6 雪の降る日
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
ヘンリー・マクスウェル:イーリンの父、公爵
ソフィア・マクスウェル:イーリンの母、公爵夫人
マリア・マクスウェル:イーリンの姉、隣国貴族と婚姻予定
クリス・マクスウェル:イーリンの兄、マクスウェル家跡取り
アーサー・ギーベル:王太子、イーリンの婚約者
ヴィルター・クリークス:隣国ハーフェンの公爵、マリアの婚約者
ファン:クリスの従者、ヴィルターが紹介
イーリンの姉、マリアは、隣国の貴族と春には婚姻を結ぶことが決まっていた。
隣国ハーフェンは、ギーベル王国よりも国土が広い。海に面したギーベル王国と異なり、内陸であるため、複数の国と国境を接していた。資源が豊富で産業が盛んであり、豊かな国である。
マリアの婚約者はヴィルター・クリークスという名の若き公爵である。ヴィルターはマリアより数歳年上だが、父親を早くに亡くしたために、すでに領主の座についていた。ハーフェンの皇帝もまだ若く、年の近いヴィルターを重用していた。
マクスウェル領とクリークス領は国境を挟んで隣りあっており、両家は幼いころから交流があった。ヴィルターは無口だが誠実な青年で、明るいマリアは、彼から笑顔を引き出すのが上手だった。イーリンがアーサーと婚約したのと同様に、両家や両国の事情を踏まえた婚約ではあったが、二人はお互いを好ましく思っていた。
「まあ、これが婚礼の衣装なのですね。」
外に雪がちらつく冬の日、イーリンはマリアの婚礼の支度を見せてもらっていた。
「そうよ、ヴィルターが黒髪に黒色のコートでしょう。だから、私は白をできるだけ綺麗に見せたいの。」
そういいながら、仕立屋にドレスの調整をしてもらっているマリアは幸せそうだった。
前公爵が存命のころ、ヴィルターは何度もマクスウェル城を訪れていた。幼い頃に出会ったヴィルターは、兄のクリスと一緒に外で遊んでくれたり、ゲームをしてくれたりする、優しいお兄さんだった。
「あ、そういえば。ヴィルターから頼まれて、ここに1人従者が増えたのよ。もう見た?」
「お兄様と一緒にいた方かしら。黒髪を後ろに結んだ方で……。」
「そうそう。名前はファンって言うの。何か国語か話せるらしくてね、ギーベルでしばらく修行したいらしいわ。」
「そうなのですね。」
ファンはクリスと同じ年ごろで、クリスよりも背が高く、がっしりとした身体つきの男性だった。
(文官というよりは、兵士のような方……。)
怖い印象はなかった。イーリンと出会ったとき、細い目をきゅっと動かし、優しく微笑んで挨拶をしてくれたからだ。その後、クリスがあまりにもファンに対して、イーリンは可愛いだろうと言い続けるので、恥ずかしくなって逃げてきたのだが。
ドレスの調整が終わり、マリアとイーリンは少し休憩することにした。
イーリンが甘いビスケットを楽しんでいると、マリアがふうっと息をつき、話しかけてきた。
「イーリンも、だいぶん食べられるようになったわね。身体も戻ってきたようで良かったわ。」
「ご心配おかけしました。」
こけていた頬も少女らしいふっくらさを取り戻し、青白かった肌は、健康的なピンク色がさすようになっていた。
「お父様には、私とお母様でかなり言ったのよ。見守るにもほどがあるわって。」
「まあ……、そんな。お父様は、よくしてくださいました。」
「当たり前よ。こういうことは、皆で対処しなくちゃ。イーリンも、一人で抱え込んではダメよ。」
「はい、肝に銘じます。」
マリアはにっこりと笑った。
「だけど、イーリンもまだ落ち着かないわね。あの痴れ者王太子と縁が切れていないんですもの。」
「お父様が、殿下の婚約者候補は、まだ見つからないと……。」
「腐っても王太子ですものね。国内貴族から見つからなければ、他国の王女を当たるしかないけれど……。」
アーサーの婚約者になるということは、順当にいけば、将来の王妃となるということである。
強国から迎えれば、国とのつながりもでき、ギーベル王国としては悪くはない。しかし、アーサーのふるまいを考えると、王妃の出身国を怒らせてしまう可能性がある。ならばマクスウェル家が後ろ盾となり、小国から迎えるという手もあるが、なかなか王妃の器となる候補者がいないのが実情だった。
父親が奔走しているのは分かっている。自分のために、難しい立場に立たされていることも。
ソフィアからの話では、王家としてもアーサーに非があることは認めており、国王から直々にアーサーを叱責したとのことである。しかし、代わりの婚約者が見つからないことと、マクスウェル家を取り込みたいという腹積もりがあり、婚約解消は引き延ばされていた。
「あら、二人とも休憩中だったのね。」
「お母様。」
母親のソフィアが、様子を見に部屋に入ってきた。
婚礼衣装について、マリアとひとしきり話した後、ソフィアはイーリンの方を向き、心配そうに声をかけた。
「あら、イーリン。難しそうな顔をしているわね。最近は大分元気になったきたと思っていたのだけど。」
「あっ…、これは。」
「申し訳ありません、お母様。私が痴れ者王太子の話を出してしまいましたの。」
「まあ、それじゃしょうがないわね。」
表情が暗くなってしまったのは、王都に戻らなければならないことを思い出したからである。
冬が終わる頃には、さすがに一度は王都に戻らなくてはならない。確かに、王都を去る頃のイーリンは体調を崩していたが、ここまで長期にわたるイーリンの病気療養を、言葉通りにとらえている貴族などいない。アーサーの行状が原因で、マクスウェル公爵の怒りを買ったと言うのは、周知の事実なのである。
しかし、マクスウェル家としても、本気で王家と事を構えるつもりはない。国の安定のためには、王家と婚約解消をしたとしても、表面上は友好関係を保たなくてはならない。それには、イーリンが社交界に戻る必要があった。
当初は、次の婚約者が決まりしだい、イーリンはいったん王都に戻り、頃合いを見て、他の令嬢のように領地と王都を行き来する生活にしていく予定であった。それなのに後釜が決まらず、このままでは、婚約者という立場のまま王都に戻らなくてはならない。そうなれば、アーサーと過ごす時間は、どうしても出てきてしまう。
(でも、キャサリン様の他に、殿下とうまくやっていける方がいるのかしら?)
