8 あたたかなもの
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
ヘンリー・マクスウェル:イーリンの父、公爵
ソフィア・マクスウェル:イーリンの母、公爵夫人
マリア・マクスウェル:イーリンの姉、隣国貴族と婚姻予定
クリス・マクスウェル:イーリンの兄、マクスウェル家跡取り
アンナ:イーリン付きの侍女
ピーター:マクスウェル家の庭師
アーサー・ギーベル:王太子、イーリンの婚約者
キャサリン・パー:男爵令嬢、王太子のお気に入り
ファン:クリスの従者、ヴィルターが紹介
「この子が魔女ですって……?あなた、いったいどういうことなの?」
ソフィアのイーリンを抱く手に、力がこもった。マリアとクリスは、息を呑んで父親に見入っている。
「先ほど言った事件のほかに、王都のうちの館に、何度か犬や猫の死骸が投げ込まれることがあった。」
ヘンリーは気持ちを抑えるように、いつもより低い声で話を続けた。
動物の死骸については、庭師のピーターがいち早く見つけ、他の使用人が動き出す前に、さっさと処理していたらしい。
ヘンリーも報告を受けて、何者の仕業かと調査をはじめていた。
そして同じ頃、社交界での噂が始まった。
『イーリン様がアーサー様を恨んで、魔術に手を出されたらしいわ。悪魔と手を組み、恐ろしいことを企んでらっしゃると……。』
『マクスウェル領にこもられたのは、ご自身から目をそらすためだそうね……。』
『生贄にするため、夜な夜な人をさらっては、身の毛もよだつようなことをしてらっしゃると……。』
そこにきて、犯人とされる男の証言である。
それ以上の証拠などないにも関わらず、人はイーリンがやはり魔女なのでは、とさらに噂をするようになった。
人は面白おかしく噂をするのが大好きだ。それが真実でなかろうと関係ない。そして、噂が回った結果、「万が一にも本当のことかもしれない」という疑念が、人々の心に残ってしまう。
これは、イーリンが王都にいないことが災いしていた。
イーリンを近くで見るものは、そんな噂があったとしても信じられなかったはずだ。普段のイーリンは、いつも品の良い微笑みをたたえた、儚げで可憐な少女だからだ。
人前に立つときには顔が引き締まるのだが、そうすると何とも言えない気品が溢れ、普段の儚げな様子は鳴りをひそめて凛とした雰囲気を醸し出した。
その美しさは、キャサリンの毒を持ったような蠱惑的な美しさとは異なり、清らかで気高いものだった。
何よりイーリンは、生来穏やかな気質や優しい心根をもつ少女であった。それらの性質は、常に彼女から滲み出ているかのようであり、イーリンが笑うと、そばにいる者はふんわりとした優しい空気に包まれ、自然と自分も穏やかで優しい気持ちになるのだった。
だから、イーリンが王都にいれば、噂はすぐに沈静化していただろう。目の前のイーリンが、そんな恐ろしい所業に手を染めるようには、とても見えないのだから。
「ひどい、ひどいわ。」
マリアは、妹に対するあまりにも侮辱的な噂に、身をよじって抗議した。
「誰がそんな酷い噂を広げて、イーリンを貶めるようなことを……。」
クリスも、顔を紅潮させて怒っている。
ヘンリーは、ため息をひとつついた。
「おそらく、王太子とあの憎たらしい娘だ。」
「……!」
家族全員に緊張が走った。
ヘンリーは根拠のないことを軽々しく口にする方ではない。先だって行っていた調査の結果だろう。
単なる意趣返しにしては、手が込みすぎている。そして、アーサーだけでは、このようなことは考えつくまい。キャサリンの悪知恵と虚言が関わっているのは明白だった。
与し易いイーリンを王都に引きずり出すのが目的か、
イーリンの評判を落とし、婚約解消に持ち込むのが目的か、
娘を庇うマクスウェルの力を削ぐのが目的か。
「恐ろしい相手だ。」
直接手を下しているかどうかは不明だが、相手はすでに人や動物を殺めており、手段を選ばなくなっている。
ヘンリーの調査でも、殺人事件とキャサリンの明確なつながりはまだ掴めていないため、あからさまに糾弾するわけにもいかなかった。ましてや、キャサリンは王太子のお気に入りである。
イーリンは、母親に抱かれ、うつむいたまま声を絞り出した。顔色は真っ青である。
「私は……王都に……。」
─行かなくては。考えただけで、身体は震えるけれど。
「イーリン、無理する必要はないわ。噂が何だというの。」
ソフィアが慌てて言った。
「そうよ。ね、お父様、イーリンが行く必要はないわよね?」
と、マリアは同意を求めたが、ヘンリーは眉をひそめ、じっと黙っていた。
「そんなに、状況は悪いの……。」
マリアが絶望的な表情を浮かべた。
家族は皆、分かっていないわけではなかった。
ここまで噂が広がり、犯人の証言まで出てきたのでは、さすがに国王に対して釈明しなければならない。そして、王都にイーリンが姿を現せば、おそらく噂は払拭できるだろう。イーリン本人には、それだけの説得力があった。
イーリン自身も分かっていた。
自分がマクスウェル領にこもることは可能だが、それはマクスウェル家が噂を否定せず、魔女の疑いがかかった娘を隠し続けるということになる。
だから、自分は王都に行くべきなのだ。
天を仰いでソフィアは嘆く。
「可哀想なイーリン。お母様はあの小娘が憎いわ。あの娘の方が、よっぽど魔女じゃないの。」
自分のせいで大事な家族を悩ませていると思うと、イーリンは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「申し訳ありません、お父様、お母様……。」
「いや、お前の何が悪いものか。ああ、あの王太子と婚約などさせなければ。もっと早くに解消させていれば。私の力不足ですまない。」
