帰還と、“監査”の聖職者たち
帰り道の空気というのは、不思議なものですわね。
行きに通ったときと、風景はほとんど変わっていないはずなのに――
同じ川のきらめきも、同じ畑の緑も、
今はどこか、少しだけ色を落として見えました。
馬車の窓を開けると、辺境の土と草の匂いが一気に流れ込んできます。
「ああ……」
思わず、息がほどけました。
ここは、私が「帰る」と決めた場所。
王都の石畳とは違う、少し荒っぽい風。
それが、皮膚の下まで染み込んでくるようで――
ようやく体の力が抜けていくのを感じます。
畑の脇では、子どもたちが棒を振り回して遊んでいました。
以前なら、こちらに気づくなり全力で手を振ってくれた子たちです。
けれど今日は。
私の乗った馬車に気づいた一人が、
慌てて仲間の腕を引っ張り、小声で何か囁き合いました。
それから、少し間を置いて――
そろそろと、胸の前で手を合わせるようにして、会釈をしてくる。
笑顔がないわけではありません。
ただ、その笑みの奥に、薄い膜のような「ためらい」が貼りついていました。
(……ただいま戻りましたわ。と、まだ言ってもいないうちから)
胸の中で、そっと呟きます。
◆ ◆ ◆
城門が見えてきました。
「グラウベルク公爵令嬢リヴィア様、ご帰還!」
兵士の声が響き、門がゆっくりと開いていきます。
その向こうには、家臣たちと、代表として集まってくれた領民たちの姿。
「お帰りなさいませ、リヴィア様!」
揃った声は、たしかに温かい。
けれど、その表情の何人かに――
(“様子をうかがっている”目、ですわね)
そんな色が混じっているのを、見逃すほど鈍くはありません。
馬車から降りるとき、一瞬足元がふらつきました。
レオンの手が、さりげなく支えてくれます。
「ありがとうございます。少し、世界が縦から横に傾いただけですわ」
「それは、十分ふらついている状態と言うのですよ」
小声で返されて、思わず苦笑しました。
出迎えの列の前に立ち、私は深く一礼します。
「ただいま戻りましたわ。
留守を守ってくださって、ありがとうございます」
その言葉に、
家臣たちの表情が、ようやくほんの少し緩んだ気がしました。
けれど、彼らの視線は何度も、
城の向こう――教会の尖塔のほうへと揺れます。
(やはり、ですわね)
私が不在の間に、何かが入り込んできた。
それは、風の匂いだけでなく、
皆の視線の揺れ方からも伝わってきました。
◆ ◆ ◆
「お痩せになられたのでは?」
邸内に入るなり、古参のメイド頭が目を細めました。
「まぁ、王都の食事が合わなかったわけではありませんのよ。ただ――」
慌てて弁解しかけて、自分でおかしくなります。
「少し、言葉を使いすぎただけですわ」
討議だの密議だのと、
胃に悪い場面が多かったのは事実ですもの。
「ただいま戻ったばかりで恐縮ですが、
王都より派遣されている“教会監査団”が、
リヴィア様との面会を希望しております」
執事が、申し訳なさそうに告げました。
……やはり、ゆっくりベッドに倒れ込むという選択肢は、今日も許されないようですわね。
「わかりました。
さすがに今ここで“疲れましたので明日で”と駄々をこねるわけにも参りませんし」
軽口を挟んでから、姿勢を正しました。
「応接室にお通しして?」
「すでにお待ちいただいております」
「では、領主としてきちんと“お出迎え”して差し上げませんと、ですわね」
本当は、一度自室に駆け込んで、
ベッドに顔から倒れ込みたい衝動にかられましたけれど――
「今日は、お行儀よく椅子に座って疲れますわ」
心の中でだけそうぼやいて、
私は応接室へ向かいました。
◆ ◆ ◆
応接室の扉を開けると、
きちんと整列した数名の聖職者たちが視界に飛び込んできました。
白と灰色の法衣。
胸元には、教会の紋章。
手には、分厚い書類の束。
代表らしき中年の神父が、一歩前に出て頭を下げました。
「このたび王都教会本部より派遣されました、
監査団代表、カルディナと申します」
声は柔らかく、ことばも丁寧。
けれど、その瞳は――
