Re:一月二十三日 帰り道
一月二十三日、月曜日。
その日の明伊敷高校では、朝から緊急集会が開かれていた。
冬の寒々とした空気にすっかり冷え切った体育館の中に、全学年の生徒たちが整列して並ぶ。
皆一様に困惑や動揺の表情を浮かべており、中には泣き出しそうな者もちらほらといた。
無理もないだろう。
一昨日の修学旅行中に、生徒が一人死んだのだ。
詳細な情報は伏せられていたが、観光名所の崖から不運にも落下したとのことだった。
同旅行に参加していた二年生たちも。
今朝はじめてそのニュースを校長の口から知らされた他学年たちも。
集会が終わった後、誰もがどんよりとした気持ちで教室へと戻っていった。
ただ一人を除いて。
「ふふふ、だから言ったでしょ。おおごとにはならないって」
その少女、砂根稀香は周囲の取り巻きにそっと耳打ちした。
死者を悼む気持ちなど微塵もない、嘲るような笑顔を浮かべながら。
「もうその話はやめようぜ」
「いくらなんでも、不謹慎だと思うよ」
「そうよ。稀香ちゃんのやったことは誰にも言わないから、あの時のことは忘れましょうよ。ねえ?」
懇願する取り巻きたちの顔を見やり、稀香は憮然としつつも「まあいいけど」と吐き捨てる。
どうせあのことは世間にバレないというのに、こいつらは心配しすぎだ。
たしかにシキミが死んでしまったことは驚いたが、どいつもこいつもビビりすぎじゃないのか。
そんなふうに稀香は心の中でせせら笑う。
こいつらはいわば、アタシと秘密を共有している状態だ。
シキミを崖に突き飛ばしたのはアタシで、こいつらはまったく悪くない。
だがアタシのしでかしたことが世間にバレれば、こいつらがアタシと一緒にシキミをいじめていたことも明らかになってしまう。
だからこいつらはアタシを匿うし、裏切ることもできない。
この関係性は、今後も利用できるだろう。
緊急集会が終わり教室に戻ると、教師がいくつかの話をはじめた。
同級生が死んだことによる、生徒たちの心のケアに関する話だ。
ニ十分ほどで話は終わり、今日はそのまま各自帰宅することになった。
事件への動揺が大きく、授業にならないという判断らしい。
「実質休校みたいでラッキーじゃね? 今からどっか遊びに行こうよ」
そんな稀香の誘いに、取り巻きたちはやや恐縮しながらも断りを入れた。
「ごめん、稀香ちゃん。今日はちょっとメンタルがヤバくて……」
「俺も……お願いだから、少し気持ちを整理させてほしいな」
普段なら、稀香の提案を断るなんて愚行は考えられないことだ。
どいつもこいつも沈みすぎだ。
そう稀香は思ったが、無理やり従わせようとまでは思わなかった。
ここで反感を買って、下手な行動に出られても困る。
そのうち元に戻るだろうと自分に言い聞かせる。
それから。
取り巻きたちがそれぞれの帰路についたので、稀香も仕方なく帰宅することにした。
家の方向がみんなと異なるため、一人きりの帰り道だ。
時刻はまだ十一時にもなっていない。
見慣れた帰り道も、朝の時間帯だとずいぶん景色が違って見えた。
いつも夕方は車の往来が多いのだが、今は車も通行人も見当たらない。
同じ場所なのに、普段とは違う感覚。
まるで風景のよく似た異界にでも迷い込んだような気分。
そんなくだらない空想を思い浮かべていると。
「ただいま」
誰かの声が、後ろから聞こえたような気がした。
近くでささやくような。
それでいて遠くから呼ばれているような。
不思議な響きだった。
今のはなんだろうか、と稀香は振り向こうとして――しかし体はまったく動かなかった。
「え? あれ? はあ? どうなってるし!?」
前に歩みを進める態勢のまま、稀香は固まっていた。
空中に踏み出した一歩は踏み出せず、引き戻すこともできない。
頭は回るし声も出せるが、体の制御が利かない状態。
まるで立ったまま金縛りに遭ってしまったかのように。
「ただいま」
もう一度、その声が耳に届いた。
今度ははっきりと、耳元で。
聞き覚えのある声。
いや、もう二度と聞けるはずのないその声。
思わず稀香は叫んだ。
「――ま、まさか、そこにいるの? シキミ?」
威嚇で怒鳴りつけたつもりだったが、声は乾いたように小さくかすれて消えた。
だが、相手には届いたようだった。
「酷いよね、稀香さんもクラスのみんなも。私を置いて日本に帰っちゃうなんてさ」
「アンタ、なんで……? ハワイで死んだはずじゃ……」
「死んだよ。でも、帰ってきちゃった」
朗らかな声で、そいつはそう答えた。
幽霊なのか?
本当にシキミなのか?