ヘンリーはぎりっと歯噛みした。
そのまましばらくの間、全員が押し黙っていた。
「……お父様、イーリンはすぐにでも王都に行かなくてはならないんですね?」
怒りを押し殺した様子で、クリスが静かに言った。
「……そうだ。」
ヘンリーが答える。
「ならば、イーリンを守る方法を考えましょう。」
「そうね、イーリンを1人にしなければよいのだわ。」
マリアも同意する。
そこから家族で相談し、数日以内に準備をして、ヘンリー、マリア、イーリンが王都に向かうことになった。
クリスも一緒についていきたかったようだが、まずは国王への結婚の挨拶を控えたマリアが先に行くこととなった。
父親の部屋を出る前に、クリスは涙目でぎゅっとイーリンを抱きしめてくれた。
出発を明後日に控えた日の朝、イーリンはいつもより早く目を覚ましたので、1階の廊下を歩いていた。ふと中庭の方を見ると、隅の方でファンが体操をしているのが見えた。
(あまり、見たことのない動きだけれど……。)
ファンの体つきからは想像できないような、優美な動きだった。ゆっくりとしたその動きによって、ファンの手の先から足の先までが周りの空気とつながり、それらを自在に操っているかのように見えた。
いつの間にか、イーリンは足を止めて見入っていた。それに気付いたのか、ファンは動くのをやめ、イーリンの方を向いて挨拶をしてくれた。
「おはようございます、イーリン様。早起きですね。」
「おはようございます、ファン様。邪魔をして申し訳ありません。」
「構いません。私が止めたのです。」
ファンは相変わらず、ニコニコとしていた。
「ファン様のお国の体操なのですか。」
「ええ、まあ。そんなものですね。」
そこから少し、2人で他愛もない話をしていたが、
「ファン様、私、もうすぐ王都に行くのです。」
なぜだか突然に、イーリンは、そう口にしてしまった。
ファンは少し驚いた様子だったが、
「クリス様から聞いております。いつ頃ここを出られるのですか?」
と尋ねた。
「2日後には出発いたします。」
「そうですか、寂しくなりますね。」
ファンは、本当に寂しそうに笑った。それを見て、イーリンも胸がずきんと痛んだ。
(私はなぜ、こんなことをファン様に言ってしまったのかしら。)
──普通に世間話を続けていればよかったのに。
それ以上何を言っていいか分からなくなり、申し訳ないと思いながらも、イーリンは黙り込んでしまった。
ファンもしばらく黙っていたが、
「少し、待っていてください。」
と言って、両手を合わせてイーリンにお辞儀をし、先ほどと同じような動きを始めた。今度はファンの手は周囲の空気をかき集め、さらに両手でそれらを練るような動きをしていた。
しばらくそうしていたかと思うと、ファンは動きをやめ、ボールを抱えるような手つきのまま、イーリンの方へやってきた。
「イーリン様、手を出してください。」
イーリンは、手のひらを上に向けて、両手を差し出した。ファンは、その上にそっと自分の手から何かを移した。
「まあ。」
何も目には見えないのだが、イーリンはあたたかで気持ちのよいものが置かれたのを感じた。
「気の玉です。かたまり。」
「気、というのですか。不思議ですね、なんだかあたたかいわ。」
「少し元気が出ると思います。ここの場所の気はいいから。そのまま浴びるようにしてもいいし、胸にしまうようにしてもいいです。食べちゃう人もいます。」
「まあ、うふふ。」
イーリンは、その玉をそのまま胸にしまうようにしてみた。すると、あたたかなものがじわりと身体に広がり、冷たかった胸の芯が、溶かされていくように感じた。
しばらく、心地よいその感触を味わっていると、
「あなたは、笑っている方が素敵です。美しい。」
「まあ……。」
イーリンは不意をつかれて驚いたが、ファンはいつもの笑顔を浮かべて言った。
「何かあれば、私も頼ってください。必ず助けます。」
「……ありがとうございます、ファン様。光栄ですわ。」
領地に戻ってきて、何度も皆に「助ける」と言ってもらった。自分は、何と幸せなのだろう。
日の光を取り込んだように、身体があたたかい。
イーリンは、ファンが言うように、元気が湧いてくるように感じた。
「私……また、ここに戻りたいですわ。」
「戻ってきてください。また、会いましょう。」
2人はそのまま、少しの間じっと見つめあっていた。
「おや、ファンはイーリンが戻ってくるまで、ここで修行するのかい?」
そうしていると、クリスが笑いながら歩いてきた。
イーリンは、兄に気づくと少し恥ずかしくなって目を伏せ、ちょっとファンから距離を取った。
「ダメですか。ここは、いいところです。」
ファンも笑って返す。
「イーリンに協力してくれる人は、1人でも多い方がいい。ファン、もしものときは頼んだよ。」
「もちろんです。」
(お兄様は、ファン様をずいぶん信頼なさっているみたい。)
主人と従者という関係ではあったが、2人の様子は友人のようであった。2人が冗談を言って笑い合っているのを見ると、イーリンは何だか嬉しくなった。
「さあ、こうしているうちに朝食の時間になりそうだ。イーリンも準備をしておいで。」
クリスに促され、イーリンはいったん自分の部屋に戻った。アンナに髪を整え直してもらっていると、
「イーリン様、何か楽しいことでもあったのですか?」
と、不思議そうに尋ねられた。いつのまにか、顔が緩んでいたらしい。
「そうね、あったと思うわ。」
イーリンは胸に手を当て、やわらかなあたたかさを感じていた。
お読みいただいてありがとうございます。クリスは大分前から見守っていました。次回ちょっとシーンが変わります。次もお付き合いいただけると嬉しいです。