4 心の蓋
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
ヘンリー・マクスウェル:イーリンの父、公爵
アンナ:イーリン付きの侍女
アーサー・ギーベル:王太子、イーリンの婚約者
キャサリン・パー:男爵令嬢、王太子のお気に入り
ヘンリー・マクスウェル公爵は、久しぶりに娘から話がしたいとの申し出を受けた。
領地にいた頃はよく話をしてくれたものが、王都に来てからはめっきり減った。もちろん晩餐などで顔は合わせるし、近況を問うこともある。しかし、大丈夫だ、と笑顔で言われるのが常だった。
実際に大丈夫なら、別に問題はない。しかし、末娘でみんなに愛され、無邪気に笑うことが多かった子が、次第に表情に憂いを帯び、花が枯れるように元気を無くしていく姿を見ていると、そうとは思えなかった。
領主である以上、娘を王都に残したまま領地に戻らなくてはならないこともある。ヘンリーとしては、そのような状態の娘を置いていくのは非常に心残りであったのだが、イーリンは弱った笑顔を浮かべ、何も言わず見送りをしてくれるのだった。
「アンナ、イーリンの様子はどうだ。」
一月ぶりに王都に戻った夜、ヘンリーは、イーリン付きの侍女であるアンナを呼び出した。
「本日は食欲もなく、食事は晩餐のときだけでした。少しずつお痩せになっておられるようです。また、最近は眠る時間も短くなっておられます。」
「何か、イーリンは言っていないか。」
「イーリン様は、何もおっしゃられません。しかし、ご友人の令嬢方は、非常に心配されておられます。」
「王太子殿下とあの娘のことでか。」
「……はい。」
──あれは毒婦だ。しかも、かなり厄介な。
様々な人間を見てきたヘンリーは、キャサリンの内面をすでに見抜いていた。
ただただ質の悪い娘なら、社交界から遠ざければよい。しかし、あの娘は頭が回り、狡猾だ。リーデン伯爵や王太子を始め、中枢にいるものをどんどん取り込んでいく。
ヘンリーやリリーの父であるストラスタ侯爵からすると、甘言で人々を惑わし、可愛い我が娘の評判を下げる、迷惑千万な存在だ。
アーサーがしっかりしていれば問題はないのだが、周知の通り、アーサーは王の資質に乏しい、愚かな王太子である。リリーの婚約者である第二王子のルイスの方が、少し線は細いものの、人柄穏やかで教養もあり、よほど国王にふさわしい。そして、婚約者であるリリーとの関係も良好である。
しかし、弟がいくら優秀だとしても、王位継承権の順番を違えれば戦が起きる。国内で争えば国は疲弊し、他国のつけ入る隙が生まれる。
秩序とは、余計な争いを避けるためにあるのだ。
穏健派であるマクスウェル公爵、ストラスタ侯爵としては、あくまでアーサーが王太子であり、ルイスは王弟としてアーサーを支えるという方向で合意していた。
そのアーサーがキャサリンの魅力に取り憑かれてしまっている。キャサリンは自身の名誉欲を満たすため、王妃の座を狙うだろう。イーリンの置かれた立場は、推して知るべしだ。
イーリンが抱え込んでいるのは分かっていた。しかし、本人が伝えたくないと思うものを、勝手に介入してよいものだろうか?ヘンリーもまた、悩んでいた。
弱々しいノックの音が聞こえる。
「入りなさい。」
イーリンがドアをそっと開けて、ヘンリーの部屋に入ってきた。
しばらくぶりに見る末娘は、目の下に陰りがあり、頬がこけ、明らかに憔悴していた。ヘンリーはぐっと拳を握りしめて平静を保ち、椅子から立ってイーリンを迎えた。
「お時間を取っていただきありがとうございます、お父様。」
「まあ、座りなさい。」
ヘンリーはソファーに座るよう促したが、イーリンはうつむいて、両手を重ねて強く胸に押し当てたまま、立っていた。
「どうしたんだい、イーリン。」
「お父様、私、わたし……。」
「うん?」
「私は、うまくやれていないのです。」
そうして見上げたイーリンの顔は、悲壮感に満ちていた。
ヘンリーは、あくまで穏やかな口調になるよう努めた。
「うまくやれていないというのは、何についてなのかな?」
「……王太子殿下のことについてです。」
そこまで言うと、イーリンは、ほうっと息を吐き出した。
「私は、王太子殿下の婚約者として、将来の王妃になるものとして、皆様に教えていただいたことを実践するようにしてまいりました。」
イーリンの表情は硬い。
