願いながら。