確かめたいが、振り向くことができない。
その声は間違いなく、死んだはずのシキミのものだった。
ただ生前は散々いたぶってやったから常におどおどしていたのに、今のこいつは妙に声色が明るい。
死によって生前のしがらみから解き放たれたから、なのだろうか。
それは稀香がクラスを支配する前の、本来のシキミの性格だった。
「大変だったんだよ。日本に帰ってくるのは」
愉快そうな声が耳元に響く。
「前の世界ではさあ。なんか知らないけど変な力に邪魔されて縛り付けられていたの。だからずっと私はハワイから出られなかったんだよ」
「前の……世界?」
「稀香さんには分からないよね。でも今さら知らなくていいんだ。世界はあるべき姿に戻ったんだから。誰かが私の偽物を倒してくれたおかげで、もう新月の日とか関係なく、いつでもあなたと逢えるんだから」
前の世界。
偽物。
新月。
いつの、なんの話をしているのか。
稀香にはまったく理解ができなかった。
「前の世界では、稀香さん以外みんな死んだよ? 矢部くんも嘉手納さんも阿倍くんも八女っちも、絵麻ちゃんも」
名前が挙がったのは、稀香の取り巻き五人。
稀香が転校してきてからすぐに弱みを握って支配し、当時クラスの中心にいたシキミを排除するために協力させたやつら。
そして、シキミの落下事故の真相を知るやつら。
「あの子たちは、前回すでに報いを受けたよ? でも稀香さんだけは、前の世界で何の罰も受けなかったんだよね。だから、あなただけは、私が直接――」
次の瞬間、稀香は背後から圧し掛かられているような感覚をおぼえた。
耳元には、髪の毛の束の感触もある。
まるで見えないなにかに後ろから抱きしめられているかのようで。
まるで言外に「逃がさない」と言われているようで。
思わず稀香は声にならない悲鳴をあげる。
相手の言っていることはまったく理解できないが、このままではまずい。
誰でもいい。
誰かこの道を通りかからないのか。
誰でもいいから、助けて。
「助からないよ」
心の中を見透かしたような言葉。
なんでだ、と稀香は思った。
なんで私がこんな目に。
「こ、殺さないでっ……。アンタにしたことは全部謝るからっ」
「殺さないよ? 私はなんの力もない、ただの幽霊だからね。本当はあなたに雷の一つでも落としてやりたいけど、残念だけどできないの」
命は助かる?
安堵する稀香に、続く言葉が投げかけられる。
「だから稀香さん……私はただ、あなたとお話がしたいだけなの」
その言葉とともに、突然稀香の体に自由が戻った。
手も足も思い通りに動く。
ともかく、それに気付いた稀香の判断は早かった。
「なんなのよ! アンタはっ!」
そう喚きながら、全速力でその場から走り去る。
シキミの霊を置き去りにして。
このまま逃げきれれば。
そして家に帰りつきさえすれば、きっとパパが助けてくれる。
今までもずっとそうやって、苦境を乗り越えてきたんだから。
走った。
夢中で走った。
いつもの帰り道を、ただひたすら走った。
そして。
「無駄なのに」
どういうことなのか。
稀香は息を切らしながら愕然し、立ち止まる。
間違いなく自宅を目指していたはずなのに。
気付けば、彼女は元いた場所に戻ってきてしまっていたのだ。
「な、なんでよ! なんで!?」
「気付いてないのね。ここはもうすでに、この世じゃないんだよ。まあ死後の世界ってわけでもないんだけど」
朗らかに、それでいて冷徹な声がどこからともなく響いてくる。
「この世界はね、あなたの帰り道なの。ただし帰るべき場所はどこにもない。あなたはこれから、永遠に続く帰り道を彷徨い続けるんだよ」
「そ、そんな……アタシ、もう家に帰れないの?」
「そうだよ。この世界には私とあなたの二人だけ」
なにがどうしてそうなったのか、稀香には微塵も理解できない。
ただ一つ分かったのは、もう逃げ場なんてないんだということ。
「これでもう誰も邪魔できない。やっと、二人きりで話せるね。私、きっとずっとこうなる日を望んでたの。だって私、あなたと友達になりたかったから」
それを聞いて、稀香の記憶がふいに思い出される。
はじめてシキミと出会った日の記憶。
転校初日、教室内で自己紹介をし終わった稀香に対して、まっさきに笑顔で声をかけてきたのはシキミだった。
きっと彼女は、クラスの新しい仲間と早く仲良くなりたかったのだ。
だが稀香は、早いところトップカーストを追い落としてクラスを掌握することしか考えていなかった。
それ以外に、人付き合いの方法を知らなかったから。
もしもあの時、二人が普通に友達になっていたなら、今のこの状況はきっとなかっただろう。
すべては、稀香の歪んだ性格が生んだ結末。
後悔するには、あまりにも遅すぎた。
「ずっと一緒だよ。これからは、よろしくね」
「い、いやああぁああああああぁあぁぁ!!!」
嘆きに満ちた叫びはそのまま風に散り、辺りにやけに響き渡った。
木霊のように、いつまでも。
その後、稀香の姿を見た者は、誰もいない。
彼女は生きたまま、帰らぬ人となった。
その魂は、永遠に帰り道を彷徨い続けることだろう。
了