キャサリンが王太子妃となることに問題があるのは確かだ。しかし、キャサリンと結ばれず、他の妃を押し付けられたアーサーが、妃にどのような態度を取るかは自明だった。
(私だけが、家族に守られてぬくぬくと過ごしていていいのかしら……。)
そんなことを考えていると、ソフィアのやや厳しい声が飛んできた。
「イーリン、あなた、自分が犠牲になれば丸くおさまるなんて、思っていないでしょうね。」
「お母様…。」
「あの愚かな王太子の中身が、ちょっと叱られたからってすぐに変わると思う?そんなわけなくてよ。ましてや、淫売娘もまだのうのうといるのよ。どうせ、恥ずかしげもなくコソコソ二人で会っているに違いないわ。」
領地ならではである。王都では、ここまで明け透けに王太子を非難することなどできないだろう。
「あなたが自ら犠牲になってしまったら、あなたが勇気を出して訴えたことも、お父様が努力してらっしゃることも、全て無駄になってしまうのよ。」
「そうよ、イーリン。あなたはまだ若いし、とびきり可愛いのだもの。あんな国を傾けそうな王太子一人のために、人生無駄にすることないわよ。」
「クリスなんて、イーリンはお嫁に行かなくていいとか言っているくらいなのだから。……あの子もちょっと心配だけれど。」
「クリスったら、そんなこと言っているのね。あの子、イーリンが王都に行く時もおいおい泣いてたものね。」
ソフィアとマリアは、その時のことを思い出したようで、顔を見合わせて少しの間笑っていた。そして、ソフィアはイーリンに優しい眼差しを向け、言った。
「それにね、イーリン。あなた自身も耐えられなかったことを思い出して。お母様たちは、イーリンにもうそんな辛い我慢をしてほしくないのよ。」
イーリンは、はっとした。
父親の助言通り、イーリンは領地に戻ってから、何度も何度も自分の心を見つめ直してみた。
アーサーの言動への嫌悪感、キャサリンへの心の底から湧き上がるような恐怖。何度家族に相談し、心の中で色々なやり方を試しても、それらは全く拭えなかった。
ソフィアは続けた。
「殿下を許してはだめ。あなたに酷いことをしたのよ。愚か者は同じことを繰り返すわ。それを許してしまうのは、優しさではなくて、易きに流れる甘えた心よ。」
「イーリンが我慢したぶんだけ、問題は先送りになったわ。でも、愚かな王太子は愚かなまま。みんながあなたに甘えた結果、あなただけが壊れそうになったわ。」
もう無理はしないでね、とソフィアはイーリンに身体を寄せ、そっと肩を抱く。
「イーリンには、何の落ち度もないわ。尊敬するところが見事に一つもないのに、どうやって敬愛しろというの。本当の問題は、イーリンほど真面目で優しくて、申し分のない婚約者に愛想を尽かされるほど、あの王太子に王の資質が全くないってことなの。それは国の由々しき問題なのに、いい大人が雁首揃えてイーリンに頼って。」
だからお父様をしっかり絞ったのよ、とソフィアはウィンクして言った。マリアもうんうんと頷いている。
「王都に行く時期は、お父様とも相談しながら考えましょう。マリアも春には国王陛下にご挨拶する予定だし、少なくともその頃までは、ゆっくり過ごせばいいわ。」
「イーリンが出てしまったら、クリスがまた泣きそうね。」
ふふふ、と笑い、母と娘たちは、その後もお喋りを楽しんだ。
お読みいただいてありがとうございます。ファンは、次回もう少し出てきます。次もお付き合いいただけると嬉しいです。