荷造りの夜と、父娘の本音
荷造りというものは、もっとこう……感傷的な時間になるのだと思っていた。
実際に始めてみると。
「……戦場にティアラは必要ないでしょう」
クローゼットいっぱいに並んだドレスと宝飾品を前に、まず口をついて出たのがそれだった。
ずらりと並んだ箱。
「王都用」「辺境持ち込み」「処分・譲渡」の三つに分けて、侍女たちと仕分けをしているのだけれど――
「これは……?」
侍女が両手で大事そうに抱えているのは、きらきらと光る宝石箱。
「殿下との初めての茶会用にお誂えしたネックレスでございますわ。胸元の飾りが――」
「ああ……」
覚えている。心のどこかに封じ込めていた記憶が、箱とともに引き出される。
淡い青の宝石が連なった、少し幼さの残るデザイン。
あの頃の私は、本気で「これが幸せへの切符」だと思っていたのだ。
「実は、ずっと憧れていたんですけれど……」
箱を開けて、指先でそっと撫でる。
宝石は、何も知らない顔で、ただ光を返してくる。
「さすがに畑仕事には似合いませんわよね」
「ね、畑仕事……」
侍女が苦笑いを堪えきれずに肩を震わせる。
「いえ、辺境にもきっとお茶会の一つぐらいは……!」
「盗賊と飢えた民がいる土地で、真っ先に開くのがお茶会だったら、私の正気を疑われますわ」
私は宝石箱をそっと閉じて、「王都用」の箱に入れた。
きれいなドレスも、ティアラも、ネックレスも。
またいつか、必要になる日が来るのかもしれない。
――来ないかもしれない。
それでも今は。
「きれいなドレスは、またいつか。
今は、泥だらけでも役に立つ靴を選びたいのです」
そう口に出してみると、不思議と胸のあたりがすっきりした。
「こちらの本はどうなさいますか?」
別の侍女が、机の上に積まれた本の山を指さした。
歴史書、詩集、礼法、舞踏、神学――王都での教育に必要だったものたち。
「うーん……」
私はその中から、数冊を引き抜いた。
「これは置いていきます。これは……持っていきますわ」
手元に残したのは、農業の入門書、簡単な医療と薬草の本、領地経営の実務書。
そして、子ども用の文字練習帳が何冊か。
「リヴィア様、それは……子ども向けの――」
「ええ。辺境で学校を作るなら、こういうものが役に立ちますもの」
私はにこりと笑う。
「詩集は、さすがに後回しにしましょう。
まずは、彼らが自分の名前を書けるようになるところからですわ」
ペンとインク、ノートも何冊か箱に詰める。
侍女たちが、呆れたような、感心したような顔でこちらを見ているのが分かる。
「……本当に、この状況でも淡々と準備を進めておられるのね」
ドアの隙間から覗いていた下働きの少年が、小さな声で呟くのが聞こえた。
「婚約破棄されて、辺境行きを言い渡されて……普通の令嬢なら、泣いて部屋に籠もってそうなのに」
「聞こえてますわよ」
軽く釘を刺すと、少年がひいっと慌てて扉の陰に隠れた。
思わず笑ってしまう。
「泣くのは、みんなと別れたあとで充分ですもの。
今は、手を動かす方が楽ですわ」
箱の底を整えようとして、ふと、奥の方に小さな包みが挟まっているのを見つけた。
「これは……?」
取り出してみると、中からころりと、小さな石と押し花の栞が出てきた。
つるりとした白い石には、子どもの字で小さく「たからもの」と書かれている。
押し花の栞には、不格好な花柄の刺繍。
「……懐かしい」
小さく笑う。
あれはたしか、幼い頃に庭で拾った石を、「世界で一番きれい」と言い張って父に見せに行ったときのものだ。
押し花は、初めて自分で作ったものを、侍女が栞に仕立ててくれた。
どちらも、すっかり忘れていた。
けれど、今こうして手に取ると、胸の奥がじんと温かくなる。
「これは……」
ほんの少し迷ったあと、私は「辺境持ち込み」の箱にそっと忍ばせた。
宝石は置いていく。
けれど、子どもの頃の「たからもの」くらいは、一緒に連れて行ってもいいだろう。
