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「連載版」「献立なんて誰にでも組める」と婚約破棄された宮廷の配膳記録官ですが、帳面72冊が止まったら王宮の食卓も止まるようですよ  作者: 夢見叶
第1部 王宮が止まる/迎えが来る 第2章 8日目から、王宮が詰む

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第6話 歓迎の席まで残りわずか

 銀のスプーンが器に沈んだ瞬間、私の首筋が冷えた。


 淡い緑の湯気。甘くない、清々しい香り。

 ――セロリだ。


 止めるべきだった。

 止める人間が、今夜は私しかいなかった。


 王太子殿下が1口、飲む。

 目元が、ほんの僅かに細くなる。


 6歳の子どもがかすかに顔をしかめる、その程度の変化だ。

 だが誰も、その変化を読める者がいなかった。


 スプーンが布に触れる音がした。

 いやに大きく聞こえた。


「……この料理は誰が決めた」


 声は静かだった。

 だからこそ、喉が凍る。


 怒鳴り声なら謝れる。叱責なら頭を下げる。

 だが「誰が決めた」という問いは、謝罪を欲していない。


 責任線を1本、引けと言っている。


 私は笑顔を保ったまま、袖の内側で言葉を探した。

 根拠。確認者の名前。禁忌欄の照合印。


 ひとつも出てこなかった。


 給仕長の唇が動いた。音にならない。


「……本日は、引き続き――」


 誰かが取り繕う声を出したが、殿下はすでに視線を窓へ向けていた。


 罰は怒声でなく、静けさで刻まれた。



 その夜、厨房は差し替えを走らせた。

 別の皿が滑り込み、何事もなかったように席は終わった。


 終わった、のではない。

 帳尻を合わせただけだ。


 次の夕食が来れば、また同じことが起きる。

 止める人間を、誰も呼んでいないから。



 翌朝から私は外交書簡の下書きに入った。


 書記官が筆を走らせる隣で、禁忌確認の根拠を書く欄を見た。

 白い。ペンを置いても、白いままだ。


「……この欄だけ、空きます」


 書記官の声は小さかった。

 責任は彼にない。根拠を書けないのは私の側の問題だ。


 あの引き継ぎ20頁には、禁忌確認の手順がひとつも書かれていなかった。


 いや、書かれていないのではない。

 それを書けるほどの情報が、20頁に入りきらなかったのだ。


 緊張した書記官の肘がインク壺を傾けた。

 私は反射で紙束を引き上げた。外交書簡より紙を守った。


 その間、欄は白いままだった。



 3日後、配置表が外れたという話を侍従から聞いた。

 厨房の片付けの邪魔だから、と言ったのが誰かは分からない。

 記録には残らなかった。



 18日目。

 厨房長ボルドーが献立の「削り」を走らせた。


 食材が足りない分を、見栄から削ぎ落とすやり方だ。

 怒鳴り声は出なかった。代わりに鍋蓋がカチン、と鳴った。


 それが圧だった。



 23日目の朝。


 竈に油が走った。水桶が定位置にない。


 配置表のない厨房で、誰も声を上げる前に炎が上がった。

 濡れ布が投げられ、鍋が引きずられ、煤が舞い上がった。


 小火で済んだ。


 報告を受けたとき、私の手の中の書類が白紙に見えた。



 1時間後、私は厨房へ足を向けた。


 黒くなった床板が光を吸い込んで輝かない。

 壁の煤は、まだ温かかった。


 ボルドーが壁に背をつけて座り込んでいた。

 立つ気力がないのではなく、立つ必要が見当たらない顔だ。

 煤で黒い指が膝の上で開いたまま動かない。


「……ボルドー」


 返事がなかった。

 しばらくして、厨房長は静かに言った。


「あの子は、毎朝俺より先に来ていた」


 ただそれだけだ。

 説明も告発も、何もない。


 私は黙って立っていた。


 あの子。配膳記録官。引き継ぎを20頁に圧縮した、あの女。

 毎朝厨房へ来て、何をしていたのか。

 帳面に何を書いていたのか。

 72冊のうちどの一冊に、今夜の事故を止める一行が書かれていたのか。


 私には、分からなかった。



 宰相府へ戻り、行事板の前に立った。


 机の上に引き継ぎ20頁を置いた。

 軽い。薄い。掌に乗せても、ほとんど重みがない。


 棚には72冊がある。


 禁忌一覧、食材の起源、配置の手順、行事別の嗜好の記録――ひとりの人間が十数年かけて積み上げたものが、紙の背を揃えて並んでいる。


 私はそれを「要点に絞った引き継ぎ」と呼んでいた。


 違う。


 二十頁は要点ではない。

 72冊の氷山の、頂点だ。


 責任線を「厨房の不手際」と呼ぼうとしていた自分が、ゆっくり崩れた。


 不手際ではない。

 属人芸を制度と呼んでいた、私たちの怠慢だ。


 ひとりの記録官の帳面が、禁忌を止め、地雷を踏まず、水桶を正しい位置に置き続けていた。

 帳面がなくなった途端に、事故が連なった。


 これは偶然ではない。


「……次は、火か」


 自分の声が低く落ちた。



 そのとき書記官が、真っ黒な指で「火元点検札」を壁へ掛けようとした。

 逆さだ。


 ボルドーが無言で立ち上がり、向きを直した。

 「確認済」の文字が煤の壁に正しく現れた。


 何も確認できていない。

 だが札は、正しい向きで壁に掛かった。



 私は行事板へ目を向けた。


 年に2度だけ王都へ来る辺境伯の歓迎晩餐の札が、右端に留まっている。

 冬の席だ。外交でも社交でもなく、あの辺境伯が誰を信じるかを問う席だ。


 今の厨房で、あの席を回せるか。


 歓迎晩餐まで、21日。


 20頁を棚へ戻した。

 薄い紙が72冊の背の前で、ひどく軽かった。

読んでいただき、ありがとうございます。


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