辺境行きの勅命と、庭での別れ
王城の謁見の間に足を踏み入れるのは、これで何度目だろう。
高い天井、磨き上げられた大理石、赤い絨毯。
ついこのあいだまで、私はここで王太子妃候補として紹介されるはずだった。
今日の私は、そのどれとも違う立場で、この場に立っている。
王座の上には国王陛下が、隣には王妃殿下が座し、その斜め後ろには教会の高位聖職者――枢機卿が控えていた。
王太子殿下の姿はない。代わりに、宰相と数名の重臣が列を成している。
「ヴァルシュタイン公爵令嬢、リヴィア・エルノーラ・ヴァルシュタイン」
儀礼官の声が響き、私は一歩前へ進み出た。
「はっ」
裾を少し持ち上げ、決められた角度で礼をする。
王と教会、二つの権力の視線が、まっすぐ私に向けられているのを感じた。
「顔を上げなさい、リヴィア」
陛下の声は、いつもどおり落ち着いていた。
「はい、陛下」
ゆっくりと顔を上げると、その眼差しの奥に、わずかな疲れの色が見えた。
それが、この数日の騒ぎによるものか、もっと以前からのものなのかは分からない。
「先日の、婚約の件……」
陛下は一瞬言葉を切り、それ以上は何も言わず、代わりに隣の枢機卿へ視線を送った。
教会側の代表が、一歩前へ出る。
「ヴァルシュタイン公爵令嬢」
「はい、枢機卿猊下」
「そなたが、王太子殿下との婚約解消を、何の騒ぎもなく受け入れたことは、王城内外で大いに話題になっておる」
それが褒め言葉なのか、皮肉なのか、一瞬判断に迷う。
「我らとしては、その冷静さと自制心を高く評価している」
……褒め言葉らしい。
「しかし同時に、そなたの“立場”をこのままにしておくこともできぬ。
そこで、王家と教会は協議の末、一つの“役目”を用意した」
役目。
その言葉だけで、もうある程度の想像はついた。
「アルディア王国西方、グラウベルク辺境領。
長年の戦と飢饉、盗賊の跋扈により、荒廃した土地であることは、そなたも聞き及んでおろう」
確かに、その名を聞いたことはある。
地図の端に、小さく記されていたはずの地名。
「うむ。かつては中堅貴族の領地であったが、今や実質的に無主の地に近い。
そこを――」
陛下が、ゆっくりと口を開いた。
「ヴァルシュタイン家の名のもと、再建せよ」
短く、簡潔な勅命。
「名目上は“再建”だが、実質は“辺境の治安と民の救済”だ。
盗賊を追い払い、開墾を進め、飢えた民を養わねばならぬ。
……重い役目だ」
重い、というより――
(都から見れば、綺麗な“左遷”よね)
王都から遠く離れた荒れ地。
王太子妃候補としての立場を失った公爵令嬢を、目の届かない場所へ。
そう考えるのは簡単だし、おそらく半分は正しい。
しかし――。
私の胸の奥で、別の声が静かに囁く。
そこには、困っている人たちがいるのだ、と。
盗賊に怯え、飢えに苦しみ、医者も教会もまともに届かない土地。
王都で噂話の種にされる“聖女候補”の名前すら知らないかもしれない人々。
「リヴィア・エルノーラ・ヴァルシュタイン」
陛下の声音が、少しだけ柔らかくなった。
「これは罰ではない。……そう言い切るのは、さすがに偽善が過ぎような」
自嘲めいた微笑みが、王の口元に浮かぶ。
「だが、国にとって必要な役目であることもまた事実だ。
そなたの才と心をもってすれば――」
「陛下」
私は一歩前に進み、深く頭を垂れた。
「はい、この身をお役立てくださいませ」
謁見の間が、静まり返る。
「捨てられた先に、困っている人がいるのなら。
そこはもう、“追放先”ではなく“居場所の候補”ですわ」
顔は上げないまま、はっきりと言葉にする。
「婚約の席は、私にとって“居場所”ではなかったのかもしれません。
ならば、せめて――
誰かの役に立てる場所で、私の席を探したいのです」
一瞬の沈黙ののち、陛下が短く笑った。
「……聞いたかね、枢機卿どの」
「ええ。まこと、容易ならぬ娘御ですな」
教会側の男は、どこか複雑そうな表情で私を見下ろしている。
「そなたの言葉、しかと聞き届けた。
グラウベルク辺境領の再建――この役目、正式にそなたへと命じる」
「謹んで、お受けいたします」
私は背筋を伸ばし、頭を下げたまま、深く息を吸った。
肺の奥まで冷たい空気が満ちていく。
婚約破棄。
左遷にも等しい勅命。
それでも、私は――まだ折れていない。
◇ ◇ ◇
「……すまない、リヴィア」
公爵家の王都邸。父の書斎で、最初に口をついて出た言葉がそれだった。
「お父様が頭を下げる必要はありませんわ」
私は苦笑しながら、部屋の中を見回す。
重厚な本棚。地図の広げられた机。
いくつもの戦略と交渉をくぐり抜けてきた父の“戦場”。
「グラウベルクへの勅命、でしょう?