「任せられた大役を果たさなければならないのは分かっております。王太子殿下を敬い、お助けすることが、私の責務です。それなのに、最近では何もできておりません。王太子殿下のお側に行くと、身体が固くなり、言葉が出なくなってしまいます。」
イーリンの目が次第に潤み、目の縁からポロリと涙がこぼれた。
「どうしてなのでしょう、お父様、私は分からないのです。どうしたら、私は自分を奮い立たせて、ちゃんと王家にお仕えできるようになるのでしょうか。」
カーペットに、ぽたり、ぽたりとイーリンの涙が落ちる。ヘンリーは一歩前に踏み出し、少しかがんでイーリンと目線を合わせた。
「……私はイーリンに、ちゃんと伝えられていなかったね。考えを隠すのも、言葉を飾るのも、人と付き合う中では必要だ。だけど、そのときはむやみに心に蓋をするのではなくて、むしろ自分の心をしっかりと見つめるのだよ。」
「心を見つめる……?」
イーリンは少し顔を上げ、不思議そうな表情をした。ヘンリーは娘の瞳をじっと見つめて言った。
「イーリンは、ずっと心に蓋をしてきたのだろう?苦しかったね。今日は、お父様に教えておくれ。イーリンの心の中には、今どんな気持ちがあふれているんだい?」
「お父様……。」
イーリンは、たまらず父親の胸に飛び込んだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい。一人で解決できなくて、ダメな娘でごめんなさい。」
堰を切ったように、次々と言葉が溢れた。
「キャサリン様が怖いの。もう会いたくないし、殿下と一緒にいるところも見たくない。殿下にあっちへ行け、と追い払われるのも、もう嫌なの。キャサリン様の嘘で、人が騙されていくのを見るのも恐ろしいの。」
「私は止めなければならないのに、身体が動かないの。何か言えば、私も殿下にひどいことをされるわ。怖くて怖くて、喉がつまってしまうの。」
イーリンの目から涙がとめどなく流れ、ヘンリーのシャツを濡らした。ヘンリーは、娘が落ち着くまで優しく抱きしめ、そして、そっとソファーに座らせた。
「イーリンは、そんなに殿下とキャサリン嬢のことで苦しんでいたんだね。一つ教えてくれるかい?どうして私に、もっと早く相談してくれなかったのかな?」
「それは……。」
ふふ、とヘンリーは笑った。
「お前は優しい子だ。それに気が回る。私が忙しいので遠慮していたんだね?」
「はい……。」
「そして将来の王妃として、今の問題を自分で解決しなくては、と思っていたんだね。」
「その通りです……。」
肩をすくめてしゅん、とするのは、幼い頃に叱られたときと同じ仕草だった。ヘンリーは、叱っているのではないよ、と穏やかに伝えた。
「キャサリン嬢のことは相談しにくかったろう。これは私が聞くべきだったね。」
「いえ、そんな……。」
イーリンには経験の少ない男女のことであるし、ましてや王家に関わる問題だ。アンナが気心の知れた侍女だといっても、堂々とイーリンから相談はできなかっただろう。まだ母親がそばにいれば、イーリンも相談しやすかったのかもしれない。慣例に逆らっても、もっと領地に帰らせるべきだったかと、ヘンリーは後悔した。
その後、ぽつりぽつりと、イーリンは王都に来てからのことをヘンリーに話した。
ヘンリーが思っていたより、状況は悪かった。イーリンは怯えきっていて、アーサーの心を慰めるどころではないし、アーサー自身はかなりキャサリンに執着している。今の状況では、アーサーはキャサリンを手放すことはないだろう。
それにつけても、アーサーのイーリンに対する心無いふるまいに、ヘンリーは怒りを抑えられなかった。娘は国のためにアーサーと婚約したのであって、アーサーの好きにされるためではない。
「お父様。」
「何だい?」
「私、王太子殿下の婚約者には、ふさわしくないと思うのです。」
うつむいたまま、イーリンは続ける。
「私、殿下を愛することができません。愛される努力も、できませんでした。ただ、お側にいる時間が、早く過ぎればいいと思ってしまうのです。死ぬまでお側にいることを考えると、本当は、とても苦しい……。」
ヘンリーは、静かに聞いている。
「私がお側にいる間、私はちっとも殿下の行動を変えることはできませんでした。私にできたのは、代わりに学び、殿下の癇癪から、周りの方を少しばかり遠ざけるだけ。」
「キャサリン様は違います。あの方はわずかな時間で、殿下のお心を変えることができました。私に、あのような才能はありません。」
ふむ、とヘンリーは首をかしげた。
