第9話 扉の前で、言い切れない
自分のための朝だと、3ヶ月間言い聞かせてきた。
開店前の台所に立って、皿を棚から引き出した。1枚。次の手が、無意識に2枚目へ伸びる。気づいて、止まった。
2枚。
1人分しかいないのに、2枚。
いつからそうなったのか、自分でも分からない。毎朝繰り返す動作が、記憶より先に体へ染みついていた。棚から引くのが当たり前になっていた——誰かの席を用意するのが、当たり前に。
鍋を覗いて木べらでかき混ぜ、塩の量を確認する。一つまみ少ない。手が止まる。甘みもほとんど入れていない。棚の胡桃の袋は3日前から触っていない。使おうとするたびに、手が別の食材へ逃げる。全部、体が覚えているからだ。誰に頼まれたわけでもないのに、まだそうしている。
(……いつまでやっているんだ、私は)
胸の奥で言う。声には出さない。
ここは王宮の厨房ではない。私は配膳記録官ではない。誰かの食の癖を管理する義務も、記録に残す義務も、3ヶ月前に全部置いてきた。それで良かった。良かったはずだ。
椅子の脚を引いて、2枚目の皿を棚へ戻した。次に胡桃の袋を引き出して、まな板の上に置く。今日から使う。誰かの不耐性に合わせる理由は、どこにもない。
棚の隅で、小さな印箱が目に入った。
指が、反射で動いた。受領印を——探していた。誰の書類も、ここには1枚もないのに。
(……本当に、どうかしている)
布で指先を拭い、印箱を奥へ押し込む。視界から消す。消したところで、体に染みたものは消えない。分かっていても、見えないほうがましだ。
戸の鈴が、鳴った。
開店まで、まだ1刻以上ある。
胸の奥が、理由もなく冷えた。
◇
扉に手をかけるまでに、1呼吸だけ間があった。
業者なら裏口から声をかける。旅人が迷い込むには路地が細すぎる。鈴の音は一度きりで整っていた——慌てた人間の音ではない。
分からない。来るはずのない時間に来るはずのない客が、来た。
扉を引いた。
辺境伯が、そこに立っていた。
旅装のまま、帽子なし。首筋に旅の冷えを残した長身が、入口に収まっている。壁際の端の席で見た横顔とは違う。今は、この食堂の扉の前に、まっすぐ立っている。
懐が少し膨らんでいた。
背表紙のない、薄い冊子——あの形だ。棚の最奥に差し込んでいた、あの1冊。それがこの人の懐にある。
(見つけた。中を、読んだ)
思考がそこで詰まる。胡桃。左手が止まる。甘みを我慢する癖。誰にも言っていない小さな弱点が、あの帳面には行になって並んでいた。それを今この人が持っている。暴かれた。職務逸脱の証拠を本人に持たれた——それだけならまだ謝りようがある。
問題は、帳面の最後の1行のことだ。「この行は後で消す」と書いて、消せなかった、あの行。
喉が、動かなくなった。
「……胡桃の礼を言いに来た」
声は低く、短い。言い慣れない言葉を、それでも最後まで言い切った。
私の肺から、息が静かに消えた。
◇
通してしまった、と気づいたのは彼が中へ入ってからだった。
体が先に扉を開け、奥へ案内して、椅子を引いていた。引きすぎて脚が床を引っかき、場違いな音がした。
「……立ったままでいい」
「いえ、どうぞ。お座りください」
声が報告書の結語みたいに出た。彼は一拍の間を置いてから、素直に座った。
カウンターの端に両手をつき、立ったまま向き合う。台所の音は、鍋の湯気が立つ小さな音だけだ。冬の白い光がカウンターの端を照らしている。謝罪の段取りを踏まなければならない、と頭が言っている。
「あの帳面は」
聞かれる前に言う。「私が在職中に作成したものですが、職務上の正規記録ではございません。個人的な観察を無断で——」
「いい」
「……でも、内容の性質上、弁明の余地が」
「後でいい」
