第5話 穴の空いた発注先が揃う
木箱の底が、見えた。
搬入口の冷気の中で、下働きの息が一拍詰まる。
鍋の湯気は何も知らない顔で舞い続け、収穫祭の喧騒が厨房の外から薄く届いていた。
私は笑顔のまま、木箱の縁に両手をかけた。
根菜。肉。どちらも——3割、足りない。
頭の中で数字が先に動いた。
3割の不足は料理の3割欠損ではない。席数分の穴だ。宴席に穴が空けば噂になる。噂は外交の傷になる。
8日前、ルクセイア大使の背中が扉の向こうへ消えたあの午餐会の光景が、脳裏でもう一度光る。
あのときは間に合わなかった。今度も間に合わないとなれば——言い訳を積む暇も与えてもらえない。
下働きが「どうしましょう」と呟いた。
私は笑った。
「大丈夫です。市場で揃えてきます」
声を出してから、自分で逃げ道を塞いだと知った。
宴席は止められない。止めれば——また誰かの背中を見送ることになる。
袖口の布を、指でそっと握り締める。爪の先だけが白くなっていた。
◇
王都の市場は、収穫祭の熱で沸き立っていた。
豆売りの声が弾け、旗が揺れ、香辛料の刺さる匂いが喉を突く。
人混みを縫って歩くたびに肩が当たり、足元で果皮が転がった。
どこもかしこも「今日だけ」の値段を並べていた。
最初の商会の男は木箱を覗き込みもせず、私の顔だけを見て値を差し出した。
「今日中? ならこの値だ」
紙の上の数字が、平気な顔で跳ね上がっている。
従者が「他を当たりましょう」と囁いた。
当たった。2軒目、3軒目も答えは大差なかった。4軒目にいたっては、値がさらに上がった。
「祭りですから、どうにも」
「今年は不作で……」
どこも同じ言葉が返ってくる。
笑顔で聞いた。笑顔で頷いた。
それでも、発注控えの空欄を数えるたびに、選べる先がどこへ行っても狭いという事実が、じわじわと輪郭を持ち始めた。
(どうして、こんなに狭いの)
引き継ぎを思い出す。
20頁。軽くて薄い紙束。72冊の帳面があるとは1行も書かれていなかった。「あとは現場で判断を」と最後に書いてあった、その一句が今この状況の根っこだ——そう思えば、腹の底が音もなく燃えた。
前任があの数字を全部把握していたなら、こんなふうに市場を走らずに済んだ。選択肢が狭いのも、値が跳ね上がるのも、全部——引き継ぎが足りなかったからだ。
笑顔のまま袖口を押さえた。
涙が出そうなわけでも、怒鳴りたいわけでもない。ただ、この目に見えない疲れをどこへ置けばいいかわからなかった。
私は頷いた。笑顔のまま、高値を承認した。
爪先だけが、ずっと冷たいままだった。
◇
宴席はどうにか回った。
「回った」というより「崩れなかった」のほうが正確だ。
品数は削れた。席の華やかさも削れた。それでも皿の上に何かを乗せ続けたのは、ボルドー厨房長がいたからだ。
あの人は一言も怒鳴らなかった。足りない食材を黙って数え、「足す」ではなく「削る」順を声に出し、下働きたちがその背中を見て動いた。
宴の準備の途中、誰かが「面倒だから今日は無しで」と言いながら、壁の配置表を外した。
あっという間だった。私は確かめなかった。確かめる余裕がなかった。
宴席の後、ボルドーが無言で鍋蓋を閉めた。
カチン、と音だけが厨房の隅まで届いた。
誰も声を出さなかったが、下働きが一斉に背筋を伸ばした。
「……次は、冬の席だ」
低い声だった。私ではなく、ボルドー自身へ向けたひとりごとのように聞こえた。
その言葉の重みが、私にはわからなかった。
◇
回廊へ出て、発注控えの束を胸に抱え直した。
高値を承認した朱印が、まるで罰のように紙の上に並んでいる。
廊下の向こうで侍女たちの声がして、視線がこちらへ流れてくる気配がした。
「また仕入れが滞ったそうよ」
「前の記録官が引き継ぎをしなかったから——ですって」
足を止めなかった。振り返らなかった。
事実を言っているだけだ。20頁では足りなかった。あの記録官が72冊の中身をきちんと渡してくれていたなら、今日こんなふうに市場を走る必要はなかったはずだ。
(悪くない。私は悪くない)
心の中で繰り返して、宰相府の扉の前で立ち止まる。
冷気と話し声の中で、発注控えの紙端が指の下で少し傷んでいた。
深く息を吸って、笑顔を作る。笑顔だけは、昔から得意だった。
◇
宰相府では、書記官が清書の途中でインク壺に肘を当て、慌てて押さえていた。
宰相が反射で紙束を引き上げる。壺が静まるまでの数秒、二人が無言で動きを止め——何も解決していない顔で互いを見た。
おかしくて、笑いかけた。止めた。今夜は笑える状況ではない。
宰相は机に向き直り、請求書の束を繰った。
私が書類を差し出すと、目だけで受け取りの合図をして、視線はすぐに手元へ戻る。
退出の許可を待ちながら、机の上をなんとなく眺めた。
封蝋の色が、同じだ。
1枚ではない。2枚、3枚——扇形に並んだ発注書の蝋印が、同じ型をしている。
私が今日抱えてきた控えの束にも、同じ赤みがある。同じ形。同じ押し方。
こんなに揃うものだろうか。
今日まわった4軒の商会の顔が浮かんだ。どこも同じ条件を出すときの間合いが——少し、似ていた気がした。
「……あの」
声が出ていた。余計なことかと思いながら、続けた。
「同じ印が、多くありませんか」
宰相は顔を上げ、机の上の紙束を眺めた。
指先が止まる。部屋が静かになった。
長い沈黙の後、宰相の指が束の端をゆっくりと揃えた。
「……同じ、か」
ひとりごとのような声。私は答えなかった。
「不作、ではないのかもしれない」
その言葉が部屋に落ちた瞬間、窓の外の空がほんの少し暗くなった気がした。
宰相の視線は私に向かず、もう一度紙束の端を揃えた。
私は何も答えられなかった。答えるべき言葉が見つからなかった。
◇
廊下へ出てから、あの言葉の重みがゆっくりと遅れて落ちてきた。
不作ではない。ならば何だ。
偶然ではない。ならば誰だ。
発注先の選択肢が最初から狭かったのは——誰かが、狭く作ったからかもしれない。
割高で買わせて、予算を膨らませて、穴へ誘導した手があったとしたら。
袖口を握った指先が、今度は熱かった。
怖いのか怒っているのか、自分でもわからない。
ただ確かなことが1つある。
あれほど揃った封蝋の印は——偶然に揃うはずがない。
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