精霊のささやきと、“見放された者”の影
広場に並べられた長椅子が、こんなにも多く見えたのは初めてかもしれません。
朝の光は穏やかで、風もそう強くはありません。
けれど、私の掌の中だけは、妙に汗ばんでいました。
(深呼吸、深呼吸……。ここで転んだら、それだけで今日の議題が全部吹き飛びますわね)
慎重に裾を踏まないよう階段を上がり、
簡素な壇の中央に立ちます。
視線が、一斉にこちらへ向く。
農具を脇に置いたまま集まってくれた農民たち。
店を早めに閉めて来てくれた商人たち。
孤児院の子どもたちが、列の端で大人に混ざって背伸びをしている。
教会の神父やシスター、監査団の者たちも、少し離れた場所からこちらを見ていました。
喉が、からりと鳴りました。
「……グラウベルク辺境領主、リヴィア・フォン・グラウベルクです」
まずは、いつもの名乗り。
声が、思ったよりもよく響きました。
広場の石畳が、言葉を跳ね返してくれるみたいに。
「今日は、お忙しい中、こうしてお集まりくださってありがとうございます」
一人ひとりの顔を、できる限り見るように、視線をゆっくりと動かしました。
「最初に、はっきり申し上げておきますわ。
私は聖女ではありません。
神様の代わりにも、教会の代わりにもなれません。
――ただの、一人の人間です」
ざわめきが、ほんの少しだけ揺れました。
驚きというより、「やっぱり」という安堵に近い空気。
「それでも私がこうしてここに立っているのは、
この領地で暮らす皆さまに、
“私が何者か”を、私の口からお伝えしておきたかったからです」
私は、病村でのことを話しました。
どれだけ薬草を集めても追いつかなかった熱病のこと。
祈っても返事がなかった夜が、いくつもいくつもあったこと。
そして、あの白い世界で出会った“精霊王”のこと。
「私は、神様の沈黙に腹を立てて、精霊に縋ったわけではありません。
ただ――目の前で、今この瞬間にも息が途切れそうな人たちを前にして、
“祈るだけ”以外の手段を、どうしても探さずにはいられなかったのです」
当然のように、監査団の顔がピクリと動きました。
それでも、私は続けます。
「精霊の力は、便利な道具ではありません。
使えば代償を払うことになります。
病村の夜、私は倒れましたし、全員を救えたわけでもありません」
救えなかった人たちの席。
王都で見た、見えない空席のことが、胸の奥で疼きます。
「それでも――
“代償が怖いから”と言って、目の前で沈んでいく手を離してしまう自分には、なりたくありませんでした」
子どもたちの列から、小さな声が上がりました。
「あのときの、お熱、なおしてくれたの、リヴィア様でしょ!」
孤児院の子です。
隣でシスターが慌てて口を押さえようとしますが、もう遅い。
広場のあちこちから、「うちもだ」「うちも助けてもらった」と、素朴な声が漏れ始めました。
「ありがとうございます」
私は、子どもたちのほうへ向き直りました。
「助けられたと言っていただけるのは嬉しいですわ。
でも、覚えていてくださいね。
私一人の力ではありません。
薬を作ってくれた人、看病してくれた人、支えてくれた家族――
その全部が重なって、ようやく“今日”がありますの」
前列に座っていた老人が、しわだらけの手を膝の上で組みながら、ぽつりと呟きました。
「……わしは、あんたを信じるよ」
その声が、意外なほど遠くまで届いて、
広場の空気がふっと柔らかくなりました。
(……少しは、届いているのでしょうか)
緊張でこわばっていた肩が、ほんの少しだけほぐれるのを感じた、その時でした。
◆ ◆ ◆
「ふざけるな……!」
怒鳴り声が、広場の後ろのほうから飛んできました。
空気が、ぴんと張り詰めます。
人垣が割れ、一人の男が前に出てきました。
三十代半ばほどでしょうか。
痩せこけた頬、落ち窪んだ目。
その目だけが、熱を通り越して、どこか焦げついたような色をしています。
「あんたばっかり……あんたばっかり、精霊に好かれて……!」
彼はよろめきながら、私を指さしました。
「俺は、何年も祈った! 捧げた!
食うもん削って供物を用意して、それでも、何ももらえなかった!」
神父が慌てて近づきます。
「落ち着きなさい、イグナス。ここは――」
「うるせえ!」
男――イグナスと呼ばれた人は、神父を振り払いました。
「お前らだって、俺を切り捨てただろうが!
“信心が足りない”“神の御心だ”って、あっさり言いやがって!」
その叫びに、
広場のどこかで息を呑む音がしました。
(……そう、でしたのね)
彼の姿が、一瞬で、いくつもの影と重なって見えました。
祈っても報われなかった人。
供物を捧げても見返りがなかった人。
教会にすがっても、「仕方がない」と肩を叩かれて終わった人。
「見放された」と感じてしまった人たち。
「俺にも、精霊の加護が来るはずだった!
そう言ったのは、お前らのほうだろうが!
“真面目に祈っていれば、きっと”って!
なのに……なのに……!」
声が掠れ、叫びは嗚咽に変わります。
誰かが彼の腕を掴もうとしましたが、彼は乱暴に振り払いました。
「なのに――何も来なかった!
病気の娘も救われなかった!