短い返答が、文の途中で叩き切る。謝罪の段取りを踏もうとするたびに、一言でずらされる。カウンターの端を握る指に力が入った。
彼の視線が、こちらへ向いた。まっすぐで、逸らさない。言い慣れない言葉を言う直前の——あの一拍の溜め。宴席で見た、あの間だ。
「貴方が必要でした、と」
◇
喉の奥が、音もなくひっくり返った。
貴方が。
私の仕事が、ではない。帳面が、記録が、献立が、でもない。
私が、と言った。
カウンターの端を握る手から、力が抜けていく。代わりに膝が震えた。立っていられないのが情けなくて、体重をカウンターに預けたままうつむく。泣いてはいけない。こういうとき泣くのは惨めだ。仕事の不始末を感情で誤魔化そうとしている反応だ。謝ってから泣くのが筋で、謝ってから泣くべきで、謝るのが先で——
「……まず、食材の確認を」
声に出たのは、それだった。
食材の確認。今日の仕入れ。在庫の棚卸し。全部業務の言葉だ。業務に逃げている、と自分で分かっていた。分かっていても、それ以外の言葉が今は形を保てない。胸の奥が熱くなりすぎて、業務の言葉しか声になれない。
「今は、しなくていい」
静かだった。
命令でも叱責でもない。怒ってもいない。「今は」という、小さな余白がそこにあった。
喉が熱い。目の奥が痛い。
それが涙だと理解するより早く、顔を窓の方へ向けた。冬の光が白くて、庭の塀の石組みしか見えなかった。深く息を吸う。吐く。もう1度——吐けなかった。
指先で、目の端を素早く押さえた。
誰にも見せない速さで、素早く。
3ヶ月間、誰の評価も要らないと言い聞かせてきた。誰かのために献立を立てる必要もないと。ここへ来たのは、そのためだ。誰にも「誰にでもできる」と言われない場所で、自分のためだけに朝を始めるために。
なのに、皿は2枚あった。塩は控えめだった。胡桃は棚に残っていた。
体が、ずっと覚えていた。
◇
少しだけ、間があった。
「……来てくださって、ありがとうございます」
振り返らずに言った。窓の白い光の中で声を出すだけで精一杯で、他は何も添えられなかった。
「礼はいらない。俺が言いに来た話だ」
立ち上がる気配がした。足音が扉の方へ向かう。取っ手に触れる音がした。
「ここに……」
声が、そこで止まった。
「……ここに?」
振り返ったとき、彼は取っ手を握ったまま半歩こちらを向いていた。左手が、一拍だけ止まっている。窓の白い光が長くなって、彼の足元まで届いていた。
続きが、来なかった。
私も、何も言えなかった。
短く息を吐いて、彼が視線を外す。
「用務札は残してある。……また、来る」
扉が開いた。冬の空気が台所の底まで流れ込み、鍋の香りと混ざった。扉が、閉まった。
◇
台所の中に、私一人になった。
皿が1枚、カウンターに残っている。まな板の上の胡桃の袋は、今日から使うはずだった。誰かの不耐性に合わせなくていい。そのはずだった。
なのに手が棚へ向かって、袋を戻していた。
気づいて止める。止めてから、やっぱり戻した。
扉の近く、棚板の隙間に細長い紙が1枚、挟まっていた。
日付と短い署名が入った宰相府の書式だ。記録官だった私には、一目で分かった。「封を割る前に、誰が触れたかを残す」——開封証紙だ。赤い蝋が押されている。まだ、割れていない。
(いつ、ここに)
彼の懐から、気づかないうちに落ちたのだろう。私が扉を開けて、椅子を引いて、窓を向いていたその間に——もう公がここまで入ってきていた。
「ここに……」の続きを、私はまだ知らない。
でも、今日の午前中のことに、もう日付が打たれた。
この幸福に、記録が乗った——その意味が怖いのか嬉しいのか、今の私にはまだ判断できなかった。
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