2 凍る心
イーリン・マクスウェル:主人公、公爵令嬢
ヘンリー・マクスウェル:イーリンの父、公爵
アーサー・ギーベル:王太子、イーリンの婚約者
フィリップ・ギーベル:国王、アーサーの父
キャサリン・パー:男爵令嬢、王太子のお気に入り
マクスウェル公爵領は、ギーベル王国の5分の1を占める。
肥沃な農地が広がり、多くの農作物を生産する一方で、東の隣国との交易も盛んであり、文化的にも技術的にも高いものを有していた。多くの領民は飢えることなく、比較的安全に生活できるため、領主に対する不満も少なかった。
当代領主であるヘンリー・マクスウェルは、外交手腕もさることながら、人格的にも優れており、国内外に影響の大きい人物であった。
当然に国内貴族の中で、マクスウェル公爵家は筆頭の位置にあり、王家も一目置かざるを得なかった。
敵に回したくないと考えれば、味方に取り入れたいものである。
そのため、王国の歴史の中で、公爵家からは複数の王妃が輩出されていた。
現王フィリップ・ギーベルには、2人の王子と1人の王女がいる。
現王妃は他家の出身であったが、身体が弱く、3人の子をもうけたあとは、表に出ることはほぼなくなっていた。
そのような中、同じ年に生まれた王太子であるアーサー・ギーベルと、マクスウェル家の次女であるイーリン・マクスウェルの間に、幼いころから婚約が結ばれていたことは、何ら不思議なことではなかった。
イーリンは色素の薄い真っ白な肌、紫の瞳、プラチナブロンドの髪を持つ、愛らしい少女だった。
末娘のイーリンは、両親はもちろん、長女の姉、嫡男の兄にも可愛がられて育てられていた。
「王太子妃、そして将来の王妃としてのふるまいを心掛けなさい。」
両親は優しく、時に厳しくイーリンを導き、教育した。幼い頃は言われている意味を理解することはできなかったが、優秀だったイーリンは、教えられたことを十分に吸収した。
成長するにつれ、イーリンにも大局が理解ができるようになってくると、姉や兄とともに、国政や領地管理などについても学ぶようになった。
「領民あっての領主なのだから、皆が豊かになる方法を考えなさい。」
「人の信頼を得るためには、まず自分が信頼に足る人物になるのだ。」
「必要なものを出し惜しみしてはいけないが、不必要な贅沢もしてはいけないよ。」
両親はそのように行動していたし、傍で彼らを見ていれば、自然と大体の勘所を覚えることができた。
もちろん現実は、きれいごとだけでは済まない。その点についても、両親は我が子に教育を施してくれた。
細かな意見の違いこそあれど、姉も兄もイーリンも、上に立つものとして必要な知識や覚悟を身に着けるように、常に努力していた。
しかし。
(王太子殿下は、どうして同じような考えをもたれないのだろう?)