王家と教会が決めたこと。お父様が止められる類の話ではありませんわ」
「……止めようとはした」
父は短く言い、窓辺に立って外を見やった。
夕陽が王都の屋根を赤く染めている。
「別の貴族に押し付ける案も出した。
辺境の代わりに、王都での役目を与える案も提示した。
だが結局――」
「“婚約破棄された公爵令嬢”に、これ以上王都に居座られては困る。
そういうことでしょう?」
言葉を継ぐと、父は深くため息をついた。
「そこまで言われたわけではないが……意味としては、そうだ」
「分かっていますわ」
私は椅子に腰かけ、膝の上で指を組んだ。
父の横顔に、申し訳なさと怒りと、どうにもできない無力感が混ざっているのが分かる。
「お前が王都にいる限り、王太子殿下も、聖女候補も、教会も落ち着かぬ。
そう暗に示された」
「“元婚約者”が同じ城内を歩いていたら、周囲が気を遣いますものね」
自分で言ってみて、少しだけおかしくなった。
父が、苦々しい顔をする。
「笑い事ではないぞ」
「笑っておかないと、やっていられませんもの」
私は肩をすくめた。
「お父様が謝るべきことは、何もありません。
私は、ヴァルシュタイン家の娘として育てられ、
その教育の中で、“国のために役に立つ生き方”を叩き込まれましたわ」
「……それは、否定できんな」
「ならば今回の勅命は、その延長線上にあるだけ。
私が背負うべき荷物の一つです」
父は何も言わなかった。
しばらくの沈黙のあと、低く呟く。
「……本当はな」
「はい?」
「本当は、私は――
お前が幸せになれる場所を、私の手で用意してやりたかった」
その言葉に、胸がふっと熱くなる。
「王太子妃の座が、お前の幸せになるのかどうか。
私はずっと迷っていた。
だが、それしか選択肢がないように見えたから……
そんな世界を、私は憎んでいる」
父の背中が、ほんの少しだけ小さく見えた。
「グラウベルクは、過酷な土地だ。
盗賊も、飢えた民も、病もある。
公爵家の子女が行くような場所ではない」
「でも、“リヴィア”が行くには、悪くない場所かもしれませんわ」
私の言葉に、父が振り向いた。
「……何?」
「お父様は、いつもこの書斎で言っていたでしょう?