仕事も失って、家も売って、それでも……!」
――そして、視線が、私へ。
「あんたには、降ったんだろうが!」
その目には、羨望も、憧れも、信仰もありませんでした。
あるのは、ただ、濃く固まった憎悪だけ。
イグナスは、足元の石を拾い上げました。
拳大の、ごつごつした石。
それを握りしめて、腕を振りかぶる。
誰かが悲鳴を上げました。
レオンが動く気配がします。
私は――なぜか、その場から動けませんでした。
(避ければいいのに)
頭のどこかで冷静な声がするのに、足が地面に縫いつけられたみたいに重くて。
――その瞬間。
世界から、音が消えました。
◆ ◆ ◆
風が、止みました。
さっきまで頬を撫でていた空気が、
まるで透明な壁に変わったように、ぴたりと動きをやめます。
鳥の声も、どこか遠くへ追いやられたみたいに、聞こえない。
イグナスの腕から、石が離れました。
投げられたはずのそれは――
空中で、ありえない軌道を描きます。
まるで、誰かが目に見えない手で掴み、
そのまま横に払い除けたかのように。
石は私から大きく逸れ、
広場の隅の地面に、鈍い音を立てて落ちました。
遅れて、ざわめきと悲鳴が広がります。
イグナスは、その場にがくりと膝をつきました。
さっきまで燃えていたような目から、
一瞬で、“光”が抜けたように見えました。
意識を失ったわけではありません。
ただ、何かへの怒りも、憎しみも、
そして――何かに縋るような必死さも、
全部まとめて削ぎ落とされてしまったかのような、空っぽの目。
そのとき、私の耳元で、
誰にも聞こえないはずの声が囁きました。
『害意を向けるものは、ここでは許さない』
柔らかくも冷たい、
あの白い世界で耳にした声。
(……精霊王)
名前を呼ぶ前に、声はもう、霧のように消えていました。
私は、震えそうになる手をぎゅっと握りしめました。
レオンが、いつでも私を庇える位置で身構えているのがわかります。
けれど、今、守られるべきなのは――
私だけではありません。
「皆さま、落ち着いてください」
なるべく普段と変わらない声色で、私は言いました。
「私は大丈夫ですわ。少し驚いただけです」
実際には、心臓がまだどくどくとうるさいくらいで、
膝の裏も情けないほど震えていましたけれど。
ゆっくりと、イグナスのほうへ歩み寄ります。
彼は、呆然としたまま、私を見上げました。
その目はもう、さっき石を握っていた男のものとは違います。
怒りが消えたからといって、救われたわけではない。
空っぽになっただけ。
(……これは、“守り”と呼んでいい一手なのでしょうか)
胸の奥で、鋭い痛みがしました。
私は、彼との距離を慎重に測りながら、膝を折りました。
「あなたの傷を、ここで全部癒やせるとは言えません」
イグナスの目が、かすかに揺れます。
「精霊に“見放された”と、あなたは言いました。
教会にも切り捨てられたと」
そっと言葉を置くように、続けました。
「けれど――
あなたを見放していない目も、
ここに一つくらいは、残っておりますわ」
それが私の目なのか、
あるいはこの場にいる誰かなのか、
私自身にも、まだわかりません。
それでも、今ここで言えるのは、それだけでした。
周囲から、「神罰だ」「リヴィア様が何かした」という囁きが聞こえてきます。
誰も、何が起きたのかをきちんと理解していない。
私でさえ、そのすべてをわかっているわけではないのですから、当然です。
(……だからこそ、怖いのですわ)
守られることと、切り捨てられることが、
同じ一手の裏表になってしまうのなら。
精霊王の「お気に入り」であるということが、
誰かを選び、誰かを斬り捨てる権利と結びついてしまうのなら。
私たちは、その一手を選ぶ前に――
本当にそれでいいのか、何度でも考え直さねばならない。
そうでなければ、
この力はあまりにも簡単に、
「都合の悪いものを排除する正当化」にすり替わってしまう。
「……本日の集会は、ここまでといたします」
私は立ち上がり、広場全体に向き直りました。
「皆さま、足を運んでくださってありがとうございました。
今日ここでお話ししたことも、今起きたことも、
すぐに答えが出るものではありませんわ」
ざわめきが、少しだけ静まります。
「どうか、考えてみてください。
神様のことも、精霊のことも。
そして――私がここにいる意味のことも」
逃げ出したい衝動を、喉の奥で噛み殺しながら、
私は最後まで頭を下げました。
◆ ◆ ◆
人々が少しずつ散っていき、
広場には、夕方の影が伸び始めていました。
レオンが、心配そうにこちらを見ています。
「……大丈夫ですか」
「ええ。
今になって、お腹がすいてきたくらいには」
自分でも驚くほど、軽口が出ました。
「朝は緊張しすぎて、パンを半分しか食べられませんでしたの。
今ごろになって、残りの半分が恋しくなってきましたわ」
レオンが、少しだけ表情を緩めます。
「あとで、何か甘いものでも用意させましょう」
「ええ、ぜひ。
“精霊王の機嫌をなだめるお菓子”という名目で」
冗談めかしてそう言ってから、
私はふと、空を仰ぎました。
さっきまで、石を弾き飛ばした“何か”がいた気配は、もうどこにもありません。
いつも通りの、少しだけ高い空。
(こんな形で守られることを、私は望んだ覚えはありませんわよ)
心の中で、そっと告げます。
(害意を向けるものを排除する前に――
どうか、私が何を選び、何を選ばなかったのか。
それを、ちゃんと見ていてくださいませね)
精霊王が返事をすることはありません。
それでも、どこかで誰かが、
盤上を上から眺めている視線を感じながら。
私はゆっくりと息を吐きました。
広場の石畳には、
さっき落ちた石が、そのまま転がっています。
それを見下ろしながら、
私は思いました。
(“見放された者”と、“過保護に守られた者”――
どちらも、この国の影にしてしまうようなやり方だけは、
絶対に選びたくありませんわ)
そう心に刻みつけて、
私は、重くなりつつある足を、もう一度前へと踏み出しました。




