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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第2章_奇跡の積み重ねと、こちらを向く世界の視線
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精霊のささやきと、“見放された者”の影

 広場に並べられた長椅子が、こんなにも多く見えたのは初めてかもしれません。


 朝の光は穏やかで、風もそう強くはありません。

 けれど、私の掌の中だけは、妙に汗ばんでいました。


(深呼吸、深呼吸……。ここで転んだら、それだけで今日の議題が全部吹き飛びますわね)


 慎重に裾を踏まないよう階段を上がり、

 簡素な壇の中央に立ちます。


 視線が、一斉にこちらへ向く。


 農具を脇に置いたまま集まってくれた農民たち。

 店を早めに閉めて来てくれた商人たち。

 孤児院の子どもたちが、列の端で大人に混ざって背伸びをしている。

 教会の神父やシスター、監査団の者たちも、少し離れた場所からこちらを見ていました。


 喉が、からりと鳴りました。


「……グラウベルク辺境領主、リヴィア・フォン・グラウベルクです」


 まずは、いつもの名乗り。


 声が、思ったよりもよく響きました。

 広場の石畳が、言葉を跳ね返してくれるみたいに。


「今日は、お忙しい中、こうしてお集まりくださってありがとうございます」


 一人ひとりの顔を、できる限り見るように、視線をゆっくりと動かしました。


「最初に、はっきり申し上げておきますわ。

 私は聖女ではありません。

 神様の代わりにも、教会の代わりにもなれません。

 ――ただの、一人の人間です」


 ざわめきが、ほんの少しだけ揺れました。

 驚きというより、「やっぱり」という安堵に近い空気。


「それでも私がこうしてここに立っているのは、

 この領地で暮らす皆さまに、

 “私が何者か”を、私の口からお伝えしておきたかったからです」


 私は、病村でのことを話しました。


 どれだけ薬草を集めても追いつかなかった熱病のこと。

 祈っても返事がなかった夜が、いくつもいくつもあったこと。

 そして、あの白い世界で出会った“精霊王”のこと。


「私は、神様の沈黙に腹を立てて、精霊に縋ったわけではありません。

 ただ――目の前で、今この瞬間にも息が途切れそうな人たちを前にして、

 “祈るだけ”以外の手段を、どうしても探さずにはいられなかったのです」


 当然のように、監査団の顔がピクリと動きました。


 それでも、私は続けます。


「精霊の力は、便利な道具ではありません。

 使えば代償を払うことになります。

 病村の夜、私は倒れましたし、全員を救えたわけでもありません」


 救えなかった人たちの席。

 王都で見た、見えない空席のことが、胸の奥で疼きます。


「それでも――

 “代償が怖いから”と言って、目の前で沈んでいく手を離してしまう自分には、なりたくありませんでした」


 子どもたちの列から、小さな声が上がりました。


「あのときの、お熱、なおしてくれたの、リヴィア様でしょ!」


 孤児院の子です。

 隣でシスターが慌てて口を押さえようとしますが、もう遅い。


 広場のあちこちから、「うちもだ」「うちも助けてもらった」と、素朴な声が漏れ始めました。


「ありがとうございます」


 私は、子どもたちのほうへ向き直りました。


「助けられたと言っていただけるのは嬉しいですわ。

 でも、覚えていてくださいね。

 私一人の力ではありません。

 薬を作ってくれた人、看病してくれた人、支えてくれた家族――

 その全部が重なって、ようやく“今日”がありますの」


 前列に座っていた老人が、しわだらけの手を膝の上で組みながら、ぽつりと呟きました。


「……わしは、あんたを信じるよ」


 その声が、意外なほど遠くまで届いて、

 広場の空気がふっと柔らかくなりました。


(……少しは、届いているのでしょうか)


 緊張でこわばっていた肩が、ほんの少しだけほぐれるのを感じた、その時でした。


◆ ◆ ◆


「ふざけるな……!」


 怒鳴り声が、広場の後ろのほうから飛んできました。


 空気が、ぴんと張り詰めます。


 人垣が割れ、一人の男が前に出てきました。

 三十代半ばほどでしょうか。

 痩せこけた頬、落ち窪んだ目。

 その目だけが、熱を通り越して、どこか焦げついたような色をしています。


「あんたばっかり……あんたばっかり、精霊に好かれて……!」


 彼はよろめきながら、私を指さしました。


「俺は、何年も祈った! 捧げた!

