9 目に見えるもの、耳に聞こえるもの
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
ヘンリー・マクスウェル:イーリンの父、公爵
マリア・マクスウェル:イーリンの姉、隣国貴族と婚姻予定
アーサー・ギーベル:王太子、イーリンの婚約者
フィリップ・ギーベル:国王、アーサーの父
ルイス・ギーベル:第二王子、リリーの婚約者
キャサリン・パー:男爵令嬢、王太子のお気に入り
リーデン伯爵:キャサリンの後見
リリー・ストラスタ:イーリンの友人、侯爵令嬢、第二王子ルイスの婚約者
ストラスタ侯爵:リリーの父
ヴィルター・クリークス:隣国ハーフェンの公爵、マリアの婚約者
時は少し遡り、イーリンが領地に戻ってすぐのこと。
ギーベル国王フィリップは、アーサーを自分の部屋に呼び出していた。
「このたわけが、マクスウェルを怒らせよって。」
アーサーはふてくされた様子で、叱責を受け止める気がないのが明らかだった。
ヘンリー・マクスウェル公爵からは、王太子アーサーと公爵の娘イーリンとの間に結ばれた婚約について、解消をさせていただきたいとの申し出があった。
表向きの理由はイーリンの体調不良とされており、もう婚約者としての務めを果たせる状態ではないとのことだったが、実のところ、アーサーの振る舞いに対する、かなり強めの王家への抗議だった。
おまけに、婚約解消はただの脅しではなく、マクスウェル公爵は本気で解消の方向に動いているようだった。
マクスウェル公爵は、第二王子の婚約者リリーの父親であるストラスタ侯爵とともに、基本的には穏健派だ。筆頭貴族であるにも関わらず増長することなく、国内の他の貴族を取りまとめていた。
そのマクスウェル公爵が怒りをあらわにした。
これは、国の分裂の危機である。
ギーベル王国における王家というのは、象徴的な存在であった。王家そのものが国を動かしているわけではなく、複数の有力貴族との合議制であった。
王家も多少の直轄領や独自の兵力を有しているものの、マクスウェル家が持つものには遠く及ばなかった。他の貴族でマクスウェル家に呼応するものがあれば、王家の転覆も現実的にありうる。
おまけに、マクスウェル家の長女マリアは、もうすぐ隣の大国ハーフェンの有力貴族に嫁ぐことが決まっており、ハーフェンがこの機にギーベル王国に手を伸ばしてくる可能性もあった。
国王とて、アーサーの放縦さを認識していなかったわけではない。だからこそ、清廉なイーリンに期待した。しかし、結果イーリンではアーサーを変えられず、彼女は気を病み、公爵は憤った。
イーリンを疎かに扱うということは、マクスウェル家をそのように扱っているととられてもおかしくない。公爵の怒りは順当であり、国王は頭を抱えた。
世間の評判としても、元々悪名が高く、最近になっては婚約者でもない女性に執心しているアーサーと、美しく聡明で、アーサーの心無い仕打ちに耐え続けたイーリンとでは、アーサーの方が、分がかなり悪かった。
それによって、アーサーを放置し続けた王家は信頼を失い、イーリンを守ろうとするマクスウェル家への同情が集まっていた。
(王家に王の資格なし、となれば、王家を倒す大義名分が出来上がってしまうではないか! この馬鹿息子が!)
国王は焦った。
幸いなことに、マクスウェル公爵は好戦的な方ではないし、アーサーとの婚約解消で手を打ってくれそうであった。しかしこの期に及んでも、フィリップ国王は、マクスウェル家との繋がりを持っておくことをあきらめきれなかった。
「早くマクスウェルに謝罪せよ。許してもらえるまで足を運べ。婚約解消の申し出を撤回してもらうよう頼むのだ。」
「お言葉ですが陛下、奴らは臣下です。なぜ顔色を窺うようなことをせねばならんのです。」
「愚か者! この国と王家にとって、マクスウェルがどんなに重要か分からんのか。お前は次の国王なのだぞ。」
「だからこそです。簡単に頭など下げて、弱みを握られたらどうするのです。」
アーサーは顔に血を昇らせ、国王に意見した。
アーサーには理解できなかった。アーサーは生まれながらの王太子であり、周りの人間はみな無条件に自分にかしずいていた。身分差というものは絶対であり、侵してはならないものだ。国王以外に、自分に意見するものなどあってはならない。だからアーサーは、それを守らないものに厳しく当たってきたのだ。
だというのに、自分に仕えるべき臣下が、こともあろうに自分に逆らい、あまつさえ抗議をするなどと。何という失礼、何という不敬。
そして国王は、自分に臣下に頭を下げに行けと言う。アーサーは信じられなかった。
(父上は、耄碌してしまったのか?)