『領地を守るとは、そこに生きる者を守ることだ』って」
私は微笑む。
「婚約の席を失ったからといって、私が守りたいものがなくなるわけではありません。
捨てられた先に、困っている人がいるのなら。
そこはもう、“追放先”ではなく“居場所の候補”ですわ」
父の目が、大きく見開かれた。
「私は、王都で“王太子妃”の役をこなすより、
辺境で“ただの領主”として走り回る方が、向いているのかもしれませんし」
「……お前は、本当に」
父は頭を抱え、そして少しだけ笑った。
「誰に似たのだろうな」
「お父様でしょう?」
「いや、私はそこまで殊勝ではない。
もっと打算深く、もっと臆病だ」
そう言いつつ、父は歩み寄ってきて、私の肩に手を置いた。
「グラウベルクには、ヴァルシュタイン家からも、できる限りの支援を出すつもりだ。
金も、人も、物資も。
“捨てに行く”わけではない。
お前の“拠点”を作りに行くのだと思え」
「……はい」
「ただひとつ、父として願うのは」
父の手に、ほんの少しだけ力がこもる。
「死ぬな。
それさえ守れば、あとのことはどうとでもなる」
「物騒なことをおっしゃいますわね」
そう言いながらも、胸の奥が温かくなるのを止められなかった。
「大丈夫ですわ、お父様。
私はしぶとい女ですもの。
婚約を破棄されても、左遷されても、まだこうして立っている」
父が、ふっと笑う。
「……確かに。
あの謁見の間で笑っていられる娘だ。
そう簡単には折れまいな」
「折れるとしても、それは」
私は少しだけ視線を落とした。
「誰も見ていない場所で、こっそりですわ」
◇ ◇ ◇
旅立ちの日の朝、屋敷の庭は、予想以上に賑やかだった。
「リヴィア様、本当におひとりで……」
「お供の数が少なすぎます。せめて護衛をもっと――」
「いいのです」
私は笑って首を振った。
「荷馬車と護衛は、グラウベルクに着いてから増やしますわ。
最初から大名行列のような人数で乗り込んだら、現地の人たちに警戒されてしまいますもの」
王都の屋敷の庭は、こじんまりとしているが、手入れの行き届いた美しい庭だ。
色とりどりの花々、整えられた生け垣、小さな噴水。
その一角に、使用人たちがずらりと並んでいる。
執事、家令、料理長、侍女長、下働きの少年少女たち。
皆、正装に近い服装で、私の旅立ちを見送ろうとしている。
「リヴィア様……」
前に進み出たのは、見慣れた顔の侍女だった。
年若いが、真面目で、少しおしゃべりで、よく私の髪を整えてくれた子だ。
「本当は……本当は、行ってほしくないです」
目元が真っ赤で、今にも涙が零れそうになっている。
「王都にいれば、きっとまた別の縁が……その……殿下でなくても……」
「まあ」
私は小さく笑って、レースのハンカチを取り出した。
「その話を続けると、お父様が倒れてしまいますわよ?」
侍女長の方を見ると、案の定、微妙な顔をしている。
周囲から、かすかな笑い声が漏れた。
「ほら、貸してあげますから」
私はハンカチを彼女の手に握らせた。
「泣くなら、ちゃんと押さえながら泣きなさいな。
顔中ぐしゃぐしゃにしてしまったら、あとで後悔しますわよ」
「で、でも……これはリヴィア様のお持ち物で……」
「ええ。泣き止んだら、返して――もいいけれど。
そのまま持って行っても構いません。
“公爵令嬢に泣かされた記念”として」
「そ、そんな……!」
侍女が慌てて首を振る。
でも結局、我慢しきれずに、ハンカチで目元を押さえた。
肩が小刻みに震えている。
私は、その頭をそっと撫でた。
「大丈夫ですわ。
あなたたちが誇れるようなご主人様になってきますから」
そう言うと、彼女は余計に泣き出してしまった。
「ひっ……ぐ……そんなこと言われたら……」
「泣き止むどころか、火に油を注いでしまいましたわね」
小声で呟くと、近くにいた執事が、珍しく口元を緩ませた。
「リヴィア様らしくて、よろしいかと」
執事の後ろには、小さな箱がいくつか積まれている。
私の荷物――だったものだ。
「本当に、よろしいのですか? これほどまでに」
執事が、箱の一つに視線を落とす。
「ええ。半分以上は、王都でしか使い道のないものですもの」
私は頷いた。
ドレス、宝飾品、趣味の小物。
グラウベルクに持っていったところで、盗賊と飢えた民の前で輝くようなものではない。
だから、王都の有力な商会にまとめて売り払い、その代金を小袋に分けた。
使用人たち一人ひとりに渡すには十分すぎるほどの金額になった。
「これは、あなたのお兄様の学費に。
これは、あなたのご両親への手土産に。
これは、あなたの結婚の支度金に」
朝からの時間を使って、私は一人ひとりに小さな袋や包みを渡していった。
皆、最初は遠慮したが、最後には泣きながら受け取ってくれた。
「そ、それでは、こちらが逆に“捨てられた先”になってしまいます……!」
と、顔をしかめる下男もいたが。
「違いますわ」
私は首を振った。
「私は、出て行く方ですもの。
ここは、これからもあなたたちの職場であり、家でしょう?