(私のことを、書物の余白に書き込む注釈のように見ている目、ですわね)
じっと対象を観察し、「正しい位置」に分類しようとする視線。
笑ってはいます。
けれど、その笑みは目の奥まで届いていませんでした。
「遠路はるばる、ようこそ辺境へ。
グラウベルク公爵令嬢、リヴィア・グラウベルクです。
まずは、私がいない間にこの領地を見てくださったこと、感謝申し上げますわ」
こちらも礼儀正しく、微笑みを返します。
歓迎の笑顔と、監査の笑顔は、よく似ています。
ただ一つ違うのは――
前者は「ここにいてほしい人」に向けられ、
後者は「ここにいて大丈夫か確かめたい人」に向けられる、ということ。
「本日は、辺境における信仰の在り方について、
いくつか確認させていただければと」
カルディナ神父は、淡々と告げました。
「確認、ですのね」
「ええ。
礼拝の回数、説教の内容、寄付金の使途、
孤児院や診療所への支援、祭礼における“精霊”への言及――
いずれも、ここでのやり方が“異端の芽”を育てていないかどうか、
慎重に見極める必要がございます」
異端の芽。
なんて便利な言葉なのでしょう。
水や肥料が足りなくても枯れますし、
光が強すぎても焼けますのに。
「病村での“奇跡”についても、
改めて詳しい経緯を伺いたく存じます」
あぁ、やはりそこに戻りますのね。
「もちろん、必要な範囲でお話しいたしますわ」
私は椅子に腰掛け、手を膝の上に重ねました。
◆ ◆ ◆
質問は、予想していた通りの部分と、
少しだけ角度を変えたものとが、混ざっていました。
「病村での詠唱は、どのような性質のものだったのか」
「“精霊王”なる存在との関係を、どう理解しているのか」
「礼拝において、
神と精霊のどちらにより重きを置いているとお考えか」
「孤児院や診療所への支援が、
“信仰の対価”と受け取られる可能性について、どう認識しているか」
一つひとつの問いに対し、
私は可能な限り、事実に沿って答えていきました。
病村でのことは、
自分の魔力では足りないと感じたこと。
だからこそ、「どうか力を貸してください」と、
精霊王に向けて祈ったこと。
礼拝の場では、
神と精霊を「どちらが上か」で語るのではなく、
「人が生きていくうえで寄り添ってくれる存在」として説明していること。
孤児院や診療所への支援は、
「信仰心の多寡に関わらず、
ここに生きる人全員に必要なもの」だと位置づけていること。
「もちろん、“施しを与える側”と“受け取る側”という構図が強くなりすぎれば、
そこに歪みが生まれる危険は承知しておりますわ」
そう付け加えると、カルディナ神父の目が、わずかに細まりました。
「では、
あなたはご自身の行いが“信徒の心を惑わせる”可能性を、
認識しておられる、と」
「ええ。
私の存在が、“教会だけを見ていればよかった人々”の視線を、
少し横に向けてしまったことは、否定できませんもの」
だからこそ、
あの公開討議で、
私はあえて民衆に向かって「頼りきりにならないで」と言ったのです。
「ただ――」
私は静かに言葉を継ぎました。
「その“横に向いた視線”が、
自分自身の手や、隣にいる誰かの手にも向くのだとしたら。
それは、必ずしも悪いことではないと、私は思っています」
カルディナ神父は、しばし黙り込みました。
隣で書類をめくる補佐役の手だけが、乾いた音を立てています。
「……なるほど」
やがて、代表神父は静かに息を吐きました。
「あなたが本当に“危険な存在”なのかどうか――
私たちはそれを、感情ではなく、記録と事実で判断せねばなりません」
“危険な存在”。
その言葉を、
こうも穏やかな口調で告げられると――
かえって背筋が冷たくなりますわね。
「どうぞ、必要なだけ記録なさってくださいませ。
ただ、その前に、
この土地で生きる人たちの顔も、よくご覧になってくださると嬉しいのですけれど」
私がそう返すと、
カルディナ神父は、意味深げな微笑を浮かべました。
「もちろん、そのつもりです」
彼らが応接室を出ていくとき、
廊下に響く足音が、どこか「判決を言い渡した後」のように聞こえたのは――