「それに、あの娘とは別れろ。もう関わるな。愛妾にするのも許さん。リーデンよりマクスウェルの方が大事だ。」
「それは無理です。私はキャサリンを愛しています。王となる私が、自分で王妃を選んで何が悪いのです。」
「王妃だと……!馬鹿を言うな。将来の王妃はイーリン嬢だ。あの娘にそんな器はない。」
「何をおっしゃるのです。キャサリンは優秀だ。きっと素晴らしい王妃になります。リーデン伯爵の養女になり、ふさわしい教育を受ければきっと。」
国王は、椅子の肘掛けを掴む手にぎりぎりと力を入れた。
「黙れ、この情勢も読めぬ痴れ者が!」
「王太子である私が、愛する者と結ばれずに不幸になってもよいのですか。」
「ならば国から去れ、ルイスに王太子を譲れ。そんなに愛する者と結ばれたければ、無能であるということを自ら認めよ。お前など、王の器ではないわ!」
(なぜ、ここまで言われなくちゃならないんだ。)
そもそもアーサーにとって、イーリン側から婚約解消の話が出たのは願ってもないことだった。これでキャサリンと結ばれることができると喜んでいたのに、なぜか国王は自分が頭を下げても婚約を継続しろと言う。アーサーは不思議でならなかった。
それから何度アーサーが説得しようとしても、国王は頑として意見を変えず、話は平行線に終わった。
「そなたは、目に見えるもの、耳に聞こえるもの以外は、何も分からぬのだな。」
呆れたように言い捨て、国王はアーサーにもう下がれ、しばらく謹慎せよ、と言った。
自分が悪いとは思っていないアーサーにとって、謹慎は不本意だった。ただ、不毛な話し合いから解放されたのは悪くなかった。
(ああ、嫌なことばかり言われたな。)
アーサーは自分の部屋に戻ると無性に腹立たしくなり、机を蹴り、壁にかけてある剣を取って無茶苦茶に振り回した。剣の切先がカーテンに当たり、無惨に裂けた。
アーサーの部屋は、アーサーの小さい頃からの癇癪のせいで一面傷だらけであった。イーリンなどは、この部屋に来ると、いつも身体を固くしていた。
一通り暴れると、息をふうふうと切らしながら、アーサーは先ほどの国王からの話について考えた。
母親である王妃は、弟たちを産んでから奥へ引っ込んでしまい、ほとんど顔を合わせることがない。
侍女たちはいつもびくびくとしていて、最低限のことをやればすぐに消えてしまう。
婚約者は、最初の方こそ可愛らしいと思ったが、どんどんあまり喋らない、面白くない女になった。おまけに、時に逆らってきたので、その時は厳しく身分の差を教えた。
(女というものはわがままで、俺をちっとも大事にしようとしない……。)
女というものはろくでもない。心底うんざりしていたところ、キャサリンに出会ったのだ。
キャサリンは今までそばにいた女たちとは全く違い、魅力的だった。美しいのはもちろんのことだが、その赤い唇からこぼれる言葉は、アーサーを虜にした。
「アーサー殿下は、正しいですわ。」
あの日、リーデン伯爵に絡んでいたほっそりした白い腕は、今はアーサーの腕に絡んでいた。
「アーサー殿下は、立派な方。」
そうやってキャサリンが笑いかけてくれると、アーサーは、身体の奥が疼くような興奮を覚えた。
また、キャサリンはアーサーのために、たくさんの違う世界を教えてくれた。
世の中にはたくさんの国があり、ギーベル王国のように貴族が偉そうにしている国もあれば、王が国の全てを持ち、王の命令で全てが動く国もあるとのことだった。
「優秀な王であれば、そう言った国の方が強いのですわ。」
アーサー殿下ならもちろん大丈夫ですわ、とキャサリンは笑った。キャサリンの黒々とした瞳で見つめられ、赤い唇から紡がれる言葉を聞いていると、アーサーは頭がくらくらとしてきて、何でもできそうな気分になるのだった。
アーサーは、もっともっと多くの時間をキャサリンと過ごしたかった。とても心地が良かったからだ。
そんなときに見る婚約者は、暗い顔をして黙っており、いかにも面白くない女だった。
(どうせ、マクスウェルが王家との繋がりが欲しくて送ってきた娘だ。どうでもいい。)
しかし、婚約者以外と堂々と2人でいるわけにはいかない。
「私、イーリン様と仲良くなりたいのですわ。そうしたら、イーリン様も私がアーサー様と一緒にいることを許してくださるでしょう?」
