表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「連載版」「献立なんて誰にでも組める」と婚約破棄された宮廷の配膳記録官ですが、帳面72冊が止まったら王宮の食卓も止まるようですよ  作者: 夢見叶
第1部 王宮が止まる/迎えが来る 第2章 8日目から、王宮が詰む

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/12

第4話 体面の前で、名前が途切れる

 銀の蓋が上がった瞬間、午餐会の空気が1度だけ固まった。


 白い皿の中央に、透けるように艶のある煮凝り。

 香草の匂いがふわりと立ち、給仕長は笑みを崩さずに目だけで合図を探した。


 ——いつもなら、ここで確認の返事が返ってくるはずだった。


 誰が試食し、誰が照合印を押し、どの禁忌欄に丸が付いたか。

 そういう当たり前が、皿の縁に見えない線で刻まれていた。


 今日は、その線を引く人間がいない。



 席の端、ルクセイア大使が前菜に静かに口をつけた。


 咀嚼が1拍、止まる。

 大使の喉仏が上下せず、代わりに視線だけが皿を見下ろした。


 次の瞬間、大使は何も言わずに食具を置いた。

 銀が布に触れる音が、やけに大きい。


 椅子の脚が、きし、と1度鳴る。

 大使は立ち上がり、背筋だけ真っ直ぐに出口へ向かった。


 追えない。

 追えば、体面が割れる。

 追わなければ、事故が確定する。


 指先がナプキンを掴み損ねた。

 白布がわずかに歪む。それを直すふりで時間を稼ぎ、言葉の続きを探した。


「……本日の前菜は、どうぞ——」


 声は出た。だが続きが、喉の奥で凍る。

 扉が閉まった瞬間、場に残された空気が一斉に冷えた。



 禁忌。宗教。外交。

 頭の中で3つが縦に並ぶ。


 ルクセイア正教は豚脂を忌む。

 一口で手が止まったということは、それだ。

 無言で退席された以上、謝罪の機会すら奪われる可能性がある。

 謝罪が遅れれば外交が死ぬ。早くとも根拠がなければ意味がない。


 3秒後、私はその意味の全部を整理し終えた。


 給仕長に囁く。


「……誰が、確かめた」


 給仕長の唇が動いたが、音にならない。


 私は袖の内側を探った。

 封蝋の写しを入れておく小箱——指が触れた瞬間、空だと分かった。

 小箱の底が、冷たく薄い。

 その感触が、背筋を通り抜けた。


 頭の中に、数日前に机へ置かれた薄い束が浮かぶ。

 引き継ぎ二十頁。軽い紙。軽すぎる。


 その紙のどこにも今この瞬間を止める一行がないことを、私はこの瞬間に初めて、体の問題として理解した。



   ◇



 会場を退いて、廊下で3回、呼吸をした。


 謝罪の書簡は即座に動かせる。

 だが謝罪には根拠が要る。

 「何を誤ったか」「誰が確認したか」「なぜ漏れたか」——それが書けない。

 根拠のない謝罪は言い訳より薄く、言い訳より危ない。



 宰相府の机へ戻ると、書記官がすでに羽ペンを持って待っていた。

 指先にインクの染みがある。


 清書が始まった瞬間、書記官の呼吸が浅くなった。

 外交書簡の禁忌確認欄。承認者の署名欄。照合日の記入欄。

 3つの欄の上で、ペン先が静止した。


「……この欄だけ、空きます」


 静かな声が告げた。

 書けない。書ける根拠がない。


 白い欄が、紙面の中で広がるように見えた。


 ——白紙のままでは、謝れない。



 書記官が緊張で肘をずらした拍子に、インク壺が傾いた。

 私は反射で紙束を引き上げた。

 外交書簡より先に紙を守ったことに気づいたが、今は笑えない。


 壺を押さえた書記官と私は、しばらく向き合ったまま何も言わなかった。

 事故は起きなかった。書簡は白いままで、解決は何もない。



   ◇



 翌日、厨房へ出向いた。

 責任の所在を問うためではない。

 何がどう壊れているか、自分の目で確かめなければならなかった。


 ボルドーは怒鳴らなかった。

 それが逆に重かった。


 油と煤の染みた腕を組み、竈の前で鍋の蓋を1つ、カチンと閉める。

 音だけで、手を動かしていた下働きが一斉に姿勢を正した。


 私は禁忌確認の手順を問うた。今残っている手順を。書面になっている手順を。


「確かめる人間が、いない」


 言い訳でも責任転嫁でもない。

 事実だけが、低く落ちてきた。


「前任が管理していた」——その言葉が、初めてボルドーの口から出た。

 声が沈む。



 廊下ではすでに「厨房の不手際」という言葉が歩いていた。

 「現場が確認を怠った」。

 「前任の引き継ぎが不十分だった」。

 体面を守るために責任の皿を動かそうとする声が、複数の方向から流れ始めている。


 私はその声を、厨房の入り口に立ちながら聞いた。

 そして封蝋写しの空き小箱を、袖の中でもう1度探った。


 ——違う。


 怠ったのは現場ではない。

 手順を形にして紙に残す者が、いなくなった。

 照合印の欄がなければ押しようがない。

 禁忌の写しをどの小箱に収めるかを知っていた人間が去れば、知識ごと消える。

 引き継ぎ二十頁には、そのどれも書かれていなかった。


 責任の矢印が、静かに反転した。

 現場の不手際ではない——制度ごと、記録ごと、消えていた。


 胃の奥が、冷たく固まる。

 これほど単純な構造が、事故として目の前に転がってくるまで見えていなかったという事実が、宰相府の当主として、私には一番痛かった。



   ◇



 夜、執務室に戻ると、書記官が算盤を弾いていた。

 宴会の経費の帳尻だ。


 弾いた玉が1つ飛んで、机の下へ転がった。

 私と書記官は無言でしゃがみ、玉を拾い、立ち上がって顔を見合わせた。


 何も言わなかった。

 玉は戻った。だが数字は戻らない。外交の穴は埋まらない。



 壁の行事板を見ると、冬の歓迎晩餐の札が立っていた。

 年に2度だけ王都へ来る辺境伯の席。

 大宴よりは小さい。だが失敗できない点は同じだ。


 外交書簡の修正を書きながら、根拠欄に「調査中」と書いた。

 書きながら、頭の縁に名前が浮かびかけた。


 照合印の欄がどこに要るかを知っていた人間。

 禁忌の写しを小箱に収める手順を作った人間。

 皿の縁に見えない線を引いていた人間。


 引き継ぎ二十頁の薄さが、今になって手のひらに蘇ってくる。

 七十二冊分の何かが、あの紙束の下に沈んでいた。


 書記官がいる間は、その名前を口にしなかった。



 廊下に出た。

 1人になってから、ようやく声に出そうとした。


「……彼女を——」


 喉が止まった。


 体面の問題ではない——などと言えば嘘になる。

 「彼女を呼べ」と言った瞬間、宰相府があの一人に頼っていたと認める言葉になる。

 しかしその計算より先に来たのは、別の重さだった。


 引き継ぎ二十頁を受け取った日、私は「充分だ」と言った。

 言ったのだ。


 行事板の冬の晩餐札が、廊下の明かりにかすかに揺れた。

 残された日数が、王宮の首を静かに締め続けている。


 名前は、喉の奥に落ちたまま、出てこなかった。

読んでいただき、ありがとうございます。


よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