「それは、キャサリン嬢を将来の王妃にした方がよいと言うことかな?それとも、愛妾として、殿下のお側に置いておいた方がいいと言うことかな?」
「それは……。」
「イーリンは、キャサリン嬢が将来の王妃にふさわしいと思っているのかい?」
ヘンリーに問われ、イーリンは、一瞬息を詰めた。そして首を横に振る。
「……いいえ。あの方には、王妃に必要な見識は足りません。いえ、見識はこれから学ばれれば身につけられるかもしれませんが……。あの方には、自らの言葉への責任というものがないように見受けられます。そして、容易く嘘を吐かれます。それも、他人を巻き込んで。」
その通りであった。
キャサリンは、自分の作り話を、さも他人から聞いたかのように語ることがよくあった。その一番の被害者はイーリンだった。『キャサリン様が、イーリン様から伺ったと……』と、全く知らない話を何度聞かされたことか。
リリーやルイーゼも、同じような被害に遭い、迷惑をこうむっていた。ただ、リリーは冷たく「あの方と、そんなに親しくお話ししたことはございませんわ。」とはねつけていたし、ルイーゼも「軍神に誓って、私はそんなこと申し上げておりません!」と怒るので、次第に数は減っていったようである。
イーリンは、立場上アーサーとともにいることが多い。そして、そこにキャサリンが同席していることが多いため、リリーのようにはねつけることができなかった。
また、キャサリンの言葉をあからさまに否定することで、アーサーの勘気をこうむることも恐ろしかった。
実は一度、キャサリンが令嬢たちに話していることが、あまりに事実と違うので、訂正のために少し口を挟んだことがある。2〜3日経って、イーリンはアーサーに呼び出された。
人払いをされた部屋の中で、アーサーは腰の剣に手をかけ、「出しゃばるな、今度キャサリンに嫌がらせをしたら許さない。」と言ったのだった。
その後、さんざんイーリンを罵倒し、そばにあった花瓶を投げつけ、アーサーは部屋を出ていった。音を聞いたアーサーの側近が駆けつけ、怪我がないか見てくれたが、イーリンはしばらく震えが止まらなかった。
「……キャサリン様は、心を見つめているから、嘘をついても平気なのかしら?」
今度は、ヘンリーが横に首を振った。
「いや、あの娘はそんなところにはいない。あの嘘は生来のものだ。あの娘にとって、嘘は自分の欲しいものを手に入れるための、ただの道具だ。嘘を吐くことに、良心の呵責などないだろう。」
「そんな方がいらっしゃるの……。」
「あれはとても恐ろしい相手だ。お前一人では太刀打ちできない。これは、お前に力がないと言っているんじゃない。皆で力を合わせないと、勝てない相手なのだ。」
イーリンは急にヘンリーの方を向き、腕にすがってきた。
「お父様……。私が王太子殿下の婚約者から降りることはいけませんか。大変な我儘を申しているのは分かっております。どうか、どうか……。」
婚約解消。イーリンは、心の底ではそれを望んでいた。
イーリンは両手で顔を覆い、泣きじゃくった。ヘンリーはイーリンの細くなった肩を抱き、娘をここまで追い詰めた痴れ者二人に対して、さらに怒りが湧き上がってきた。
そして、これを口にしてしまいそうになるからこそ、イーリンは自分になかなか相談できなかったのだろう、と悟り、娘をいっそう不憫に思った。
「イーリン、殿下との件は、お父様に任せておきなさい。」
「申し訳ありません……。」
「そして、お前はしばらく領地に戻りなさい。まず身体を元に戻す必要があるようだ。」
「はい……。」
イーリンは、父親を失望させてしまったと思い、情けない心持ちでいた。父親の顔を覗こうと顔を上げると、そこには昔から変わらない、ヘンリーの優しい笑顔があった。
「イーリンはよく頑張っているよ。それなのにお前が壊れてしまいそうなのなら、それは婚約の方が間違っているのだ。」
「……!」
「すまなかった、イーリン。可哀想に、こんなに追い詰められて。」
ヘンリーはイーリンをひしと抱きしめた。
腕の中は温かく、子供の頃と変わらない父の匂いに、イーリンはまた涙が溢れてきた。
「お父様、ありがとうございます。」
「愛しているよ、イーリン。それはずっと変わらない。」
「愛しております、お父様……。」
「ちゃんと養生するんだよ。」
「はい……!」
久々の安心する温もりに、イーリンは次第に微睡んでいった。
お読みいただいてありがとうございます。頼れるお父さんっていいですよね。次は家族や友人たちが出てきます。次もお付き合いいただけると嬉しいです。