キャサリンに頼まれ、何度もイーリンとキャサリンを引き合わせたが、婚約者は心が狭く、キャサリンとの距離を縮めようとしなかった。
仕方なしにアーサーは、キャサリンが待機しているところにイーリンを呼びつけ、アーサーとキャサリンが会っている間は人目のつかないところにいろ、と命令した。分からず屋の婚約者に対しては、そうするしかなかったからだ。
イーリンが素直に言うことを聞くようになるまで、何度も怒鳴りつけなければならなかった。
「私、イーリン様に教えていただいたことを皆様に話しておりましたのに、イーリン様は私を嘘つき呼ばわりされるのですわ。」
と、キャサリンは泣きながらアーサーに訴えた。人気者のキャサリンに対して、嫉妬でもしているのだろうと思った。
あれだけ言い聞かせても理解できないのなら、もっとしっかり教えないといけない。剣をちらつかせ、花瓶を投げつけてやったら腰を抜かしていた。
これでやっと大人しくなったかと思ったら、公爵である父親に訴えるなどと。どこまでも忌々しく反抗的な女だった。
謹慎が始まると、アーサーは王城から出ることを禁じられた。王太子であるため、王城で行われる晩餐会などには出席はする。しかし、男爵令嬢であるキャサリンは身分が低く、国王の勘気に触れているため、なかなか顔を出せない。リーデン伯爵の手引きで、わずかな時間だけ会うのが関の山だった。
キャサリンと思うように会えず、アーサーは些細なことでもイライラとし、怒りを抑えられずによく物を壊した。
国王からは、何度もマクスウェルに謝罪せよとの指示がきたが、全て無視をしていた。アーサーとしては、やはり臣下に頭を下げるわけにはいかないし、マクスウェル公爵が痺れを切らして婚約を解消してくれる方がよかったからだ。
謹慎中も、キャサリンはリーデン伯爵などの名前を使い、よく手紙を送ってきてくれた。
『愛するアーサー殿下。
お会いできなくて寂しゅうございます。
殿下と気兼ねなくお話できていた日々が懐かしいですわ。』
キャサリンからの愛のこもった手紙は、荒れるアーサーの心を慰めてくれた。
『愛し合う私たちが結ばれるには、どうしても障害がありますわ。
でも、障害は取り除けばよいのです。』
アーサーは、キャサリンと2人でいれば、どんな障害も乗り越えられるだろうと思えた。
ある日届いた手紙は、厳重に封がしてあった。
『愛するアーサー殿下。
今日の手紙は、必ずお一人で読んでくださいまし。
最近、街で恐ろしい事件が起きているのです。若い男の子や女の子が、むざんに殺されていると……。』
なんと、自分が外に出られない間に、そんな事件が起きていたのか。
『私、少し思ったのです。
イーリン様が少しばかり嫉妬深く、恨みがましい方なのは、アーサー殿下もよくご存知ですわね?』
その通りだ。婚約者のこういった性質には、2人で悩まされたものだ。
『私、屋敷のものに聞いたのですけれど、悪魔への生贄は、このように恐ろしい殺され方をするらしいのです……。』
悪魔の生贄?
『もしや、イーリン様が私たちを恨んで、悪魔と契約なさったのではないかしら?怖いところのある方だったから……。
事件が起こり始めた頃に、領地に行かれてしまったのも怪しいですわ。きっと、私たちを逆恨みして、復讐をなさるおつもりですわ。』
キャサリンの言うことに、間違いがあるわけがない。
何ということだ。自分の婚約者が恨みのあまり悪魔と契約し、魔女になったとは。
このままでは、城にいる自分はまだしも、キャサリンの身が危ない。
『お願いでございます、この手紙は読み終わったら焼いてくださいましね。こんな恐ろしいことを書いてしまったので、何かの拍子に公爵に見られて、アーサー様にご迷惑がかかるのではないかと心配なのです。』
危険を犯してこの話を自分に教えてくれたのだと思い、アーサーはますますキャサリンが愛おしくなった。
(愛しいキャサリン。外に出られるようになったら、必ず俺が守ってやろう。)
アーサーは手紙に火をつけ、全て形がなくなるまで焼いた。
紙を焼く炎に煽られ、キャサリンを守るという使命が胸に迫り、アーサーは身が震えるほど高揚していた。
お読みいただいてありがとうございます。この回は、内容が暗くてすみません。次回は、イーリンが王都に出発します。ちょっと前向きになっています。次もお付き合いいただけると嬉しいです。