その土台を少しでも強くすることができるのなら、安いものです」
「しかし――」
「それに、私が辺境で失敗して戻ってきたときに」
冗談めかして言うと、皆の視線が一斉にこちらに向いた。
「“あのとき、リヴィア様からいただいたお金のおかげで、こんなに立派になりました”って胸を張って言ってもらえたら――
それはそれで、悪くないと思いません?」
庭に、戸惑い混じりの笑いが広がる。
「……本当に、どこまで折れないお方なのでしょうね」
侍女長がぽつりと呟き、隣の料理長が同意するように腕を組んだ。
「婚約破棄され、左遷も同然の勅命を受けても、こうして背筋を伸ばして笑っておられる。
あれが公爵令嬢か……いや、“ヴァルシュタインの娘”か……」
ひそひそと囁く声が、どこか畏れを含んでいるのが分かる。
恐れられるのは、本来、望んだことではない。
けれど同時に、それは――私が自分の足で立っている証でもある。
「そろそろ、お時間です」
御者の声がして、馬車の支度が整ったことを知らせる。
私は庭を振り返った。
花々、噴水、生け垣。
そして、涙ぐみながらも私を見送ろうとしてくれている使用人たち。
「みなさん」
声が震まないように、一度だけ深呼吸をする。
「これまで、本当にありがとう。
わがままなご主人様に、よく付き合ってくださいました」
「わがままなど、とんでもございません!」
「いつも、わたしたちのことを一番に――」
言いかけて、侍女がまた涙をこぼす。
「泣くのは、みんなと別れたあとで充分です」
自分に言い聞かせるように言うと、侍女長が小さく頷いた。
「はい、リヴィア様」
私は一人ひとりと目を合わせ、最後に深く一礼した。
「どうか、皆さまもお元気で。
私が辺境で噂になるくらいの“良いこと”をしてみせますから」
そう言って、馬車へと乗り込む。
扉が閉まり、御者が手綱を鳴らす。
車輪がきしむ音とともに、ゆっくりと屋敷の門へ向かって動き出した。
窓から身を乗り出すと、庭の使用人たちが一斉に頭を下げる。
誰かが「リヴィア様ー!」と叫び、誰かが必死にその口を塞いでいた。
門をくぐり抜ける直前、私は最後に手を振った。
それから――。
屋敷の影が完全に見えなくなったところで、ようやく背もたれに体を預ける。
胸の奥で、堰が切れた。
ぽたり、と。
一粒だけ、涙が頬を伝って落ちる。
それがきっかけになって、二粒、三粒と、静かに視界が滲んでいく。
「……泣くのは、みんなと別れたあとで充分です、って言ったのに」
自分で言った言葉に、自分で苦笑する。
婚約破棄も、左遷も、勅命も。
全部、飲み込んだつもりでいた。
でも本当は、飲み込みきれなかったものが、胸の底に残っていたのだろう。
それでも――。
涙は、止まる。
いつまでも、泣き続けることはできない。
窓の外には、王都の外壁が遠ざかり、広い空と、まだ見ぬ西方の地平線が広がっている。
(グラウベルク辺境領)
荒れ果てた土地、盗賊の巣、飢えた民。
そこが、本当に“追放先”なのか、“居場所の候補”なのかは、これからの私の在り方次第だ。
「行きましょうか」
小さく呟く。
「私の居場所を、探しに」
馬車は揺れながら、西へ、西へと進んでいく。
新しい空の下へと向かう、その振動を、私はしっかりと受け止めた。