そんなことをしていると――
コン、コン、と控えめなノックの音がした。
「リヴィア。入ってもよいか」
「どうぞ」
扉が開き、父が入ってきた。
公爵としての正装ではなく、少しだけラフな、家の中用の服装。
それでも背筋はまっすぐで、顔つきはいつもと変わらぬように見える。
「荷造りは順調かね」
「ええ。ドレスは半分以上“王都用”に回しましたわ。
辺境で盗賊に狙われたくありませんから」
「……そうか」
父は室内をぐるりと見回す。
クローゼットから引き出されたドレス、積まれた本、開け放たれた宝石箱。
「不自由はないか。足りないものがあれば……」
「必要なものは、だいたい揃っていますわ」
私は、机の端に積んでおいたメモを差し出した。
「それは?」
「現地で買い足したいもののリストです。
鍬やスコップ、鍋、薬草を干す棚……そういったものは、土地に合わせて選ぶべきでしょうから」
父が、目を瞬かせる。
「お前は……本当に行くつもりなのだな」
「ええ」
私は笑った。
「何を今さら。勅命ですもの」
「勅命であっても、断る者はいる」
父は低く言い、窓の外に視線を逸らした。
「本来なら、父親である私が王と教会に楯突くべきだったのだがな」
ぎし、と床板が鳴るほど強く拳を握りしめる音が聞こえる。
「『ヴァルシュタイン家の娘を辺境の生贄に使うな』と、卓を叩いてでも言うべきだった。
だが、私は……」
「お父様」
私はそっと声をかけた。
「お父様が生きていてくださることが、何より大事ですわ」
父が、驚いたようにこちらを見る。
「お父様がここで王と教会を敵に回して、家ごと潰されてしまったら。
私が辺境で何をしようと、その後ろ盾はなくなってしまいますもの」
ゆっくりと言葉を選びながら続ける。
「グラウベルクを再建するには、物資も、人も、時間も、情報も必要です。
王都にヴァルシュタイン家が、そしてお父様がいてくださることは――
何より心強い支えですわ」
「……リヴィア」
「お父様が頭を下げる必要はありません。
謝るべきことも、責めるべきことも、何も」
そう言いながら、私は箱の中身を指さした。
「見てくださいませ。
私が今選んでいるのは、恨みではなく、前に進むための荷物です」
農業の本、薬草の入門書、ノート、ペン。
子どもたちのための練習帳、小さな石と押し花。
「婚約破棄も、辺境行きも、私の人生から消えることはないでしょう。
でも、それをずっと握りしめて立ち止まっていても――
きっと、誰も救われませんわ」
父は黙って私を見つめていた。
その視線の奥に、うずくまるような罪悪感と、どうしようもない誇りが混ざっているのが分かる。
「お前は……」
しばらくして、父が口を開いた。
「本当に、強くなったな」
「強いかどうかは分かりませんわ。
ただ、諦めが悪いだけです」
そう言うと、父の口元がわずかに緩んだ。
「……子どもの頃のお前を思い出す」
「子どもの頃、ですか?」
「ああ」
父は部屋の隅に視線を向ける。
そこには、小さな古い椅子と、低い本棚が置かれている。
幼い頃、そこが私の“居場所”だった。
「庭の木に登って、見事に落ちたことがあっただろう」
「……ありましたわね」
記憶の中で、鮮やかに泥の感触が蘇る。
「腕を擦りむき、膝を泥だらけにして、ここへ駆け込んできた。
泣きながら、『まだ上まで登れていないのに』と言った」
「痛いより、悔しかったんですもの」
「普通は『もう木には登らない』と言うところだ」
父は、ふっと笑う。
「だがお前は、包帯を巻かれながら、『次はもっと高く登ってみせますわ』と言った」
「そんなこと……言いましたかしら」
「言ったとも。よく覚えている」
父の視線が、今度はクローゼットの方へ移る。
「初めてドレスを着たときも、そうだったな。
鏡の前でくるくる回って、裾を踏みかけて……侍女たちを慌てさせた」
「……最近も似たようなことがあったような気がしますが、気のせいですわね」