 食うもん削って供物を用意して、それでも、何ももらえなかった!」


 神父が慌てて近づきます。


「落ち着きなさい、イグナス。ここは――」


「うるせえ!」


 男――イグナスと呼ばれた人は、神父を振り払いました。


「お前らだって、俺を切り捨てただろうが!

 “信心が足りない”“神の御心だ”って、あっさり言いやがって!」


 その叫びに、

 広場のどこかで息を呑む音がしました。


(……そう、でしたのね)


 彼の姿が、一瞬で、いくつもの影と重なって見えました。


 祈っても報われなかった人。

 供物を捧げても見返りがなかった人。

 教会にすがっても、「仕方がない」と肩を叩かれて終わった人。


 「見放された」と感じてしまった人たち。


「俺にも、精霊の加護が来るはずだった!

 そう言ったのは、お前らのほうだろうが!

 “真面目に祈っていれば、きっと”って!

 なのに……なのに……!」


 声が掠れ、叫びは嗚咽に変わります。


 誰かが彼の腕を掴もうとしましたが、彼は乱暴に振り払いました。


「なのに――何も来なかった!

 病気の娘も救われなかった!

 仕事も失って、家も売って、それでも……!」


 ――そして、視線が、私へ。


「あんたには、降ったんだろうが!」


 その目には、羨望も、憧れも、信仰もありませんでした。

 あるのは、ただ、濃く固まった憎悪だけ。


 イグナスは、足元の石を拾い上げました。

 拳大の、ごつごつした石。


 それを握りしめて、腕を振りかぶる。


 誰かが悲鳴を上げました。

 レオンが動く気配がします。

 私は――なぜか、その場から動けませんでした。


(避ければいいのに)


 頭のどこかで冷静な声がするのに、足が地面に縫いつけられたみたいに重くて。


 ――その瞬間。


 世界から、音が消えました。


◆ ◆ ◆


 風が、止みました。


 さっきまで頬を撫でていた空気が、

 まるで透明な壁に変わったように、ぴたりと動きをやめます。


 鳥の声も、どこか遠くへ追いやられたみたいに、聞こえない。


 イグナスの腕から、石が離れました。

 投げられたはずのそれは――

 空中で、ありえない軌道を描きます。


 まるで、誰かが目に見えない手で掴み、

 そのまま横に払い除けたかのように。


 石は私から大きく逸れ、

 広場の隅の地面に、鈍い音を立てて落ちました。


 遅れて、ざわめきと悲鳴が広がります。


 イグナスは、その場にがくりと膝をつきました。


 さっきまで燃えていたような目から、

 一瞬で、“光”が抜けたように見えました。


 意識を失ったわけではありません。

 ただ、何かへの怒りも、憎しみも、

 そして――何かに縋るような必死さも、

 全部まとめて削ぎ落とされてしまったかのような、空っぽの目。


 そのとき、私の耳元で、

 誰にも聞こえないはずの声が囁きました。


『害意を向けるものは、ここでは許さない』


 柔らかくも冷たい、

 あの白い世界で耳にした声。


(……精霊王)


 名前を呼ぶ前に、声はもう、霧のように消えていました。


 私は、震えそうになる手をぎゅっと握りしめました。

 レオンが、いつでも私を庇える位置で身構えているのがわかります。


 けれど、今、守られるべきなのは――

 私だけではありません。


「皆さま、落ち着いてください」


 なるべく普段と変わらない声色で、私は言いました。


「私は大丈夫ですわ。少し驚いただけです」


 実際には、心臓がまだどくどくとうるさいくらいで、

 膝の裏も情けないほど震えていましたけれど。


 ゆっくりと、イグナスのほうへ歩み寄ります。


 彼は、呆然としたまま、私を見上げました。

 その目はもう、さっき石を握っていた男のものとは違います。


 怒りが消えたからといって、救われたわけではない。

 空っぽになっただけ。


(……これは、“守り”と呼んでいい一手なのでしょうか)


