第8話 この一冊は、何のために
記録室の扉は、想像より重かった。
昨夜の蕁麻疹で目が覚めた時、侍医は「疲労でしょう」と言い切った。疲労で済むなら腹は立たない、とリュシアンは思った。立つのは、その診断に納得できないからだ。腕の赤みは旅疲れで出る形をしていなかった。食が原因なら、記録がある。記録があれば、根拠がわかる。夜明け前にそこまで考えが固まり、朝になるのを待って廊下へ出た。
鍵番が目を丸くした。貴族が直接来ることは、手順書の想定外らしい。困惑が顔をよぎったが、男はすぐに手順を守り、鍵簿を開いた。署名のためのインク壺の蓋が硬く、捻った瞬間に黒いインクが関節まで跳ねた。鍵番が1拍の沈黙ののち、無言で布を差し出す。
「……布です」
「分かっている」
指先を拭い、署名を書いた。受け取った鉄鍵はずっしりと重い。廊下を歩いて記録室の扉まで来て、鍵穴に差し込み、捻る。金属が擦れる音がやけに大きく反響した。封札の縁が指先に引っかかり、紙の繊維がほどける感触がある。
――ここは、料理より言葉が人を殺す場所だ。
そういう空気が、中から滲んできた。
薄暗い棚の列が現れた。
壁から壁まで、同じ高さの背表紙が揃っている。王宮の正しさとは、こうして棚に並べることなのだと思いながら、棚札の番号を追って歩いた。目的は単純だ。昨夜の蕁麻疹の原因を知りたい。ただそれだけのはずだった。
手前ほど記録は綺麗で、空白が多い。
「特記事項なし」
ページをめくるたびに同じ文字が現れた。紙の上で、何も起きなかったことにされている。昨夜の席で彼の身体が拒んだ違いが、どの棚にも居場所を持たない。食卓の記録が正しければ、腕の赤みは侍医の言う通り疲労だということになる。
袖の下でまだ熱い腕が、それに反論していた。
整然とした空白が怖い、と思ったのは初めてだった。空白は何もなかったのではなく、何も書かれなかっただけかもしれない。書く手がなくなれば、空白だけが増えていく。
5番棚を過ぎ、8番棚へ進むと紙の色が変わった。古い帳面は茶色く変色し、背表紙の文字が薄れている。蝋燭の届かない最奥は、革と埃とインクの匂いが重なった。
最奥の棚で、足が止まった。
1冊だけ、違う。
背表紙がない。分類札もない。隣の帳面と背の高さだけ揃えて差し込まれているが、その1冊だけ名前を持たない。棚板に、持ち出し札を掛けるための釘穴だけが空いていた。誰かが意図してここに置いた。それだけは分かった。
引き抜くと埃が舞い上がった。喉の奥に痒みが走る。咳が出そうになり、声を殺した。廊下に存在を知らせる理由はない。机まで運び、表紙を開く。
1頁目に、淡々と書かれていた。
『辺境伯殿 観察記録』
それを読んだ瞬間、胸の奥がひやりとした。
原因を探しに来たはずだった。だがこれは原因の帳面ではない。これは――自分を、見ていた人間の視線だ。
頁をめくる。筆跡は整然としている。日付があり、出来事があり、細かい注記がある。感情が入っていないぶん、事実だけが刃になった。
胡桃。左手が止まる間合い。甘味を断る時の角度。端の席を選ぶ理由。水を取る頻度。誰にも話したことのない、話すつもりもなかった小さな弱点が、行になって並ぶ。ある年の秋の記録に「イチジク」という単語があった。目が止まりそうになり、止まる前に次の行へ移した。
5年分が、静かに積まれていた。
「……ふざけるな」
声は低く、しかし震えた。
怒りの向き先が書かれた内容ではないと気づいたのは、次の瞬間だった。怒っているのは、書いた人間がもうここにいないからだ。弱点を把握し、皿ごとに避けていた誰かが――もうこの王宮にいない。だからこそ昨夜の席に「特記事項なし」しか残っていなかった。記録が綺麗であることの意味が、今になってわかった。
頁の端に、消し跡があった。書いて、消して、また書いた線が残っている。何かを迷い、それでも残した一行だ。
「……この行を、消さなかったのか」
声にならなかった。
住所だった。ラヴェンナ街道、食堂。他の行よりわずかに筆圧が薄く、消そうとして消せなかった証拠が紙に刻まれていた。その文字だけが、急に現実の匂いを帯びた。
◇
扉の方で人の気配がした。
「何かお探しで?」
廊下から使用人が顔をのぞかせた。リュシアンは帳面を脇に挟み、振り返った。
「帳面だ」
「……はい」
使用人が1拍止まった。棚を見回し、棚を見回し、もう1度こちらを見た。その目が言っていた。――全部、帳面ですが。何も言わずに廊下へ引っ込んでいく。
笑う気にはなれなかった。しかしその間の抜けた1拍が、胸の締まりをほんの少しだけ緩めた。
棚へ戻る前に、歓迎晩餐の記録を手に取った。先日の席がすでに製本されている。
「特記事項なし」
今度はその文字が別の意味で目に刺さった。空白は正確さではなく、埋める手が消えた跡だ。食卓の安心は誰かの運用が毎日作り続けていたものだ。その手がなくなった途端、整然とした帳面の中の空白だけが増えていく。昨夜の蕁麻疹も、今週の外交書簡の白欄も、1本の線で繋がった。
背表紙のない帳面を懐に入れた。
角が肋に当たる。薄い帳面のくせに、重い。これだけの重さを、誰かが名前もなく棚の奥に置いていた。
扉を後ろ手に閉める。金属の音がひとつ鳴り、廊下の冷えた空気が首筋を撫でた。
宰相府への廊下を歩きながら、礼の文を口の中で組み立てようとした。
『貴殿の業務により――』違う。報告書だ。
『感謝する。必要だった――』途中で詰まる。必要という二文字が、口に出すほど私事になる。
何度やっても言葉が硬い。
消せなかった1行が、行き先になっている。行けば、会える。礼を言える。それが政治でも義務でもなく、ただ当然のことだと、廊下を歩きながら初めて形になった。
――これは、誰が、何のために俺を記したのか。
答えは、扉の向こうにある。
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