表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「連載版」「献立なんて誰にでも組める」と婚約破棄された宮廷の配膳記録官ですが、帳面72冊が止まったら王宮の食卓も止まるようですよ  作者: 夢見叶
第5部 監査・交渉・逆転加速 第13章 供給停止寸前──交渉戦が始まる

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

67/93

第67話 火に近い紙束、言えない理由

 焦げた紙は、燃えた匂いより先に、隠したい匂いを出す。


 商会の保管室でその束を見つけたとき、私は最初に黒ずんだ端よりも、黒くなっていない部分を見た。炙られたのは束全体ではない。端の、しかも摘要欄に近いところだけ。火事でこうはならない。消したい列だけに火を寄せた跡だ。


 指先を伸ばしかけたところで、横からリュシアンの声が落ちた。


「触るな」


 珍しく強い声だった。


 私は手を止め、代わりに顔を上げる。


「危険ですか」


「……危険だ」


 短い。短すぎる。相手が誰かを知っている人間の言い方だった。


 帳場係は青い顔で棚の鍵を握りしめている。室内は乾きすぎていて、紙の擦れる音だけがやけに大きい。私は布越しに束をずらし、無事な頁と焦げた頁を並べた。数字の列は生きている。差額、数量、納入先。抜きたいのは名ではなく、繋がりだ。


「燃えたんじゃない」


 独り言のように言うと、リュシアンの眉がわずかに動いた。


「そこだけ燃やしかけたんです」


 答えはなかった。否定もなかった。


 私は焦げた頁の摘要欄を指で追う。市場の高値が、王宮へ入る頃には別の名目へ変わっている。差額は消えるのではなく、移されている。誰かの懐へではない。もっと厄介なところへ。裁可、承認、通す権限。現場の外側。


 だから彼は、止めたのだ。


「誰の名ですか」


「名ではない」


「なら何です」


 彼は少しだけ黙り、視線を逸らさずに言った。


「権限だ」


 その一言で、保管室の空気が変わった。


 相手は現場の商会主ではない。現場に高値を言わせ、供給を絞り、その差額がどこへ流れるかを知っている側だ。


 私は腹が立った。危険だからではない。隠される側に置かれたからだ。


「隠すなら全部隠してください」


 刺すように言うと、彼はすぐには返さなかった。


 たぶん返せない。守りたいのに、私を外したくない顔をしている。


 その不器用さまで含めて、今は邪魔だった。


 そのとき、室の奥からくぐもった声がした。


「紙まで火に寄るな」


 ボルドーだった。焦げた束の端を確かめようとしたらしく、帳場係が顔色を変えて制止に入った。ボルドーは一歩退き、ひと言だけ言って黙った。真顔のまま、それだけだった。


 重くなりかけた室内の空気が、少しだけほどけた。


 私たちは保管室の脇にある仮机へ移った。


 焦げた頁は布に包み、無事な頁だけを広げる。差額の欄を縦に追うと、同じ幅の数字が3度繰り返していた。仕入れの名目は変わる。不作でも、街道混雑でも、祭礼前でも――どれだけ言い訳が増えても、上乗せの幅だけが同じだ。


「この差額、市場の見積書と揃っています」


 声に出すつもりはなかった。でも口が動いた。


 リュシアンは答えず、紙の角へ指1本分だけ間を空けた。言葉を足されると、今は気が散る。けれどその沈黙は、聞いているという距離の取り方だった。


 封の癖、紐の結び目の浅さ、摘要欄の数字の寄せ方。商会名が違っても、帳面の手つきは1つだ。高値を市場へ流す手と、差額を権限側へ渡す手が、同じ帳場から出ている。そして焦げた列は――消せば目立つと分かっていたはずなのに、それでも炙られている。消せなかったのではない。消す時間がなかっただけだ。誰かが急いでいた。


 帳場係は鍵束を握ったまま、机の方を見ていない。紙紐の結び目に指を沿わせるだけで、何も言わない。恐怖で黙っている人間の手つきだ。供給が止まった理由を、この人はとっくに知っている。口を割れば何かが止まると知っているから、あの沈黙がある。


 机を片付け、回廊へ出ると、外の光が目に刺さった。


 少し遅れてリュシアンが出てくる。私を先に出した歩き方だった。


「セレスティーヌ」


 名前を呼ばれて、足が止まった。


「なんですか」


「……危険の名を出せば、止められる仕事が増える。だから言わなかった」


 低い声だった。謝罪でもなく、言い訳でもなかった。それ以上の言葉を持てない人間が、それ以上を出そうとした一言だった。


 私は前を向いたまま、振り返らなかった。


 腹が立っているのは本当だ。隠された側に置かれたのも事実だ。けれど、守りたいのに外したくない、あの不器用な顔が邪魔だったのは半分本当で、もう半分は別の話だった。


「分かりました」


 ようやく言えた。


「ただ次からは教えてください。知らないまま近づいて燃やされたら、順番が狂います」


 彼はすぐに返さなかった。


 何かを言いかけて、止めた。


 代わりに、一歩だけ横へ詰める。


 隣に来た、というそれだけが、静かに落ちた。


 私は3拍だけ動けなかった。言いかけた言葉の続きを、彼は持っているはずだ。けれど今日は出てこなかった。20日後に形を持って来るつもりなのか。それとも、持てないまま20日が終わるのか。


 利益線は見えた。差額、権限、焦げた列。3つが揃えば裁きへ通せる。


 では、誰がこの止めた利益の責任を取るのか――その答えだけを、私はまだ持っていない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