気のせいであってほしいところですわね。
◆ ◆ ◆
「……大変、ですわね」
監査団が教会へ向かったあと、
辺境教会の神父――
あの震える手で手紙を書いてきた男が、
私の前に立っていました。
いつもより、ずっと疲れた顔で。
「まずは、お戻りいただけて何よりです、リヴィア様」
「戻るのが少し遅くなってしまって、ごめんなさい」
私が頭を下げると、
神父は慌てて手を振りました。
「いえ、あなたが王都で、
どれほど大きな波に向き合っておられたかは、
噂話からでも伝わっております」
「噂話は、大抵脚色されますわよ」
「……ですが、病村の方々が、
涙ながらにあなたのことを話していたのも事実です」
神父は、少し目を伏せました。
「王都からの視線が強くなり、
ここでのやり方を守るのが難しくなってきました」
その一言に、
どれほどの重さが詰まっているか――
私にはよく分かります。
「礼拝で“精霊”に触れるたび、
上から注意が入るのではないかと、背中が強張ります」
「リヴィア様の施策も、
“信仰を惑わせる”と見られる危険は、たしかにあります」
神父の声には、責める響きはありませんでした。
あるのはただ、板挟みになっている人間の苦さだけ。
「あなたを責めるつもりは、毛頭ありませんわ」
私ははっきりと言いました。
「むしろ、私がいない間に、
ここを守ろうとしてくださって、ありがとうございます」
神父の肩から、ほんの少しだけ力が抜けた気がしました。
「……それでも、信徒たちは揺れております」
彼は続けます。
「『リヴィア様に頼ると、神父様が困るのなら……』と、
あなたに相談するのをためらう者」
「『でも、あのとき助けてくださったのは事実だし』と、
教会の警告を聞いても迷いを捨てきれない者」
「誰か一人を“悪者”にしてしまえば、
楽なのかもしれません。
ですが――」
「そうしないで踏みとどまっている分だけ、
余計につらくなっているのだと、感じます」
誰か一人を“悪者”にすれば、
世界は簡単になります。
教会がすべて間違っている、と決めつけることも。
逆に、「全部リヴィアのせいだ」と言ってしまうことも。
でも、この土地の人たちは、
今のところまだ、その単純さに飛びつかずに揺れている。
(だからこそ――守らなければなりませんわね)
その揺れを、“都合のいい物語”で塗りつぶさせないために。
「しばらくのあいだ、こちらに腰を据えて状況を見ますわ」
私は神父に向かって言いました。
「教会の監査団とは、できる限り穏やかに折り合いをつけます。
ですが、折れてはいけないところも、きっとあるはずですわ」
神父は、驚いたように目を瞬かせました。
「……あなたまで板挟みになってしまいます」
「もともと、板の上を渡るのは得意ですの。
これでも、王都と辺境の間を行ったり来たりしてきましたから」
冗談めかして返すと、
彼はようやく、かすかな笑みを見せました。
◆ ◆ ◆
教会の前に立つと、
夕暮れの空が、朱と紫のあいだで揺れていました。
尖塔の影が、町並みの上に長く伸びています。
その足元では、子どもたちが遠巻きにこちらを見ていました。
「リヴィア様に頼ると、神父様が困るのなら……」
「でも、この前の祭りで、また一緒に踊りたいねって……」
そんな、小さな声の断片が、
風に乗って耳に届きます。
私は空を見上げ、ゆっくりと拳を握りました。
「ここは、私が“守ると約束した場所”でしたわね」
王都の塔も、たしかに気になる。
教会本部の動きも、見過ごせない。
それでも――
この夕暮れの色と、
ここで暮らす人たちの揺れる声を、
私は何よりも優先したいと思ってしまうのです。
「さあ。監査の聖職者たちに、
“辺境の公爵令嬢”がどんな顔で立っているのか、
きちんと見ていただきませんと」
そう呟いて、私は教会の扉に手をかけました。
中に待っているのは、
敵か、味方か。
そのどちらでもない、“責任を背負った大人たち”か。
どれであっても構いません。
私が選んだのは――
見て見ぬふりをしないほうの異端として、
ここに立ち続けることなのですから。