番外編の花壇ダイブは、さすがに本人の記憶に新しい。
父に知られていないことを祈りたい。
「何をしても、前へ前へと進もうとしていた。
痛い思いをしても、恥をかいても、それでも立ち上がる」
父は一歩近づき、私の頭にそっと手を置いた。
「そんなお前を見て、私はいつも――
『ああ、この子はきっと、どこでだって生きていけるのだろうな』と思っていた」
「それは……少し寂しいお言葉ですわね?」
「父親とは、そういうものだ」
手のひらが、優しく髪を撫でる。
「手放したくないと思いながらも、
いつか自分の手の届かない場所へ行くのだと、どこかで覚悟している」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
私は、そっと父の腕に手を添えた。
「お父様」
「なんだ」
「お父様の娘であることは、私にとって一度も不幸ではありませんでしたわ」
自分でも驚くほど、すらりとその言葉が出てきた。
「王太子妃になれなかったことも、辺境へ行くことも。
それは“私の人生”の話であって――
“お父様のせい”ではありません」
父の指が、わずかに震える。
「私は、ヴァルシュタイン公爵の娘として育てられて、
自分の頭で考えるように教わって、
弱い者を守るように叩き込まれて――」
言葉を区切りながら、ゆっくりと息を吸う。
「正直を言えば、大変な人生ですわ。
でも、そのこと自体を、私は一度も不幸だと思ったことはありません」
視界が、少しだけ滲む。
けれど、涙は落とさない。
「お父様の娘でよかった、と――
今、心からそう思っています」
沈黙。
長い、長い沈黙のあとで。
「……リヴィア」
父は、私をそっと抱き寄せた。
驚くほど、慎重な抱擁だった。
壊れ物を扱うように、けれど決して離したくないものを抱くように。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
耳元で、小さな声がした。
私は、父の服をぎゅっと掴んだ。
泣きそうになるのを、必死にこらえながら。
「こちらこそ。
お父様の娘にしてくださって、ありがとうございました」
しばらくの間、言葉はそれ以上いらなかった。
◇ ◇ ◇
父が部屋を出て行ったあと、夜は一層静かになった。
窓の外には、王都の灯り。
遠くで馬車の音がして、人々の話し声が微かに聞こえる。
私は机の引き出しを開け、小さな紙片を取り出した。
子どもの頃に描いた、拙い鉛筆のスケッチ。
大きな体と、小さな頭。
「おとうさま」と震える字で書かれたその絵は、どう見ても芸術作品とは言い難い。
「……よく残っていましたわね、これ」
侍女がこっそり取っておいてくれたのだろう。
紙は少し黄ばんでいるが、線はまだはっきりしている。
私は、それを手のひらでそっと伸ばしてから、辺境行きの箱の隅に忍ばせた。
宝石よりも、ドレスよりも。
今の私には、こちらの方がずっと、大事な御守りになる気がした。
蓋を閉じる前に、箱の中身をもう一度見渡す。
本、ノート、ペン、薬草の本。
子どもの練習帳、小さな石、押し花、拙い父の似顔絵。
「……これだけあれば、なんとかなるでしょう」
自分に言い聞かせるように呟く。
きれいなドレスも、輝くティアラも、この部屋も。
明日の朝には、もう「過去」になる。
それでも、新しい荷物を前にしていると、不思議と恐怖だけではない感情が湧いてくる。
期待。
不安。
寂しさ。
そして、ほんの少しの、楽しみ。
「行きましょうか」
箱に手を置き、そっと撫でる。
「お父様の娘として。
ヴァルシュタイン公爵家の令嬢として。
――そして、私自身として」
窓の外の星を見上げる。
この夜が、王都で過ごす最後の夜になる。
けれど、物語は終わらない。
むしろここからが、本当の始まりだ。
静かな部屋の中で、私は胸の奥に小さく火を灯しながら、そっと目を閉じた。