10歳になったころ、イーリンはふと疑問に思ってしまった。
王太子は物心ついたときからの婚約者である。彼と将来婚姻を結ぶことに、異論はない。
ただ、どうも考え方が、両親や姉や兄と違うのだ。
婚約者ゆえに、王太子と手紙のやり取りをしたり、公爵と共にイーリンが王城に参ったりすることがある。その際の王太子の言動に、イーリンは戸惑うことが多くなっていた。
「王太子殿下は、王は下々のことなんて考えなくていいっておっしゃるの。でも、国民あっての国でしょう?やっぱり、治安の悪さや貧しさに苦しむ方がいるのなら、私たちは無関係ではないし、改善するように努力する必要があるのではないかしら。」
イーリンは一度、夕食の場で家族に尋ねてみたことがある。その場では、父親である公爵は「殿下には殿下のお考えがあるのだろう。あまり利口ぶって意見するのは、はしたないよ。」とイーリンをたしなめた。
でも、その後でイーリンは両親の部屋にこっそりと呼ばれた。そして、公爵から「私達も、本当はお前と同じ意見だ。しかし、お前の身のためだから、殿下と議論するのはよしなさい。」と言われた。
(お父様がそうおっしゃるのであれば、理由があるのだろう。)
両親が自分の意見を認めてくれたことで満足したイーリンは、父親の言うとおりにすることにした。
そして、公爵はつけ加えて言った。
「王太子殿下のなさることで、お前が疑問に思うことや、困っていることがあれば、必ず私かお母様に言いなさい。お前が話がしたい、と言えば、私は必ず話を聞く時間を作るから。」
(まあ、忙しいお父様やお母様が、私のために時間を作ってくださるのね。)
それはとても嬉しい申し出だった。イーリンは、頼もしい父親も、優しい母親も大好きだった。
「わかりましたわ。殿下のことで悩むことがありましたら、お父様かお母様にお伝えいたします。」
それからしばらくは、王太子の意見に疑問を感じることはあっても、その場では相槌をうつだけにとどめていた。
そうしていると、王太子とのやり取りを平和に終えることができていたし、父親や母親は約束通りに話を聞いてくれ、時に助言もしてくれたので、イーリンはあまり困ることなく過ごせていた。
しかし、イーリンが社交界に出る年齢になると、状況が変わった。
将来の王妃であるということで、イーリンは王都にある館に住むことを命じられた。
もともと父親は領地と王都の往復をする生活であったので、1年の半分は一緒に過ごすことができた。姉や兄も王城で催される宴に出席するため、時々王都を訪れることがあった。ただ、領地の管理を任されている母親とは、めったに会えなくなった。
一方、婚約者である王太子とは顔を合わせることが多くなり、その言動についても目にする機会が増えた。イーリンの疑問は、ますます膨らむばかりだった。
王太子であるアーサーは、国王ゆずりのグレーの目と、王妃ゆずりの金色の髪をもって生まれてきた。
すらりと背が高く、顔だちも整っており、少し背の低い第2王子や褐色の髪の妹王女と並ぶときには、どうだと言わんばかりに胸を張り、周りを見渡していることがよくあった。
(アーサー殿下は、確かに美しい容姿をしていらっしゃるわ。でも……。)
キツネ狩りなどにしょっちゅう行き、腰巾着たちと遊び回り、勉強は嫌がった。
相変わらず、下々の者は税金をちゃんと払っておればよいのであり、払えないのは怠惰なだけだ、という考えを、憚りなく口にした。
イーリン自身は父親の教えを守り、アーサーにほとんど意見をしなかった。そうしていれば、アーサーは面白くはなさそうではあったが、さほど問題も起こらなかった。
しかし、アーサーの側近が発言をたしなめたり、意見をしたりしようものなら、アーサーは激しく怒り、時には殴る蹴るなどの暴行にいたることがあった。見かねてイーリンがそれを止めようとすると、イーリンまで叩かれたり、突き飛ばされたりした。
傲慢で快楽主義の癇癪持ち。
それが、最近のアーサーの姿であった。
小さな頃は、送られてくる肖像画や、実際に会うアーサーの姿を見て、この人の婚約者なのだ、と誇らしい気持ちになることもあった。
でも、今は全く心が通わない。
容姿のことで、人を見下す態度がつらい。
民を奴隷のように扱う考えがつらい。
気に入らないことがあると、すぐに怒り出す姿がつらい。
(自分から、心を閉ざしてはだめ……。)
そう思おうとするが、アーサーと会うたびに、心が冷たく、硬くなっていくのを感じた。
イーリンは、父親に相談すべきかどうか図りかねていた。
(私のことで、あまりお父様を煩わせてはいけないわ。)
母親は領地にいるので、気軽に相談することはできない。しかし、目に見えて忙しい父親の時間を奪うこともはばかられた。
何よりイーリンが父親への報告をためらったのは、以前とは異質な困り事が増えたためだ。
それが、キャサリン・パー男爵令嬢の存在だった。
お読みいただいてありがとうございます。次回はもう一人の敵が出てきます。次の話もお付き合いいただけると嬉しいです。