 胸の奥で、鋭い痛みがしました。


 私は、彼との距離を慎重に測りながら、膝を折りました。


「あなたの傷を、ここで全部癒やせるとは言えません」


 イグナスの目が、かすかに揺れます。


「精霊に“見放された”と、あなたは言いました。

 教会にも切り捨てられたと」


 そっと言葉を置くように、続けました。


「けれど――

 あなたを見放していない目も、

 ここに一つくらいは、残っておりますわ」


 それが私の目なのか、

 あるいはこの場にいる誰かなのか、

 私自身にも、まだわかりません。


 それでも、今ここで言えるのは、それだけでした。


 周囲から、「神罰だ」「リヴィア様が何かした」という囁きが聞こえてきます。


 誰も、何が起きたのかをきちんと理解していない。

 私でさえ、そのすべてをわかっているわけではないのですから、当然です。


(……だからこそ、怖いのですわ)


 守られることと、切り捨てられることが、

 同じ一手の裏表になってしまうのなら。


 精霊王の「お気に入り」であるということが、

 誰かを選び、誰かを斬り捨てる権利と結びついてしまうのなら。


 私たちは、その一手を選ぶ前に――

 本当にそれでいいのか、何度でも考え直さねばならない。


 そうでなければ、

 この力はあまりにも簡単に、

 「都合の悪いものを排除する正当化」にすり替わってしまう。


「……本日の集会は、ここまでといたします」


 私は立ち上がり、広場全体に向き直りました。


「皆さま、足を運んでくださってありがとうございました。

 今日ここでお話ししたことも、今起きたことも、

 すぐに答えが出るものではありませんわ」


 ざわめきが、少しだけ静まります。


「どうか、考えてみてください。

 神様のことも、精霊のことも。

 そして――私がここにいる意味のことも」


 逃げ出したい衝動を、喉の奥で噛み殺しながら、

 私は最後まで頭を下げました。


◆ ◆ ◆


 人々が少しずつ散っていき、

 広場には、夕方の影が伸び始めていました。


 レオンが、心配そうにこちらを見ています。


「……大丈夫ですか」


「ええ。

 今になって、お腹がすいてきたくらいには」


 自分でも驚くほど、軽口が出ました。


「朝は緊張しすぎて、パンを半分しか食べられませんでしたの。

 今ごろになって、残りの半分が恋しくなってきましたわ」


 レオンが、少しだけ表情を緩めます。


「あとで、何か甘いものでも用意させましょう」


「ええ、ぜひ。

 “精霊王の機嫌をなだめるお菓子”という名目で」


 冗談めかしてそう言ってから、

 私はふと、空を仰ぎました。


 さっきまで、石を弾き飛ばした“何か”がいた気配は、もうどこにもありません。

 いつも通りの、少しだけ高い空。


(こんな形で守られることを、私は望んだ覚えはありませんわよ)


 心の中で、そっと告げます。


(害意を向けるものを排除する前に――

 どうか、私が何を選び、何を選ばなかったのか。

 それを、ちゃんと見ていてくださいませね)


 精霊王が返事をすることはありません。

 それでも、どこかで誰かが、

 盤上を上から眺めている視線を感じながら。


 私はゆっくりと息を吐きました。


 広場の石畳には、

 さっき落ちた石が、そのまま転がっています。


 それを見下ろしながら、

 私は思いました。


(“見放された者”と、“過保護に守られた者”――

 どちらも、この国の影にしてしまうようなやり方だけは、

 絶対に選びたくありませんわ)


 そう心に刻みつけて、

 私は、重くなりつつある足を、もう一度前へと踏み出しました。


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